以前(9/9)、当ブログ記事「『奈良を大いに学ぶ』講義録(4)南都仏教PARTⅡ.」のコメント欄で、常連コメンテーターの畳薦(たたみこも)さんから、以下のコメントをいただいた。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/048088be2e8c8f6af04e63c656e64036
《中国人はサンスクリットを中国語訳したのに、わが日本人はそれを、そのまま音読して「呪語」にしてしまった。(かつての日本人の中には)中国語訳で理解したり、サンスクリットで読んだエリートもいるだろうが、「お経」にしてしまった。「経」は真理のことだから中身を分からせて欲しかった。仏典、お経の現代語訳を望む》《仏像そのものを拝み、お経を呪文のごとくありがたがる。お坊さんは仏教の哲学を法事のおりにでも短くスピーチすべきだ》。
これには全く同意見で、法事の時など、お坊さんによっては2時間近く平気でお経を上げる人がいる。それも「般若心経」程度なら、私もいくつかの解説本を読んでいるので、意味はほとんど類推できるのであるが、その他のお経となると全くチンプンカンプン(珍紛漢文)である。
今思い出すと、子供の頃に少し通ったプロテスタントの教会では、日本語で聖書を読み、日本語で賛美歌を歌った。祖母に引かれて行った天理教の教会でも、分かりやすい日本語の「みかぐらうた(御神楽歌)」を歌った。なぜ仏教だけが、呪文のように漢訳仏典をそのまま音読するのだろう。かつてのエリート意識の残滓(ざんし)なのだろうか。
そう思っていたら朝日新聞の「オピニオン」欄(9/24付)に、お寺のご住職がこんなことを書いておられた。タイトルは「お経は日本語で 意味不明でありがたいのか」だ。筆者は真宗大谷派南溟寺(なんめいじ・大阪府泉大津市) 住職の戸次公正(べっき・こうしょう)氏である。一部を引用すると
《私は20年ほど前から法事の場で、お経を現代日本語で読む試みをしています》《寺に生まれ育ちながら、子ども心に「珍紛漢文(ちんぷんかんぷん)・意味不明」の読経に疑問を抱いてきました》。
《大学で仏教を学び始めた頃、たまたま木津無庵という人が編纂した本邦初の日本語訳のお経に出会いました。大正時代に作られた『新訳仏教聖典』という本です。現在、復刻もされています。それをもとにして形を変えたものが、今では主要なホテルの客室に聖書と並んで常備されている仏教聖典となりました。それらを資料にして私は独自のお経の本を作りました。内容は『浄土三部経』を抄出意訳したものと、親鸞聖人がつくった宗教詩『正信偈』や『三帰依文』(仏教徒の誓いの言葉)の拙訳などで構成しています。これらを私は法事の場で朗読しています》。
※『仏教聖典』の全文が読めるサイト
http://butto.j-7.net/seitentop2.htm
《たとえば回向文の「願以此功徳/平等施一切/同発菩提心/往生安楽国」は、「み仏の願いの大きなはたらきが、すべてのいのちに平等に恵まれて、めざめを求める心をひとつにして、共に生きる世界に向かって終わりのない歩みを続けていくことを」と読みます》《私は日本の仏教徒の忘れ物は、すべてのお経(一切経・大蔵経)の日本語訳が未完のままであることだと考えています。それは江戸時代の檀家制度で習俗化され、宗派意識で儀式化されてきた仏教が、お経を漢文で読誦する伝統のみを荘重なものとして保守し、固執しつづけているからではないでしょうか》。
※「お経を日本語で」という提案をされている真宗大谷派良覚寺(りょうかくじ)のサイト
http://www.cable-net.ne.jp/user/ryoukakuji/06new_butuji/gendaigo.html
《抵抗が一番強いのは宗門の僧侶たちです。中には賛同者もいますが、多くは「ありがたみがない」「漢文でないと深い意味が伝わらない」などと言います。これでは仏教は迷信と変わらなくなってしまいます。お経とは、目覚めた人・仏陀の教えです》《読んでわかり、聞いてうなずけるお経に遭うことが機縁となってこそ、より奥深い仏典の世界へのアプローチが広がるものと確信しています》。
