金峯山寺長臈(ちょうろう)の田中利典師が中外日報(宗教・文化の専門紙)に4回連載される「随想随筆」の第2回(5/20付)を紹介する(第1回は、こちら)。師のブログ「山人のあるがままに」に掲載された。
※トップ写真は「りてんさんといく蔵王堂夜間拝観と修験講座」(4/29)で。お隣りは田中ひろみ女史
今回のテーマは「僧侶派遣業の是と非/激動の時代に新たな要求」。Amazonが開始した「1回35,000円で法事法要を手配する」というサービス(お坊さん便)に対する師のご意見である(Amazonが始める前から、同種のサービスはあったそうだが)。
ブログには《先々週から、中外日報で連載の始まった拙稿「随想随筆」全4回の第2回分です。しばらく、東京・群馬・京都と連泊出張が続き、家を留守にしていて、記事をアップするのが遅くなりました。例のAmazonの僧侶派遣業についても、書いています。ちょっと甘い視点かもしれませんけど…。よろしければご覧下さい》。では、記事全文を抜粋する。
僧侶派遣業の是と非/激動の時代に新たな要求
昨年十二月、釈尊成道会の日にAmazonが僧侶派遣業務を開始して、仏教界内外で物議を醸し出した。宗教行為を商品化するとは何事かと仏教界から大反発があったが、一部の僧侶の中には歓迎するむきもある。もうずいぶん前の話になるが、あるお寿司屋さんで、そこの大将が語った言葉に感心したことがある。
「回転寿司店がどんどん出来て、私たちが困ると思っている人がいるが、違うんだよ。子どもの頃からああしてお寿司を食べる習慣をつけてくれるのは嬉しいねえ。いつかは大人になってこっちに来てくれるようになるのだから…」というような話であった。ものは考えようという単純な話ではない。何事も現実に起こることはその時代の要請なのだから、あらがいようがない。
Amazonの僧侶派遣も善し悪しの問題ではなく、現実に社会の要請があって、物事は起こっているのである。先祖代々のお寺と檀家との関係が壊れつつあるのは明白だ。そもそも檀家制度という日本独特の制度が出来たのは江戸時代のこと。当時の日本人の人口はせいぜい二千万人前後で、現在の日本の人口は一億二千万人を超えるから、わずか四百年ほどで約六倍の伸びを見せたわけである。
物事は三割四割の増加には内部努力で対応出来るが、五倍六倍となると、そんな程度ではなんともならない。制度自体、構造自体を作り直さないと対応など出来ようがないのである。その点、檀家制度は明治の神仏分離や戦後の農地解放など激変期を乗り越え、よくぞここまで保ってきたモノだと関心さえする。
今までのあり方が全否定されたわけではない。檀那寺と関わりを持てない都会人が増え、檀家制度を支えてきた地域の共同体も喪われて行く中で、日本仏教が新たな要求に晒されているということだろう。今までのあり方で通用するお寺もある。一方、過疎化のあおりを受けて、廃寺となる地方寺院もたくさんある。今まで以上に日本人の信仰心を問うような活動を仏教界が要求されていると思うことが肝要なのだ。
Amazonを通じて、葬祭をこなし、僧侶を呼んだ人は決して無宗教な人間ではない。寿司屋の話ではないが、大いに結構、いずれは本物の寿司を握っているウチに来るんだ、くらいの気持ちで、ドンとしていてもよいのではないだろうか。
これは思い切ったご発言である。「現実に起こることはその時代の要請なのだ」「いずれは本物の寿司を握っているウチに来るんだ、くらいの気持ちで、ドンとしていてもよい」。かつて勝間和代は「起きていることはすべて正しい」と言い放ったが、現実にこのようなニーズがあるから、このような商売が成り立つのも事実である。
私もAmazonの僧侶派遣の話を聞いたときは、正直「日本はここまで来たか」と驚いた。そして「四十九日は、初盆は、一周忌は、三回忌はどうするのだろう?」という素朴な疑問も沸いた。特定のお寺と良い関係を築いていないと、葬儀の「その後」の法事法要ができないからだ。しかし「必ずしも葬儀後に法事法要が必要というわけでもないので、省略する人もいるだろうな」と思い直した。これは1つの「割り切り」である。
かつて知人に、自家の宗旨をよく知らない人がいた。御尊父の通夜は真言宗で行ったのに、翌日の葬儀は浄土宗の寺からお坊さんを呼んでいた。しかし、それを指摘した人は私以外にはいなかったそうだ。たまたま私は高野山真言宗なので初日に気づき、翌日「あれっ、お寺が違う」と分かったのである。
本人に聞くと「通夜のあとで母親によく聞くと浄土宗だったので、翌日は交替してもらった」とのこと。「南無大師遍照金剛」と「南無阿弥陀仏」は大違いなのに、なんとも暢気な話だ。家に仏壇のない人は、自分の宗旨や檀那寺を知らないケースも出てくるのだろう。そもそも「葬儀を仏式でする」というのも単なる慣習だ。そうなると「本物の寿司を握っているウチに来る」ということも、なくなってしまうかも知れない。
十津川村にいる別の知人によると、廃仏毀釈以来、村にはお寺がないので(最近は出来つつあるらしいが)、葬儀にお坊さんは来ない。葬儀は神道式の「神葬祭」となる。だから墓石も仏壇もなければ、年忌もお盆参りもないのである。もちろん葬儀には天理教式も、大本教式も、キリスト教式もある。おそらく昔はこのようなバリエーションがたくさんあったものが、いつの間にか仏式にさや寄せされてきたのだろう。もしかすると、近代日本における「火葬の普及」と関係するのかも知れない。
とまあ、いろいろと考えさせてくれる「随想随筆」であった。利典師、次回も楽しみにしています!
