tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

藤丸正明さんが起業10年/谷井孝次氏の思い出を語る

2017年04月15日 | 奈良にこだわる
九州・太宰府から徒手空拳で奈良に出てこられた藤丸正明(ふじまる・ただあき)さんが2007年に奈良町に学生起業家として「株式会社地域活性局」(奈良市中院町21)を立ち上げて、ちょうど10年が経過した。これを記念して藤丸さんはご自身のブログに、お世話になった故谷井孝次氏の話を連載された。感動的な出会いなどの話には思わず目頭が熱くなった。ぜひ当ブログ読者の皆さまにもお読みいただきたいので、第1~3話(いずれも4/13付)の全文を紹介したい。

藤丸さんのことは当ブログでも何度か紹介させていただいた。なお文中に登場する谷井友三郎氏(孝次氏のご尊父)は立志伝中の人物で、『谷井友三郎伝』も出版されている。友三郎氏と孝次氏のお住まい(奈良市北京終町・ハギハラ酒店の斜め向かい)が2009年に売りにでたことで話題になった。当ブログでも「町家を救おう!」と呼びかけた(その後、買い手がついた)。

○創業10周年企画(1)「出会い」奈良の興行師・谷井孝次さん
■出会いのきっかけは奈良新聞
奈良町情報館を開館させた2007年10月5日。当時奈良新聞記者だった三浦孝仁さんが情報館の開館を記事にしてくれました。新聞に載ることは非常に嬉しいことで、光栄なことでした。

■訪ねてきた老人
その次の日の朝、ある老人が訪ねてきました。「君が藤丸君か。昨日の奈良新聞を読んだよ。君はここで良いことをしようとしているけれど、奈良は足を引っ張る人が多いので、僕が暫く毎日通ってそんな人が来ないようにするよ。がんばりなさい」 観光協会などにも所属していない学生企業。多くの人が様々な視点で奈良町情報館の情報を取得したでしょう。その老人は当時82歳。何か有無を言わせぬところのある老人でした。

その老人はそれから1週間、ほぼ毎日タクシーで乗り付けて、物語をしてくれました。奈良のことをそんなに知らない私にはとても新鮮な話の数々でした。奈良町情報館の大家さんは野崎充亮さん。野崎さんはその老人のことをご存知でした。「あの方はなかなかすごい人ですよー」と教えてくださいました。

■戦後奈良の観光を作り上げてきた興行師
老人のお名前は谷井孝次さん。谷井さんのお父様は戦後奈良で最も著名な興行師の谷井友三郎さん。全国で奈良博覧会を行い、お祭りの香具師を仕切り、映画館やホテルを経営したり、そして奈良市議会議長や(奈良市)観光協会会長を歴任し、クライマックスは平城遷都1250年祭の実行委員長をされたそうです。

戦後奈良の観光を作り上げてきた人の一人でした。谷井さんはその次男坊ですが兄を戦争で亡くされています。谷井興業の後継者として奈良観光に尽力されてきた方でした。そんな方がなぜ、奈良町情報館のお世話をしてくれるのか。聞いてみました。

■谷井さんがお世話をしてくれた理由
谷井さんは谷井さんの父から小さい頃、祖父のことを聞かされていたそうです。谷井さんの祖父はならまちの北側で観光客に観光案内をして生計を立てていたそうです。奈良町情報館が開館した記事を読んで、幼少期のことを思い出されたそうです。70年ほど前に父から聞いた話が新聞を読んでアリアリと蘇ったそうです。そんな谷井さんとはその後4年ほど、お付き合いさせていただきました。

○10周年企画(2)「思い出」奈良の興行師・谷井孝次さんとの思い出
■谷井さんが教えてくれた奈良の話
谷井さんは私に多くのことを教えてくださいました。平城遷都1250年祭は地域が一体となって開催したこと。興行師としての父の話。映画館の話。亡くなった妻の話。

谷井さんの奥さんは22日に亡くなられたそうです。毎月22日は奈良町情報館に高野槙を買いに来てくださっていました。そして三条通の浄教寺にお参りに行かれます。奈良町情報館の開館記念日10月5日には毎年ご祝儀を持ってきてくださいました。

■興行師にお金を無心する
そんな谷井さんが一度、こんな話をしてくれました。「お金には困ってないか。いつでも貸すからいいなさい」これは起業して1年半ほど立った際の話でした。当時、お金にはとても困っていました。しかり借りるということは考えていませんでした。その際につい、それでは貸してくださいと言ってしまいました。3日後、家にいるから来なさいと言っていただきました。

