今年(2016年)4月から奈良日日新聞に「奈良ものろーぐ」というコーナーをいただき、毎月1回(第4金曜日)連載している。奈良のスグレモノ、流行りもの、ゆかりの人物を紹介する、という趣旨である。第2回(5/27)のテーマは「鍵屋と玉屋」で、見出しは「両国の花火 ルーツは五條」(第1回は「吉野杉」)。
江戸の花火屋「鍵屋(かぎや)」の創業者は五條の出身。その手代が独立して開いたのが「玉屋(たまや)」だ。鍵屋の初代は五條新町で火薬の扱いを覚えた。当時、新町には鉄砲火薬の製造所があったのだ! 知られざる郷土の人物誌…。では以下、全文を紹介する。
※トップは記事中の写真で、キャプションは「やまとの夏まつり」の花火。ずいぶん以前に撮影した
鍵屋と玉屋/両国の花火 ルーツは五條
落語でおなじみの「かぎやー、たまやー」、両国の川開き大花火(現在の隅田川花火大会)のかけ声だ。江戸の花火屋・鍵屋創業者の弥兵衛は、篠原(五條市大塔町)の出身である。篠原は今も毎年1月25日の「篠原踊り」で知られる。玉屋は、鍵屋の手代が別家(分家)して開業した店だ。
江戸時代、五條新町には合薬調合所(鉄砲火薬の製造所)があった。当時、火薬は五條の特産品だったのだ。篠原から奉公に出てきた弥兵衛は、ここで火薬を扱う技術を学んだ。「弥兵衛さんは大変真面目な勉強家で僅(わず)かの年月で火薬製造の技術に熟達」(『火薬と保安』1977年第3号)したという。川原の葦(あし)の茎に火薬玉などを詰め、手持ちの吹き出し花火を考案し評判になったことから、「江戸に上って花火屋になることに決心した」(同)。
花火を売りつつ江戸に出た弥兵衛は万治2年(1659)、鍵屋を開業した。「初代の弥兵衛は研究熱心だったとみえて、その後も大型花火の実験を重ね、とうとう享保2(1717)年には水神祭りの夜に献上花火を打ち上げてみせて、後々の川開き花火の先鞭をつけた。弥兵衛が江戸に出て玩具花火を手がけて以来、人に見せるに足りる大型の花火を打ち上げるまでには58年の歳月を要したことになる」(小勝郷右著『花火-火の芸術』岩波新書)。
両国大川の川開きで花火が打ち上げられるようになったのは、享保18年(1733)5月28日。川開き当日だけではなく、納涼期間中、江戸大店の旦那衆は涼み船を浮かべ、競って花火を打ち上げた。
鍵屋が六代目弥兵衛の時代となった文化6年(1809)、手代の清吉が別家して花火屋を開業した。鍵屋は稲荷神を信仰していた。狐がくわえているのは玉と鍵。これは霊力(玉)とそれを引き出す鍵、という意味だ。弥兵衛は清吉に玉を与え玉屋として独立させた。以来、川開き大花火は鍵屋と玉屋の競演時代を迎える。
ところが天保14年(1843)、玉屋から失火、町並みを半丁ほど類焼させてしまった。運悪くこの日は将軍家慶(いえよし)が、家康を祀る日光東照宮へ出立する前日であったため、玉屋は財産没収、江戸追放となる。
一方の鍵屋は十二代弥兵衛のとき「大東亜戦で昭和16年煙火(花火)の製造が全面的に禁止となり廃業の止むなきに至った。昭和40年天野道夫さんに鍵屋ののれんを譲った」(『鉄砲史研究 第82号』1976年9月)。鍵屋は現在、株式会社宗家花火鍵屋(東京都江戸川区小松川)として天野修氏(鍵屋十四代)が経営にあたっている。天野氏は平成26年、江戸川区文化功績賞も受賞された。まもなく花火の季節。五條がルーツの「かぎやー」、その創業精神を、花火を見ながら思い起こしていただきたい。
鍵屋の創業者が五條の出身ということは以前、五條市の観光ボランティアガイドさんから伺っていた。しかしそれは「たまたま五條生まれということなのだろう」と理解していた。「奈良シニア大学」の入学式(4/14)で岩井洋氏(奈良シニア大学学長・帝塚山大学学長)による「『奈良学』への招待」という記念講演があり、そこで「五條新町に、鉄砲火薬の製造所があった」というお話を聞き、やっと話がつながった。五條新町は祖母(父の母)の出身地なので、思い入れがある。
しかし何しろ資料が乏しいので困り果て、五條市にお住まいの櫻井秀清さん(前「五條市観光ボランティアガイドの会」会長)に相談すると、五條文化博物館館長の藤井正英氏をご紹介いただき、貴重な資料を入手することができた。このようなご協力がなければ、到底1本の記事にまとめることはできなかった。この場で厚く御礼申し上げます。
「奈良ものろーぐ」、ネタはたっぷり。次回(6/25)もお楽しみに!