※トップ写真は「りてんさんといく蔵王堂夜間拝観と修験講座」(4/29)で。お隣りは田中ひろみ女史
今回のテーマは「僧侶派遣業の是と非/激動の時代に新たな要求」。Amazonが開始した「1回35,000円で法事法要を手配する」というサービス(お坊さん便)に対する師のご意見である(Amazonが始める前から、同種のサービスはあったそうだが)。
ブログには《先々週から、中外日報で連載の始まった拙稿「随想随筆」全4回の第2回分です。しばらく、東京・群馬・京都と連泊出張が続き、家を留守にしていて、記事をアップするのが遅くなりました。例のAmazonの僧侶派遣業についても、書いています。ちょっと甘い視点かもしれませんけど…。よろしければご覧下さい》。では、記事全文を抜粋する。
![]() | マンガで学べる仏像の謎 (単行本) |
田中ひろみ | |
JTBパブリッシング |
僧侶派遣業の是と非/激動の時代に新たな要求
昨年十二月、釈尊成道会の日にAmazonが僧侶派遣業務を開始して、仏教界内外で物議を醸し出した。宗教行為を商品化するとは何事かと仏教界から大反発があったが、一部の僧侶の中には歓迎するむきもある。もうずいぶん前の話になるが、あるお寿司屋さんで、そこの大将が語った言葉に感心したことがある。
「回転寿司店がどんどん出来て、私たちが困ると思っている人がいるが、違うんだよ。子どもの頃からああしてお寿司を食べる習慣をつけてくれるのは嬉しいねえ。いつかは大人になってこっちに来てくれるようになるのだから…」というような話であった。ものは考えようという単純な話ではない。何事も現実に起こることはその時代の要請なのだから、あらがいようがない。
Amazonの僧侶派遣も善し悪しの問題ではなく、現実に社会の要請があって、物事は起こっているのである。先祖代々のお寺と檀家との関係が壊れつつあるのは明白だ。そもそも檀家制度という日本独特の制度が出来たのは江戸時代のこと。当時の日本人の人口はせいぜい二千万人前後で、現在の日本の人口は一億二千万人を超えるから、わずか四百年ほどで約六倍の伸びを見せたわけである。
![]() | お坊さん便 |
法事法要手配チケット | |
株式会社みんれび |
物事は三割四割の増加には内部努力で対応出来るが、五倍六倍となると、そんな程度ではなんともならない。制度自体、構造自体を作り直さないと対応など出来ようがないのである。その点、檀家制度は明治の神仏分離や戦後の農地解放など激変期を乗り越え、よくぞここまで保ってきたモノだと関心さえする。
今までのあり方が全否定されたわけではない。檀那寺と関わりを持てない都会人が増え、檀家制度を支えてきた地域の共同体も喪われて行く中で、日本仏教が新たな要求に晒されているということだろう。今までのあり方で通用するお寺もある。一方、過疎化のあおりを受けて、廃寺となる地方寺院もたくさんある。今まで以上に日本人の信仰心を問うような活動を仏教界が要求されていると思うことが肝要なのだ。
Amazonを通じて、葬祭をこなし、僧侶を呼んだ人は決して無宗教な人間ではない。寿司屋の話ではないが、大いに結構、いずれは本物の寿司を握っているウチに来るんだ、くらいの気持ちで、ドンとしていてもよいのではないだろうか。
これは思い切ったご発言である。「現実に起こることはその時代の要請なのだ」「いずれは本物の寿司を握っているウチに来るんだ、くらいの気持ちで、ドンとしていてもよい」。かつて勝間和代は「起きていることはすべて正しい」と言い放ったが、現実にこのようなニーズがあるから、このような商売が成り立つのも事実である。
私もAmazonの僧侶派遣の話を聞いたときは、正直「日本はここまで来たか」と驚いた。そして「四十九日は、初盆は、一周忌は、三回忌はどうするのだろう?」という素朴な疑問も沸いた。特定のお寺と良い関係を築いていないと、葬儀の「その後」の法事法要ができないからだ。しかし「必ずしも葬儀後に法事法要が必要というわけでもないので、省略する人もいるだろうな」と思い直した。これは1つの「割り切り」である。
かつて知人に、自家の宗旨をよく知らない人がいた。御尊父の通夜は真言宗で行ったのに、翌日の葬儀は浄土宗の寺からお坊さんを呼んでいた。しかし、それを指摘した人は私以外にはいなかったそうだ。たまたま私は高野山真言宗なので初日に気づき、翌日「あれっ、お寺が違う」と分かったのである。
本人に聞くと「通夜のあとで母親によく聞くと浄土宗だったので、翌日は交替してもらった」とのこと。「南無大師遍照金剛」と「南無阿弥陀仏」は大違いなのに、なんとも暢気な話だ。家に仏壇のない人は、自分の宗旨や檀那寺を知らないケースも出てくるのだろう。そもそも「葬儀を仏式でする」というのも単なる慣習だ。そうなると「本物の寿司を握っているウチに来る」ということも、なくなってしまうかも知れない。
十津川村にいる別の知人によると、廃仏毀釈以来、村にはお寺がないので(最近は出来つつあるらしいが)、葬儀にお坊さんは来ない。葬儀は神道式の「神葬祭」となる。だから墓石も仏壇もなければ、年忌もお盆参りもないのである。もちろん葬儀には天理教式も、大本教式も、キリスト教式もある。おそらく昔はこのようなバリエーションがたくさんあったものが、いつの間にか仏式にさや寄せされてきたのだろう。もしかすると、近代日本における「火葬の普及」と関係するのかも知れない。
とまあ、いろいろと考えさせてくれる「随想随筆」であった。利典師、次回も楽しみにしています!