青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

歌人詠む 由良の戸渡る 大鉄橋。

2022年08月22日 17時00分00秒 | 京都丹後鉄道(丹鉄)

(舞鶴から宮津へ@地理院地図)

京都丹後鉄道、元々の国鉄宮津線(西舞鶴~豊岡間83.6km)と、新線建設された宮福線(福知山~宮津間30.4km)からなる第三セクターですが、よくよく考えたら総延長で114.0kmの路線を持つ三セクってそうないですよね。JRから山田線部分を譲り受けた三陸鉄道が160km超で全国で一番長いと思うのだけど、その次くらいなのかな。山と海が織り成す風光明媚な丹後半島の地方鉄道を、たった1泊2日で全部回り切るというのも大変なので、今回は主に旧・宮津線区域(西舞鶴~豊岡間)の探訪としました。新線建設された宮福線部分は、トンネルと高架橋が多く撮影する場所も少なそうに感じましたのでね。鉄建公団線なので、野岩線とか北越急行的な感じのボックスカルバートのコンクリ構造物が中心なんでしょうし・・・

まあそもそも来たこと自体が全くの直前の思い付きなんですが、京都丹後鉄道の旅を開始するにあたり「ここは!」という是非モノのポイントがありまして、それがこの丹後神崎~丹後由良間の「由良川橋梁」でした。京都府東部の丹波高地を水源として、日本海に注ぐ丹後地方の大河・由良川の河口に架かるこの橋は全長552m。ほぼ海と見まごうばかりの雄大な由良川の流れを、真っすぐに貫く鉄道橋梁。全部で25基の細かいコンクリート橋脚の上に、これもベーシックな上路プレートガーターの桁が載せられたビジュアルは、無駄を削ぎ落したシンプルな美しさに溢れています。今回の丹後行の旅程の中で、この鉄橋の周りをウロウロして撮影に費やした時間が何だかんだ一番多かったんでないのかなあ。周りの雄大な風景を邪魔せず触らず、どこからどう撮ってもそれなりに映えるという非常にフォトジェニックな構築物。それだけに、撮っても撮っても撮り飽きない底知れぬ魅力がありましたよねえ。

国道沿いの石浦という集落にあるのが、由良川橋梁を少し小高い位置から望む「オリーブの丘公園」。最近は誰も管理していないと見え、マント群落が生い茂りやや荒れ気味の公園ですが、ここから由良川橋梁を狙います。遠く栗田湾の先に見える島影は舞鶴大島と沓島(くつしま)か。丹後由良の駅を出た気動車のエンジンの音が遠くから聞こえて来て、鉄橋の上に踊り出した西舞鶴行きの218Dがファーストショット。「由良の戸を わたる舟人 楫(かじ)をたえ 行方もしらぬ 恋の道かな」という和歌、百人一首に選ばれているのでご存じの人も多いかと思われる。そんな風光明媚な由良川の風景。流れの速い由良の戸(由良川の河口)を渡る船人が船を操る櫂(かい)をなくしてしまったように、私の恋の行方もどうなるか分かったものではないなあ・・・という自らの恋路の行く末を案じた歌は、曽禰好忠(そねのよしただ)という歌人の作であるそうな。数多の船人たちを翻弄した由良の流れに橋を架け、舞鶴から宮津までの鉄道が開通したのは、1924年の事です。

橋の袂から思い切り圧縮して、連続する橋脚を強調するアングル。これも素晴らしい。大正時代に、単線とは言えこれだけの鉄橋を建設するのはなかなかの大工事だったのではないかと思われる。舞鶴からの線路の位置関係を鑑みれば、わざわざ川幅の広い河口部に作らなくても、4~5km上流の川幅が狭まった部分に短い橋を架けてさっさと由良川の左岸に出た方が良かったのではないかと考えてしまうのだが、どうも架橋を予定していた地区で反対運動があって現行のルートにせざるを得なかったらしい。私如きの浅知恵など、大正時代の鉄道技師たちが分からんわけはないという事か。ともあれ、反対運動がなければこんな見事な大鉄橋は建設されなかったのだから、鉄路の歴史も色々である。


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