奈良日日新聞に毎月第4水曜日に連載している「奈良ものろーぐ」、先月(10/27)掲載されたのは「奥徳平(おく・とくへい)没後90年・大阿太の梨育てる」だ。
※トップ写真は愛宕(あたご)梨。大淀町佐名伝(さなて)の中元梨園で10月2日撮影
「大阿太(おおあだ)高原梨」は大淀町(奈良県吉野郡)の特産品してよく知られているが、ここに初めて二十世紀梨を植え、普及させたのが奥徳平(1878~1927)という人なのである。会社の先輩である御所市の藤井謙昌(よしまさ)さんに教えていただき、取材のアポまでお取りいただいた。
今年(2017年)の梨のシーズンは終わったがこの年末、大阿太高原の梨は大ブレークしそうな気配だ。それは「ふりむかないで」(エメロンクリームリンスのCMソング)の替え歌である。奈良県観光プロモーション課の企画で、カラオケ配信大手・エクシング(JOYSOUND)の通信カラオケで、この12月2日以降、歌えるのである。詳しくは、こちらに出ている。替え歌は全部で20曲(20市町村分)あるが最も秀逸なのが、大阿太高原梨に特化した「大淀町編」である。
1番の歌詞は「泣いているのか笑っているのか/梨の姿の素敵なあなた/ついて行けないあの人のあと/柿むかないで/あなたは言うの~♪」。2番の出だしは「県民さえも知らないけれど~♪」と、抱腹絶倒の歌詞と、大淀町果樹組合に所属する若手梨農家5人の熱演が、笑いと涙を誘う。
この替え歌で、美味しい「大阿太高原梨」がもっと広く知られることを願いたい。では、記事全文を紹介する。
今年も梨をたくさんいただいた。梨の種は弥生時代後期の登呂遺跡から出土している。『日本書紀』には693年、持統天皇は五穀を助けるものとして「桑、梨、栗、青蕪(あおな=カブ)」の栽培を奨励したという記事が載る。
美味しい梨といえば「大阿太高原梨」だ。吉野郡大淀町の佐名伝(さなて)から薬水(くすりみず)一帯には梨園が広がり、毎年、梨を求めて訪れる家族で賑わう。標高150~250メートルの大阿太高原は昼夜の寒暖差が大きく、赤土に小石が混じった土壌は梨づくりに適している。
ここで梨栽培を始めたのが奥徳平だ。明治11(1878)年に生まれ昭和2(1927)年に49歳で亡くなった。今年は没後90年にあたる。徳平は奥貞次郎の次男として現在の大阪府岸和田市に生まれた。家族ぐるみで北海道夕張に移住、札幌農学校を卒業。のち梨栽培の適地を求め、家族で大淀町に移住し、梨、桃、スモモなどを栽培する薬水園(やくすいえん)を開いた。吉野軽便鉄道(のちの近鉄吉野線)福神駅での駅頭販売や、中国大陸、朝鮮半島、極東ロシアなどへの輸出も行われ、梨栽培は活況を呈した。
徳平の最も大きな功績は、パラフィン袋(蝋引き紙)の使用による黒斑病の克服である。二十世紀梨は黒斑病に弱い。徳平は紀州みかんの腐敗防止にパラフィン袋が使われていることを知り、梨の栽培に試用、黒斑病対策に有効であることが分かった。パラフィン袋は全国の二十世紀梨農家に広まり、100年後の今も使われている。このほか徳平は、土壌病害対策としてのガス燻(くん)蒸、人工交配などの技術を続々と編み出していった。
大淀町果樹組合組合長の中元安則さんのお話を伺った。「ここは気象条件も土壌も梨栽培にピッタリです。同じ栽培法で同じ肥料を使っても、この味は出せません」。確かに、その場でいただいた二十世紀梨(6Lサイズ)はとても甘くみずみずしく、食べたあとも口の中に繊維が残らない。
同果樹組合編『大阿太高原のあゆみ~梨山への道 100年の伝統が次の100年を創る~』(平成17年3月発行)に、中谷健氏(元吉野農業改良普及所長)が、こんな文章を寄せている。
大阿太高原の梨農家は「先人より受け継いだ『美味しい梨づくり』を共通の暗黙の目標としていた。そのため、生産者は土づくり、有機質肥料の施肥、適期適量灌水(かんすい)の実施、着果数の制限、完熟果実の収穫励行など、味にかかわりをもつ管理作業を、誰からも強制されることなく当時すでに励行していた。(中略)技術研修・先進地視察・技術導入及び展示、統一販売容器及びPRチラシの原案作成、情報の収集などにつき果樹組合員の惜しみない協力を得て進め、他の梨産地に勝る味づくり技術の更なる向上に努めた」。
奥徳平が「美味しい梨づくり」にかけた情熱は、100年後の今にも脈々と受け継がれている。
JOYSOUNDのカラオケのおかげで、オフシーズンに人気が再沸騰しそうな「大阿太高原梨」、ぜひ来夏はたくさんお召し上がりいただきたい。大淀町果樹組合の皆さん、楽しい替え歌、深謝です。取材に応じてくださった中元安則さん、ご紹介いただいた藤井謙昌さん、ありがとうございました!
