tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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花は吉野の山桜 by 田中利典師(2014年4月)

2017年04月13日 | 田中利典師曰く
いよいよ昨日(2017.4.12)、吉野山・下千本の桜が満開になった(吉野町の開花情報より)。金峯山寺長臈(ちょうろう)で、種智院大学客員教授の田中利典(りてん)師が、ご自身のブログに「花は吉野の山桜」(『金峯山時報』平成26年4月号「蔵王清風」欄 田中利典著述集290409)を載せておられた。タイムリーな文章なので、ここで紹介させていただきたい。
※トップ写真は吉野山の下千本、2012.4.15に撮影。雲海がいい具合に出ていた

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「花は吉野の山桜」
待ち遠しかった桜花爛漫の春が来た。ご開帳が始まった蔵王堂の蔵王権現様にお供えをするかの如く、権現さまのご神木である山桜に全山が染め上げられている。

その吉野の桜を巡っては数々の歴史絵巻が彩られてきたが、とりわけ有名なのは太閤秀吉の大花見の宴。一五九四(文禄三)年、太閤秀吉は関白秀次、徳川家康、伊達正宗、宇喜多秀家、前田利家といった戦国大名の勝ち残り全員と公家、茶人、連歌師などを含め総勢五千人というもの凄い人数を引き連れて吉野で一大観桜会を催したのである。

現在の蔵王堂は一五九二(天正二十)年頃の再建と伝えられているから、まさに新築になったばかりの蔵王堂に秀吉は参詣したのであった。しかも、五千人もの人がやってきて、何日も泊まったのだから、それはもう大変なことだっただろう。



NHK大河ドラマ「真田丸」太閤の花見のシーン

秀吉の来山は旧暦二月二十七日という。今の暦では四月十七日に吉野山へ着き、吉水神社に本陣を置いた。吉水神社は明治の神仏分離令までは、金峯山寺を代表する塔頭のひとつで吉水院という寺だった。当院は源義経が弁慶とともに身を潜め、南北朝期には後醍醐天皇の皇居にもなった由緒ある寺院だから、秀吉の本陣としてはもっともふさわしかったのであろう。

実はこの秀吉一行が着いた日から四日間雨に降られたようで、花見が出来ず、歌会やお茶会を催している。このとき秀吉は〈花のねがひ〉と題し、次の歌を詠んだ。「年月を心にかけし吉野山花の盛りを今日見つるかな」。また、一年後に秀吉の命で自刃することになる秀次は「いつかはと思ひ入りにしみ吉野の吉野の花を今日こそは見れ」と詠んだのであった。

このときの二人、憧れていた吉野へ来た喜びにあふれた歌をともに詠んだが、しかしながら、栄華の極みにあった吉野の花見から四年後には、秀吉自身もこの世を去っている。

吉野の桜はそういう歴史の著名な人物の上でも深い色合いを感じさせてくれる、日本一の名にふさわしいゆかしき花でもある。儚い花ゆえに、権現様への信仰とともに、その佇まいが多くの人を魅了するのであろう。


つとに知られる「太閤の花見」については、こんなエピソードがある。吉野町の公式HPより。

吉野での花見といえば、豊太閤秀吉の 花見を抜きには語れません。秀吉が、絶頂の勢力を誇った文禄3(1594 )年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々(そうそう)たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れまし た。

しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3 日間雨が降り続きました。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道 澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。

その甲斐 あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華 絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられています。


吉野山の桜、開花情報によれば、中千本は七分咲き、上千本は咲き始め(4/12現在)だそうだ。この時期は 交通規制が敷かれるので、ぜひ公共交通機関でお訪ねいただきたい。
コメント (2)
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