これには全く同感である。『仏教聖典』は、ビジネスホテルなどで流し読みしたことがあるが、とても分かりやすい本である。広く読まれているものでは、瀬戸内寂聴さんの『美しいお経』(嶋中書店刊)がある。例えば《花の香は風の流れに逆らわない 栴檀(せんだん)も伽羅(きゃら)もジャスミンも けれども善い徳のある人々の香は 風に逆らっても進む 四方八方にその徳は流れていく》(法句経54番)。この意味を知っていればこそ、お経が有り難くなるというものではないか。
般若心経にしても、「この世は移り変わっているだけだ。生じても滅してもいない。汚れもせず、汚れを離れることもなく、増えも減りもしていない」(拙訳)と説けば、よく分かるだろう。
もちろん、以前ももんがさんが指摘されていたように、玄奘の「五種不翻(ごしゅふほん)」に該当するものは日本語訳すべきではない。それは、1.インドにあって中国にはない物の名前、2.たくさんの意味を含んでいて一言では訳しにくいもの、3.意味を解釈するより、原語の音感を保つ方が、神秘的な効果も加わり適切と思われる場合、その4.昔から使われていた音写で、すでに一般化していたもの、5.あえて翻訳すると真意が失われる恐れのあるもの、の5つである。
なお仏教の声明(しょうみょう)をゴスペル(Gospel music)にたとえる人がいる。確かに大勢のお坊さんが唱える声明は素晴らしいが、言葉の意味が分からないところが、ゴスペル(原義は福音、神の言葉)とは違う。
お坊さんから提起された「お経は日本語で」という提言、大きな声となって広がることを期待している。
※参考:戸次公正氏の「オピニオン」(朝日新聞)が全文掲載されたブログ記事。
http://kose99.blog32.fc2.com/blog-entry-956.html
※トップ写真は、興福寺仮金堂で行われた法要の1シーン(04.6.13 撮影)。10/17日(土)~11/23(月・祝)、ここで「お堂でみる阿修羅」が開催される。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/048088be2e8c8f6af04e63c656e64036
《中国人はサンスクリットを中国語訳したのに、わが日本人はそれを、そのまま音読して「呪語」にしてしまった。(かつての日本人の中には)中国語訳で理解したり、サンスクリットで読んだエリートもいるだろうが、「お経」にしてしまった。「経」は真理のことだから中身を分からせて欲しかった。仏典、お経の現代語訳を望む》《仏像そのものを拝み、お経を呪文のごとくありがたがる。お坊さんは仏教の哲学を法事のおりにでも短くスピーチすべきだ》。
これには全く同意見で、法事の時など、お坊さんによっては2時間近く平気でお経を上げる人がいる。それも「般若心経」程度なら、私もいくつかの解説本を読んでいるので、意味はほとんど類推できるのであるが、その他のお経となると全くチンプンカンプン(珍紛漢文)である。
今思い出すと、子供の頃に少し通ったプロテスタントの教会では、日本語で聖書を読み、日本語で賛美歌を歌った。祖母に引かれて行った天理教の教会でも、分かりやすい日本語の「みかぐらうた(御神楽歌)」を歌った。なぜ仏教だけが、呪文のように漢訳仏典をそのまま音読するのだろう。かつてのエリート意識の残滓(ざんし)なのだろうか。
そう思っていたら朝日新聞の「オピニオン」欄(9/24付)に、お寺のご住職がこんなことを書いておられた。タイトルは「お経は日本語で 意味不明でありがたいのか」だ。筆者は真宗大谷派南溟寺(なんめいじ・大阪府泉大津市) 住職の戸次公正(べっき・こうしょう)氏である。一部を引用すると
《私は20年ほど前から法事の場で、お経を現代日本語で読む試みをしています》《寺に生まれ育ちながら、子ども心に「珍紛漢文(ちんぷんかんぷん)・意味不明」の読経に疑問を抱いてきました》。
