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人はいつか必ず死ぬ by 田中利典師(金峯山時報「蔵王清風」)

2017年04月27日 | 田中利典師曰く
 修験道入門 (集英社新書)
 金峯山寺長臈 田中利典
 集英社

金峯山寺長臈(ちょうろう)の田中利典師が、最近ご自身のブログ「山人のあるがままに」に、「死」についての文章を2篇、載せておられます。私も還暦を過ぎ、知己が亡くなることが多くなり、やりきれない気持ちでしたが、これを読んで気持ちが落ち着きました。皆さんも、ぜひご一読ください。

「人はいつか死ぬ…」
人はいつか死ぬものです。人類史上未だかつて、死ななかった人はなく、お釈迦さまも孔子もイエス・キリストも、みなさん、死んだのです…と、冗談のように法話でよく言うのですが、そういうわけですから、私だけが死なないなどということはありえないです。

そんなことは誰でも知っているはずですよね。まして、いつ死ぬのか、どこでどうやって死ぬのか、それは神のみぞ知るところで、私たちのあずかり知らぬことなのです。

ま、どこでどうやって死のうと、何歳で、何が原因で死のうと、そういう要因には関係なく、はっきりとしているのは、死んだ瞬間にこの世での貴方の命は終わったのです。ただここで思っておかないといけない肝心なことがあります。

どこでどう死のうと、なにが原因で死のうと、死んだその瞬間に、仏さまに、神さまに「それでいいんだよ」って言ってもらっている、そういうふうに死を受け入れることが幸せなんだ、ということです。実は信仰を持って、神さま仏さまと一緒に生きているって言うことは、そういうことなんだと私は思っています。

概ね人は幼くして亡くなったり、あるいは幼い子どもを置いて壮年期に亡くなったり、交通事故や大きな飛行機事故など奇禍に遭って亡くなったりしたとき、「可哀想に。まだまだこの世に未練があったろうに…」と思うものですが、でも仏さまや神さまは、貴方の命が尽きた瞬間に「この世での貴方の役割は終わったのだよ。いろいろ失敗もしたろうし、やり残したこともあるだろうが、貴方の人生はこれで終わりなのだから、それでいいんだよ。次はまた失敗を繰り返さないように頑張ろうね…」と言ってもらっていると思えるなら、その人は救われるわけです。

そう思えないと死んでも救われないことになってしまいます。残された人の思いは別にしても、死者にとっての、死んで救われるというのは究極そういうことだと私は思うのです。

所詮私たち人間は生きている限り失敗や後悔の繰り返しなのですから、死んだ後まで、取り返しのつかないことに懊悩させられるのではたまったものではありません。神さまや仏さまに死んだ後くらいは大きく受け止めていただいていると思える、そういう信仰心を日頃から培っていたいものだと思っています。「蔵王清風」(『金峯山時報』平成22年5月号所収)より

「人はかならず死ぬ」
ここしばらくの間に友人、知人が次々を亡くなった。先月には親しかった九州の本宗教師Sさん。大酒のみの、豪快な女傑…大らかさがなんとも大好きでしたね。年明けには吉野町の観光参事だったKさん。いろいろお世話になりました。そして奈良県庁の職員で、奈良県と金峯山寺が事業連携を始めた頃からの友人だったTさん。洒脱でひょうひょうとした人なつっこい愛すべき変人だった。参事のKさんは老境だったが、あとの二人は六十代と五十前半と、思いもよらぬ早い別れとなった。

「人は生まれて来て、必ず死にます。人類はじまって以来、未だ死ななかった人はひとりもいません。その死に方もいろいろです。生まれてすぐ死ぬ人、10歳で死ぬ人、40歳で死ぬ人、60歳で死ぬ人、100歳まで生きる人…。その時、人は、たとえば10歳や40歳で亡くなると、まだまだやりたいことや、し残したことがあったろうに、可哀相だと思うものです。でも何歳で死んでも、仏さまは『いろいろあったろうが、お前のこの世でやるべき事は全て終えたのだよ』…といっておられると私は信じます。残された家族にとって辛い事かも知れませんが、あとは生きている人たちの宿題です。亡くなった方は仏様にもういいんだよ、と言ってもらっていると思って、心残さず、送ってあげて下さい」と、ご遺体を前にして、私は葬儀の席では家族の皆さんにそんなお話をするようにしている。

もちろん、自分が遺族の立場になったら、そうは思えないかもしれないし、哀切の情に取り乱すこともあるかもしれないが、自分のときのことはさておいても、人に対して、亡者に対して、臨終時の僧侶の役目とはそういうものなのだと思っている。

私の話は実は遺族に対しての部分より、死者そのものへの語りかけに思いがある。「魂は実在する」と私は思っている。死んだ当初、死者によっては自分の死そのものをまだ受け止めかねている人もいるだろう。肉体から魂が抜け出して、遺体のそばで不思議そうに自分の体を天井あたりから見ている、そんな感じを持っているのである。

死んですぐ大きな光に導かれて、今生をあとにする霊魂もあるだろうが、大体はしばらく自分の遺体のそばで、じっとみているものなのだそうだ。もちろん死んだことがないので、証明など出来ないが、そういう思いで遺体と接するのである。

このところ惜別の情に悲しむ日々が続いているが、亡くなった人の思い出をたどるとともに、彼らの死を通して、僧侶としての役割を改めて自覚させていただいている。「蔵王清風」(『金峯山時報』平成27年2月号所収)より


「どこでどう死のうと、なにが原因で死のうと、死んだその瞬間に、仏さまに、神さまに『それでいいんだよ』って言ってもらっている、そういうふうに死を受け入れることが幸せなんだ、ということです」というくだりを、何度も読み返しました。知己の死を受け入れるというのはなかなか難しいことですが、死者は「神さまや仏さまに、大きく受け止めていただいている」のだと念じ、冥福を祈りたいと思います。
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