紹介が遅くなってしまった。産経新聞奈良版・三重版に好評連載中の「なら再発見」、5/24付は「奈良晒 制作技術の継承期待」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石川一雄氏(奈良市在住)だ。石田さんは、相変わらず健筆を揮っておられ、ネタは尽きないようだ。私も、ぼちぼち次の原稿に取りかからなければ…。では、全文を紹介する。
奈良晒(さらし)は、江戸時代に奈良の町を中心に生産された高級麻織物だ。武士や町人の礼服や夏の衣料に使われ、「麻の最上は南都なり、近国よりその品数々出れども染めて色よく着て身にまとわず汗をはじく故に世に奈良晒とて重宝するなり」と称賛された。
もともとは、室町時代から寺院の僧衣用に麻織物が作られていたと伝わる。安土桃山時代に、清須美(きよすみ)源四郎が晒しの方法を改良して評判となった。
江戸時代には「御用布(ごようふ)」として幕府の庇護(ひご)を受けて商業生産がはじまり、南都随一の産業として発展。「町中十の物九つは布一色にて渡世仕(つかまつ)り候(そうろう)」といわれた。
奈良晒の生産は糸つくり、織り、晒しの3工程に分かれる。原料の青(あおそ)は麻の一種で「からむし」とも呼ばれる苧麻(ちょま)の繊維を精製加工したもので、越後地方や最上地方などから取り寄せた。糸つくりや織りは、問屋が介在して農村女子の家内副業として行われ、仕上げ加工の晒しは南都近郊の般若寺村と疋田(ひきた)村(いずれも現在の奈良市)の専門業者が行った。
※ ※ ※
生産のピークは元禄期。その後、越後上布(じょうふ)、近江上布など他国産との競争に勝てず、明治維新で武士という最大の市場を失って衰退していったが、江戸時代を通じて最高級の麻織物とされた。
茶巾(ちゃきん)は茶道の点前(てまえ)で茶碗(ちゃわん)を拭くための布であるが、奈良晒の茶巾は千利休好みの高級品として現在まで珍重されてきている。
繁栄のなごりは奈良市水門町の名庭・依水(いすい)園に残っている。2つに分かれる庭園のうち、前園は江戸時代に清須美道清が造り、後園(こうえん)は明治時代に関藤次郎が造ったが、いずれも奈良晒業者だった。明治時代まで近くを流れる吉城川(よしきがわ)に晒場(さらしば)があったという。
奈良市月ヶ瀬では、江戸時代から農閑期の副業として糸つくりや織りが行われてきた。大和高原の山間部に位置する稲作に適した平地の少ない土地で、貴重な現金収入源だったこともあり、明治以降もその技術が保存されてきた。よった糸が切れないよう、湿気の多い土間においた織機で冬の厳冬期に作業するのは大変つらいものだったという。
※ ※ ※
昭和54年、奈良晒の紡織技術が奈良県の無形文化財に指定された。
その伝統技術を唯一保存継承しているのが、月ヶ瀬奈良晒保存会(猪岡益一会長)だ。
月ケ瀬奈良晒保存会のメンバーが製作した高級麻織物「奈良晒」の作品
毎週水曜日、農林漁業体験実習館「ロマントピア月ヶ瀬」で奈良晒伝承教室が開かれている。現在の会員数は28人。糸つくりから織りまでの複雑な工程を先輩から学びつつ製作に励んでいる。
群馬県東吾妻(あがつま)町の伝統工芸品で最上級の麻といわれる「岩島麻」を材料に、手で繊維をつなぐ糸つくりの工程「苧績(おう)み」から始める。織機にかける量の糸を用意し織機にかけるまでに6カ月以上、織りに1カ月以上。1反の布をつくるのに1年近くかかるという。
できあがった作品は販売していないが、毎年3月梅まつりの時期に「春の作品展」が開催される。
まれにだが、依頼を受けて製作することもある。京都の元遊郭・島原にある元料亭の角屋(すみや)(現在は角屋もてなしの文化美術館)の入り口にかかる紋入り暖簾(のれん)は、会員が分担して製作したものだ。
商業生産としては岡井麻布商店(奈良市田原地区)や中川政七商店(奈良市元林院(がんりいん)町)で、手織り生産が続けられており、奈良市内の店舗やネットで販売されている。