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《大学で仏教を学び始めた頃、たまたま木津無庵という人が編纂した本邦初の日本語訳のお経に出会いました。大正時代に作られた『新訳仏教聖典』という本です。現在、復刻もされています。それをもとにして形を変えたものが、今では主要なホテルの客室に聖書と並んで常備されている仏教聖典となりました。それらを資料にして私は独自のお経の本を作りました。内容は『浄土三部経』を抄出意訳したものと、親鸞聖人がつくった宗教詩『正信偈』や『三帰依文』(仏教徒の誓いの言葉)の拙訳などで構成しています。これらを私は法事の場で朗読しています》。
※『仏教聖典』の全文が読めるサイト
http://butto.j-7.net/seitentop2.htm
《たとえば回向文の「願以此功徳/平等施一切/同発菩提心/往生安楽国」は、「み仏の願いの大きなはたらきが、すべてのいのちに平等に恵まれて、めざめを求める心をひとつにして、共に生きる世界に向かって終わりのない歩みを続けていくことを」と読みます》《私は日本の仏教徒の忘れ物は、すべてのお経(一切経・大蔵経)の日本語訳が未完のままであることだと考えています。それは江戸時代の檀家制度で習俗化され、宗派意識で儀式化されてきた仏教が、お経を漢文で読誦する伝統のみを荘重なものとして保守し、固執しつづけているからではないでしょうか》。
※「お経を日本語で」という提案をされている真宗大谷派良覚寺(りょうかくじ)のサイト
http://www.cable-net.ne.jp/user/ryoukakuji/06new_butuji/gendaigo.html
《抵抗が一番強いのは宗門の僧侶たちです。中には賛同者もいますが、多くは「ありがたみがない」「漢文でないと深い意味が伝わらない」などと言います。これでは仏教は迷信と変わらなくなってしまいます。お経とは、目覚めた人・仏陀の教えです》《読んでわかり、聞いてうなずけるお経に遭うことが機縁となってこそ、より奥深い仏典の世界へのアプローチが広がるものと確信しています》。
これには全く同感である。『仏教聖典』は、ビジネスホテルなどで流し読みしたことがあるが、とても分かりやすい本である。広く読まれているものでは、瀬戸内寂聴さんの『美しいお経』(嶋中書店刊)がある。例えば《花の香は風の流れに逆らわない 栴檀(せんだん)も伽羅(きゃら)もジャスミンも けれども善い徳のある人々の香は 風に逆らっても進む 四方八方にその徳は流れていく》(法句経54番)。この意味を知っていればこそ、お経が有り難くなるというものではないか。
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般若心経にしても、「この世は移り変わっているだけだ。生じても滅してもいない。汚れもせず、汚れを離れることもなく、増えも減りもしていない」(拙訳)と説けば、よく分かるだろう。
もちろん、以前ももんがさんが指摘されていたように、玄奘の「五種不翻(ごしゅふほん)」に該当するものは日本語訳すべきではない。それは、1.インドにあって中国にはない物の名前、2.たくさんの意味を含んでいて一言では訳しにくいもの、3.意味を解釈するより、原語の音感を保つ方が、神秘的な効果も加わり適切と思われる場合、その4.昔から使われていた音写で、すでに一般化していたもの、5.あえて翻訳すると真意が失われる恐れのあるもの、の5つである。
なお仏教の声明(しょうみょう)をゴスペル(Gospel music)にたとえる人がいる。確かに大勢のお坊さんが唱える声明は素晴らしいが、言葉の意味が分からないところが、ゴスペル(原義は福音、神の言葉)とは違う。
お坊さんから提起された「お経は日本語で」という提言、大きな声となって広がることを期待している。
※参考:戸次公正氏の「オピニオン」(朝日新聞)が全文掲載されたブログ記事。
http://kose99.blog32.fc2.com/blog-entry-956.html
※トップ写真は、興福寺仮金堂で行われた法要の1シーン(04.6.13 撮影)。10/17日(土)~11/23(月・祝)、ここで「お堂でみる阿修羅」が開催される。