江戸の花火屋「鍵屋(かぎや)」の創業者は五條の出身。その手代が独立して開いたのが「玉屋(たまや)」だ。鍵屋の初代は五條新町で火薬の扱いを覚えた。当時、新町には鉄砲火薬の製造所があったのだ! 知られざる郷土の人物誌…。では以下、全文を紹介する。
※トップは記事中の写真で、キャプションは「やまとの夏まつり」の花火。ずいぶん以前に撮影した
鍵屋と玉屋/両国の花火 ルーツは五條
落語でおなじみの「かぎやー、たまやー」、両国の川開き大花火(現在の隅田川花火大会)のかけ声だ。江戸の花火屋・鍵屋創業者の弥兵衛は、篠原(五條市大塔町)の出身である。篠原は今も毎年1月25日の「篠原踊り」で知られる。玉屋は、鍵屋の手代が別家(分家)して開業した店だ。
江戸時代、五條新町には合薬調合所(鉄砲火薬の製造所)があった。当時、火薬は五條の特産品だったのだ。篠原から奉公に出てきた弥兵衛は、ここで火薬を扱う技術を学んだ。「弥兵衛さんは大変真面目な勉強家で僅(わず)かの年月で火薬製造の技術に熟達」(『火薬と保安』1977年第3号)したという。川原の葦(あし)の茎に火薬玉などを詰め、手持ちの吹き出し花火を考案し評判になったことから、「江戸に上って花火屋になることに決心した」(同)。
花火を売りつつ江戸に出た弥兵衛は万治2年(1659)、鍵屋を開業した。「初代の弥兵衛は研究熱心だったとみえて、その後も大型花火の実験を重ね、とうとう享保2(1717)年には水神祭りの夜に献上花火を打ち上げてみせて、後々の川開き花火の先鞭をつけた。弥兵衛が江戸に出て玩具花火を手がけて以来、人に見せるに足りる大型の花火を打ち上げるまでには58年の歳月を要したことになる」(小勝郷右著『花火-火の芸術』岩波新書)。
両国大川の川開きで花火が打ち上げられるようになったのは、享保18年(1733)5月28日。川開き当日だけではなく、納涼期間中、江戸大店の旦那衆は涼み船を浮かべ、競って花火を打ち上げた。
鍵屋が六代目弥兵衛の時代となった文化6年(1809)、手代の清吉が別家して花火屋を開業した。鍵屋は稲荷神を信仰していた。狐がくわえているのは玉と鍵。これは霊力(玉)とそれを引き出す鍵、という意味だ。弥兵衛は清吉に玉を与え玉屋として独立させた。以来、川開き大花火は鍵屋と玉屋の競演時代を迎える。
ところが天保14年(1843)、玉屋から失火、町並みを半丁ほど類焼させてしまった。運悪くこの日は将軍家慶(いえよし)が、家康を祀る日光東照宮へ出立する前日であったため、玉屋は財産没収、江戸追放となる。
一方の鍵屋は十二代弥兵衛のとき「大東亜戦で昭和16年煙火(花火)の製造が全面的に禁止となり廃業の止むなきに至った。昭和40年天野道夫さんに鍵屋ののれんを譲った」(『鉄砲史研究 第82号』1976年9月)。鍵屋は現在、株式会社宗家花火鍵屋(東京都江戸川区小松川)として天野修氏(鍵屋十四代)が経営にあたっている。天野氏は平成26年、江戸川区文化功績賞も受賞された。まもなく花火の季節。五條がルーツの「かぎやー」、その創業精神を、花火を見ながら思い起こしていただきたい。
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本稿着想のヒントは岩井洋氏(帝塚山大学学長)、参考文献は藤井正英氏(市立五條文化博物館館長)からご教示いただきました。=毎月第4週連載=鍵屋の創業者が五條の出身ということは以前、五條市の観光ボランティアガイドさんから伺っていた。しかしそれは「たまたま五條生まれということなのだろう」と理解していた。「奈良シニア大学」の入学式(4/14)で岩井洋氏(奈良シニア大学学長・帝塚山大学学長)による「『奈良学』への招待」という記念講演があり、そこで「五條新町に、鉄砲火薬の製造所があった」というお話を聞き、やっと話がつながった。五條新町は祖母(父の母)の出身地なので、思い入れがある。
しかし何しろ資料が乏しいので困り果て、五條市にお住まいの櫻井秀清さん(前「五條市観光ボランティアガイドの会」会長)に相談すると、五條文化博物館館長の藤井正英氏をご紹介いただき、貴重な資料を入手することができた。このようなご協力がなければ、到底1本の記事にまとめることはできなかった。この場で厚く御礼申し上げます。
「奈良ものろーぐ」、ネタはたっぷり。次回(6/25)もお楽しみに!