金峯山寺長臈(ちょうろう)の田中利典師はとても立派な宗教者で、岡本彰夫師(元春日大社権宮司)とともに私淑申し上げている。本来は近寄りがたいお方なのだが、年齢が近いのと長年の吉田拓郎ファンという共通点があるので、親しくしていただいている。先日(4/29~30)は「りてんさんといく蔵王堂夜間拝観と修験講座」にも、お誘いいただいた。
※トップ写真は、「りてんさんといく蔵王堂夜間拝観と修験講座」(4/29)で撮影
そんな利典師が中外日報(宗教・文化の専門紙)「随想随筆」欄に、4回の連載をスタートされた。師はFacebookに《中外日報から依頼を受けた「随想随筆」全4回の第1回分です。すでに正垣さんからFBではご紹介をしていただいておりますが、記者から本編が届いたのでアップします。よろしければご覧下さい》とお書きである。記事(5/13付)の画像がFacebookに出ていたので、以下、全文を最新鋭パソコンのキーボードから打ち込んでみる。
山の行より里の行/ネットワークを生かして
昨年、齢(よわい)60を無事迎え、長年勤めた金峯山寺の重役職を勇退し、京都府下綾部の自坊に帰山した。「40、50は洟(はな)垂れ小僧」が相場の僧侶の世界では、60歳での引退はかなり勿体(もったい)ないかもしれない。私は15歳で家を出て、天台宗と浄土真宗の学校で学び、26歳で吉野の金峯山寺に入寺した。その後、教学部長、宗務総長と役職を歴任し、また家庭をもうけて1女3男も授かった。その間、何度か帰郷しようとしたがその都度呼び返され、単身赴任も長く送った。
こういう生活がまだまだ続くかなと思っていたが、諸般の事情で昨年、終止符が打たれた。ようやく洟垂れ小僧から1人前の年齢を迎える矢先のことなので、自分自身でも心残りなところもあった。でも、70歳になって故郷に帰ったのでは何の役にも立たないし、新たなことなど何もできないと思いを致した。お山の上にいてはできないことが里に下りればたくさんできる。もともと、私たち修験の世界では「山の行より里の行」という教えがあり、山で修行した力を里の生活で生かしてこそ、その修行に意味がある。
今年4月から地元綾部のFM局コミュニティーラジオで毎週、コメンテーターを務めることになり、「りてんさんの知人友人探訪」というコーナーも新設し、吉野生活で培ったネットワークからいろんな方に登場いただいている。第1回は高野山大学名誉教授の村上保壽(やすとし)さん。その後、空援隊専務理事の倉田宇山(うさん)さん、聖護院の宮城泰年(みやぎ・たいねん)門主と続き、この後も東大寺の狭川普文(さがわ・ふもん)新別当や九鬼家隆(くき・いえたか)熊野本宮大社宮司、私の実弟・五條良知金峯山寺管領など、知己の宗教者に大いに語ってもらう予定である。
無仏の時代というか、末法というのか、現代社会は宗教離れが著しい。一方で、仏像ブームや、パワースポット・ご朱印帳ブームなど、宗教の周辺に関心を抱く世代も多い。要は時代に沿った形で宗教者側がどう答えていくかが問われていると言ってよいのかもしれない。私自身がそこのところで何ができるか、絶好の機会を与えられたのだと思っているのである。
師は、この記事をFacebookで紹介したあと《正直にいいますが、こういうことをいう、厚顔無恥な自分にコンプレックスをかんじますが、真実の魂の訴えなのです》とコメントされている。それはおそらく最終段落のあたりなのだろうが、「時代に沿った形で宗教者側がどう答えていくかが問われている」というのはまさにその通りだし、「そこのところで何ができるか、絶好の機会を与えられたのだと思っている」という師の今後の宗教活動には、大いに期待している。
わが国で最大の「除災招福を祈る悔過(けか)法要」であるお水取り(東大寺二月堂修二会)のまっ最中に東日本大震災が起き、「お坊さんの祈りの声は、仏さまに届いていないのではないか」「それでなぜ、鎮護国家(仏教によって国を鎮め守る)なのか」という声が上がった。現代の宗教者は、このような問いに答えていかなければならない。それが「里の行」ということなのか。