当日、京終のご自宅に行きました。谷井さんは僕の軽い言い草にちょっと腹が立っていたようでした。私の目の前に100万円の束を2枚どんっと置きました。「何に使うのか言ってみなさい」
私は返答に困ると、谷井さんは「君は動機が曖昧だからお金は用意したけど貸さない」といわれてお金を引っ込まれました。お金のこと、何かずんと心に響きました。とても良い勉強になりました。

■谷井さんと顧問(大辻康夫氏)は50年来の知己だった
そんなある日、私の会社の顧問、大辻康夫氏が奈良町情報館にいらっしゃいました。大辻さんを見て、谷井さんが急に立ち上がりました。「大辻さんではありませんか」と。顧問の大辻さんは大学卒業後に東映の営業マンとして奈良と和歌山を回っていました。そして、谷井さんの家にもよく訪れていたそうです。

これが、なんと約50年ぶりの再会でした。大辻さんは谷井さんのお父さんに大変可愛がられたそうです。県内の映画館に営業に行く際も三条通にあった谷井家から通っていたそうです。大辻さんも良く覚えていらっしゃいました。

「谷井さんの父親はとんでもない男だったよ はっはっは」と。谷井さんは1300年祭の前年にお亡くなりになりました。そして、大辻さんも2015年9月1日に亡くなられました。

■偶然の連続・・同じ誕生日・同じ次男坊
私は谷井さんと偶然、同じ誕生日でした。8月26日。59歳年が離れていました。谷井さんは亡くなられた後も、私にとても貴重なご縁をくださいました。それは次のブログで書きます。ご冥福をお祈りするとともに、先代方が創造してきた奈良を現代社会でどうしていくのか。そんなことを考えながら仕事をしています。

○創業10周年企画(3)谷井孝次さんと田中昭光さんと有馬賴底さん
谷井さんは多くの余韻を私に残してくださいました。そんな谷井さんのエピソードを一つ。

■観光地京都・奈良の興行師の話
私の人生の師は有馬賴底さんという僧侶です。有馬さんは相国寺管長を務められる他、京都仏教会の会長として多くの荒波を乗り越えてこられています。

有馬さんは流派を問わないお茶会を提唱されています。有馬さんは私が奈良で企画したお茶会の顧問をしてくださっています。その関係で、2013年はほぼ毎月奈良にお越しになられていました。その際、私が必ず京都までお迎えに行き、早めについた際はどこかに立ち寄っていました。

ある日、そのお迎えの車の中で有馬さんと興行師の話で盛り上がっていました。京都のある興行師とのエピソードをお聞きしました。有馬さんはかつて、仏教会を背負って行政と闘争をしたことがあります。いわゆる古都税問題です。

お寺の拝観料に税金をかけると主張する行政は時限立法として時間限定でやりたいと主張したそうです。有馬さんはそれはだめで、仏教会から寄付という形にすると主張されたそうです。そして真向から対立した両者。有馬さんは最終手段として仏教会として金閣寺・銀閣寺・清水寺等を拝観停止にする措置に出ます。その結果、行政側が折れて、古都税はなくなりました。その際に、有馬さんの周囲には多くの人が集まってきたそうです。

その際のお話しもしてくださいました。私も奈良の興行師の話を谷井さんから直にお聞きしていました。奈良の墨を売っていた際の面白いエピソードなどもお話しさせていただきました。

■偶然ではなかったその日の話
そして、奈良についたのが会議の1時間も前でした。有馬さんがちょっとドライブしようとおっしゃった。そこで、奈良国立博物館の前を通りました。すると、「そこにお茶道具屋さんがあるから寄っていこうか」とおっしゃられました。そのお道具屋さんの名前は友明堂。知る人ぞ知るお茶道具店です。そこで1時間程、話で盛り上がっていた時、私は思い出しました。この友明堂のご主人田中昭光さんは谷井孝次さんの末弟だったということを。

■谷井さんの余韻
谷井友三郎という人物の話をしていて、その関係のあるお店に偶然入る。私が奈良に来て最も不思議な体験の一つでした。道具店の中でもこのお話しで盛り上がりました。友明堂は奈良きってのお茶道具店です。偶然か必然か、このご縁で親しくさせていただくようになりました。

奈良では本当に多くの方に縁を頂き、そしてお世話になりました。谷井孝次さん本当にありがとうございました。


縁が縁を呼ぶとは、まさにこのことだ。それにしても「動機が曖昧だからお金は用意したけど貸さない」とは、藤丸さんには良い勉強になったことだろう。藤丸さんはまだ33歳、これからの展開を大いに期待しています!
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