伝統ある奈良晒の製作技術を絶やさず、若い世代にも受け継いでいってもらいたい。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
奈良晒のことは、『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社)にも登場する。
麻の織物で肌ざわりがよく、汗もはじくので、鎌倉期以来、神官や僧尼の衣に好まれてきた。江戸時代初め、清須美源四郎が晒法を改良、徳川家康に誉められ、幕府の保護を受けて販路も拡大した。明暦三年(一六五七)、奈良町の惣年寄が麻布に検査印を押すことになった後、半世紀余が生産の最盛期であった。毎年三十万疋から四十万疋(一疋は二反)の産額で、南都随一の産業といわれた。
原料の青苧(乾燥した麻皮)は山形・秋田などの東北から、北陸からは糸にして送られてきた。仲買は賃織りに出し、製品は晒問屋に売り、問屋はそれを晒屋に出した。晒屋は、その織布を藁灰の灰汁で煮て、木臼でつき、何回も灰汁をかけ晴天に乾かした。これで、白く光沢がでて、染めても美しい上布になる。十八世紀の半ば近くから、越後・近江・能登などの他国布の台頭で、幕末には数万疋と沈滞した。永らく、独占的な立場と名声に馴れて、販路の拡大、品質向上への努力をしなかったからである。今、技術・技法の保存と新規需要の開拓を進めている。
奈良検定では「江戸時代、南都(=奈良)随一の産業といわれた伝統工芸品は何か」、というように出題される。一方、綿(木綿)は「和州第一之売物」とされていたので、これがよくヒッカケに使われる。この際、ちゃんと覚えていただきたい。
テキストは《永らく、独占的な立場と名声に馴れて、販路の拡大、品質向上への努力をしなかった》と厳しく指摘をしつつも《技術・技法の保存と新規需要の開拓を進めている》とあり、それが月ヶ瀬奈良晒保存会の活動だったのだ。28人の会員が、こんな努力をされていたとは、初めて知った。
石田さん、興味深いお話を有難うございました!
奈良晒(さらし)は、江戸時代に奈良の町を中心に生産された高級麻織物だ。武士や町人の礼服や夏の衣料に使われ、「麻の最上は南都なり、近国よりその品数々出れども染めて色よく着て身にまとわず汗をはじく故に世に奈良晒とて重宝するなり」と称賛された。
もともとは、室町時代から寺院の僧衣用に麻織物が作られていたと伝わる。安土桃山時代に、清須美(きよすみ)源四郎が晒しの方法を改良して評判となった。
江戸時代には「御用布(ごようふ)」として幕府の庇護(ひご)を受けて商業生産がはじまり、南都随一の産業として発展。「町中十の物九つは布一色にて渡世仕(つかまつ)り候(そうろう)」といわれた。
奈良晒の生産は糸つくり、織り、晒しの3工程に分かれる。原料の青(あおそ)は麻の一種で「からむし」とも呼ばれる苧麻(ちょま)の繊維を精製加工したもので、越後地方や最上地方などから取り寄せた。糸つくりや織りは、問屋が介在して農村女子の家内副業として行われ、仕上げ加工の晒しは南都近郊の般若寺村と疋田(ひきた)村(いずれも現在の奈良市)の専門業者が行った。
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生産のピークは元禄期。その後、越後上布(じょうふ)、近江上布など他国産との競争に勝てず、明治維新で武士という最大の市場を失って衰退していったが、江戸時代を通じて最高級の麻織物とされた。
茶巾(ちゃきん)は茶道の点前(てまえ)で茶碗(ちゃわん)を拭くための布であるが、奈良晒の茶巾は千利休好みの高級品として現在まで珍重されてきている。
繁栄のなごりは奈良市水門町の名庭・依水(いすい)園に残っている。2つに分かれる庭園のうち、前園は江戸時代に清須美道清が造り、後園(こうえん)は明治時代に関藤次郎が造ったが、いずれも奈良晒業者だった。明治時代まで近くを流れる吉城川(よしきがわ)に晒場(さらしば)があったという。