※奈良日日新聞ご購読のお申し込みは、こちらから
※トップ写真は愛宕(あたご)梨。大淀町佐名伝(さなて)の中元梨園で10月2日撮影
「大阿太(おおあだ)高原梨」は大淀町(奈良県吉野郡)の特産品してよく知られているが、ここに初めて二十世紀梨を植え、普及させたのが奥徳平(1878~1927)という人なのである。会社の先輩である御所市の藤井謙昌(よしまさ)さんに教えていただき、取材のアポまでお取りいただいた。
今年(2017年)の梨のシーズンは終わったがこの年末、大阿太高原の梨は大ブレークしそうな気配だ。それは「ふりむかないで」(エメロンクリームリンスのCMソング)の替え歌である。奈良県観光プロモーション課の企画で、カラオケ配信大手・エクシング(JOYSOUND)の通信カラオケで、この12月2日以降、歌えるのである。詳しくは、こちらに出ている。替え歌は全部で20曲(20市町村分)あるが最も秀逸なのが、大阿太高原梨に特化した「大淀町編」である。
1番の歌詞は「泣いているのか笑っているのか/梨の姿の素敵なあなた/ついて行けないあの人のあと/柿むかないで/あなたは言うの~♪」。2番の出だしは「県民さえも知らないけれど~♪」と、抱腹絶倒の歌詞と、大淀町果樹組合に所属する若手梨農家5人の熱演が、笑いと涙を誘う。
この替え歌で、美味しい「大阿太高原梨」がもっと広く知られることを願いたい。では、記事全文を紹介する。
今年も梨をたくさんいただいた。梨の種は弥生時代後期の登呂遺跡から出土している。『日本書紀』には693年、持統天皇は五穀を助けるものとして「桑、梨、栗、青蕪(あおな=カブ)」の栽培を奨励したという記事が載る。
美味しい梨といえば「大阿太高原梨」だ。吉野郡大淀町の佐名伝(さなて)から薬水(くすりみず)一帯には梨園が広がり、毎年、梨を求めて訪れる家族で賑わう。標高150~250メートルの大阿太高原は昼夜の寒暖差が大きく、赤土に小石が混じった土壌は梨づくりに適している。
ここで梨栽培を始めたのが奥徳平だ。明治11(1878)年に生まれ昭和2(1927)年に49歳で亡くなった。今年は没後90年にあたる。徳平は奥貞次郎の次男として現在の大阪府岸和田市に生まれた。家族ぐるみで北海道夕張に移住、札幌農学校を卒業。のち梨栽培の適地を求め、家族で大淀町に移住し、梨、桃、スモモなどを栽培する薬水園(やくすいえん)を開いた。吉野軽便鉄道(のちの近鉄吉野線)福神駅での駅頭販売や、中国大陸、朝鮮半島、極東ロシアなどへの輸出も行われ、梨栽培は活況を呈した。
徳平の最も大きな功績は、パラフィン袋(蝋引き紙)の使用による黒斑病の克服である。二十世紀梨は黒斑病に弱い。徳平は紀州みかんの腐敗防止にパラフィン袋が使われていることを知り、梨の栽培に試用、黒斑病対策に有効であることが分かった。パラフィン袋は全国の二十世紀梨農家に広まり、100年後の今も使われている。このほか徳平は、土壌病害対策としてのガス燻(くん)蒸、人工交配などの技術を続々と編み出していった。
大淀町果樹組合組合長の中元安則さんのお話を伺った。「ここは気象条件も土壌も梨栽培にピッタリです。同じ栽培法で同じ肥料を使っても、この味は出せません」。確かに、その場でいただいた二十世紀梨(6Lサイズ)はとても甘くみずみずしく、食べたあとも口の中に繊維が残らない。
同果樹組合編『大阿太高原のあゆみ~梨山への道 100年の伝統が次の100年を創る~』(平成17年3月発行)に、中谷健氏(元吉野農業改良普及所長)が、こんな文章を寄せている。
大阿太高原の梨農家は「先人より受け継いだ『美味しい梨づくり』を共通の暗黙の目標としていた。そのため、生産者は土づくり、有機質肥料の施肥、適期適量灌水(かんすい)の実施、着果数の制限、完熟果実の収穫励行など、味にかかわりをもつ管理作業を、誰からも強制されることなく当時すでに励行していた。(中略)技術研修・先進地視察・技術導入及び展示、統一販売容器及びPRチラシの原案作成、情報の収集などにつき果樹組合員の惜しみない協力を得て進め、他の梨産地に勝る味づくり技術の更なる向上に努めた」。
奥徳平が「美味しい梨づくり」にかけた情熱は、100年後の今にも脈々と受け継がれている。
JOYSOUNDのカラオケのおかげで、オフシーズンに人気が再沸騰しそうな「大阿太高原梨」、ぜひ来夏はたくさんお召し上がりいただきたい。大淀町果樹組合の皆さん、楽しい替え歌、深謝です。取材に応じてくださった中元安則さん、ご紹介いただいた藤井謙昌さん、ありがとうございました!
※奈良日日新聞ご購読のお申し込みは、こちらから
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/60/7e70bcd6689c2ef6df56f30abdef6859.jpg)