師の随筆随想はあと3回。これからの展開が楽しみだ。
※トップ写真は、「りてんさんといく蔵王堂夜間拝観と修験講座」(4/29)で撮影
そんな利典師が中外日報(宗教・文化の専門紙)「随想随筆」欄に、4回の連載をスタートされた。師はFacebookに《中外日報から依頼を受けた「随想随筆」全4回の第1回分です。すでに正垣さんからFBではご紹介をしていただいておりますが、記者から本編が届いたのでアップします。よろしければご覧下さい》とお書きである。記事(5/13付)の画像がFacebookに出ていたので、以下、全文を最新鋭パソコンのキーボードから打ち込んでみる。
山の行より里の行/ネットワークを生かして
昨年、齢(よわい)60を無事迎え、長年勤めた金峯山寺の重役職を勇退し、京都府下綾部の自坊に帰山した。「40、50は洟(はな)垂れ小僧」が相場の僧侶の世界では、60歳での引退はかなり勿体(もったい)ないかもしれない。私は15歳で家を出て、天台宗と浄土真宗の学校で学び、26歳で吉野の金峯山寺に入寺した。その後、教学部長、宗務総長と役職を歴任し、また家庭をもうけて1女3男も授かった。その間、何度か帰郷しようとしたがその都度呼び返され、単身赴任も長く送った。
こういう生活がまだまだ続くかなと思っていたが、諸般の事情で昨年、終止符が打たれた。ようやく洟垂れ小僧から1人前の年齢を迎える矢先のことなので、自分自身でも心残りなところもあった。でも、70歳になって故郷に帰ったのでは何の役にも立たないし、新たなことなど何もできないと思いを致した。お山の上にいてはできないことが里に下りればたくさんできる。もともと、私たち修験の世界では「山の行より里の行」という教えがあり、山で修行した力を里の生活で生かしてこそ、その修行に意味がある。
今年4月から地元綾部のFM局コミュニティーラジオで毎週、コメンテーターを務めることになり、「りてんさんの知人友人探訪」というコーナーも新設し、吉野生活で培ったネットワークからいろんな方に登場いただいている。第1回は高野山大学名誉教授の村上保壽(やすとし)さん。その後、空援隊専務理事の倉田宇山(うさん)さん、聖護院の宮城泰年(みやぎ・たいねん)門主と続き、この後も東大寺の狭川普文(さがわ・ふもん)新別当や九鬼家隆(くき・いえたか)熊野本宮大社宮司、私の実弟・五條良知金峯山寺管領など、知己の宗教者に大いに語ってもらう予定である。
無仏の時代というか、末法というのか、現代社会は宗教離れが著しい。一方で、仏像ブームや、パワースポット・ご朱印帳ブームなど、宗教の周辺に関心を抱く世代も多い。要は時代に沿った形で宗教者側がどう答えていくかが問われていると言ってよいのかもしれない。私自身がそこのところで何ができるか、絶好の機会を与えられたのだと思っているのである。
師は、この記事をFacebookで紹介したあと《正直にいいますが、こういうことをいう、厚顔無恥な自分にコンプレックスをかんじますが、真実の魂の訴えなのです》とコメントされている。それはおそらく最終段落のあたりなのだろうが、「時代に沿った形で宗教者側がどう答えていくかが問われている」というのはまさにその通りだし、「そこのところで何ができるか、絶好の機会を与えられたのだと思っている」という師の今後の宗教活動には、大いに期待している。
わが国で最大の「除災招福を祈る悔過(けか)法要」であるお水取り(東大寺二月堂修二会)のまっ最中に東日本大震災が起き、「お坊さんの祈りの声は、仏さまに届いていないのではないか」「それでなぜ、鎮護国家(仏教によって国を鎮め守る)なのか」という声が上がった。現代の宗教者は、このような問いに答えていかなければならない。それが「里の行」ということなのか。
師の随筆随想はあと3回。これからの展開が楽しみだ。