奈良市月ヶ瀬では、江戸時代から農閑期の副業として糸つくりや織りが行われてきた。大和高原の山間部に位置する稲作に適した平地の少ない土地で、貴重な現金収入源だったこともあり、明治以降もその技術が保存されてきた。よった糸が切れないよう、湿気の多い土間においた織機で冬の厳冬期に作業するのは大変つらいものだったという。
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昭和54年、奈良晒の紡織技術が奈良県の無形文化財に指定された。
その伝統技術を唯一保存継承しているのが、月ヶ瀬奈良晒保存会(猪岡益一会長)だ。
月ケ瀬奈良晒保存会のメンバーが製作した高級麻織物「奈良晒」の作品
毎週水曜日、農林漁業体験実習館「ロマントピア月ヶ瀬」で奈良晒伝承教室が開かれている。現在の会員数は28人。糸つくりから織りまでの複雑な工程を先輩から学びつつ製作に励んでいる。
群馬県東吾妻(あがつま)町の伝統工芸品で最上級の麻といわれる「岩島麻」を材料に、手で繊維をつなぐ糸つくりの工程「苧績(おう)み」から始める。織機にかける量の糸を用意し織機にかけるまでに6カ月以上、織りに1カ月以上。1反の布をつくるのに1年近くかかるという。
できあがった作品は販売していないが、毎年3月梅まつりの時期に「春の作品展」が開催される。
まれにだが、依頼を受けて製作することもある。京都の元遊郭・島原にある元料亭の角屋(すみや)(現在は角屋もてなしの文化美術館)の入り口にかかる紋入り暖簾(のれん)は、会員が分担して製作したものだ。
商業生産としては岡井麻布商店(奈良市田原地区)や中川政七商店(奈良市元林院(がんりいん)町)で、手織り生産が続けられており、奈良市内の店舗やネットで販売されている。
伝統ある奈良晒の製作技術を絶やさず、若い世代にも受け継いでいってもらいたい。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
奈良晒のことは、『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社)にも登場する。
麻の織物で肌ざわりがよく、汗もはじくので、鎌倉期以来、神官や僧尼の衣に好まれてきた。江戸時代初め、清須美源四郎が晒法を改良、徳川家康に誉められ、幕府の保護を受けて販路も拡大した。明暦三年(一六五七)、奈良町の惣年寄が麻布に検査印を押すことになった後、半世紀余が生産の最盛期であった。毎年三十万疋から四十万疋(一疋は二反)の産額で、南都随一の産業といわれた。
原料の青苧(乾燥した麻皮)は山形・秋田などの東北から、北陸からは糸にして送られてきた。仲買は賃織りに出し、製品は晒問屋に売り、問屋はそれを晒屋に出した。晒屋は、その織布を藁灰の灰汁で煮て、木臼でつき、何回も灰汁をかけ晴天に乾かした。これで、白く光沢がでて、染めても美しい上布になる。十八世紀の半ば近くから、越後・近江・能登などの他国布の台頭で、幕末には数万疋と沈滞した。永らく、独占的な立場と名声に馴れて、販路の拡大、品質向上への努力をしなかったからである。今、技術・技法の保存と新規需要の開拓を進めている。
奈良検定では「江戸時代、南都(=奈良)随一の産業といわれた伝統工芸品は何か」、というように出題される。一方、綿(木綿)は「和州第一之売物」とされていたので、これがよくヒッカケに使われる。この際、ちゃんと覚えていただきたい。
テキストは《永らく、独占的な立場と名声に馴れて、販路の拡大、品質向上への努力をしなかった》と厳しく指摘をしつつも《技術・技法の保存と新規需要の開拓を進めている》とあり、それが月ヶ瀬奈良晒保存会の活動だったのだ。28人の会員が、こんな努力をされていたとは、初めて知った。
石田さん、興味深いお話を有難うございました!