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推古天皇の額の傷を治した額安寺(かくあんじ)/毎日新聞「やまと百寺参り」第81回

2020年12月16日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2020.12.10)掲載されたのは「聖徳太子、推古天皇に縁/額安寺(大和郡山市)」、執筆されたのは同会会員で奈良市在住の酒井良子さんだった。
※トップ写真は奈良、鎌倉、室町、江戸期の瓦が入り混じる額安寺の本堂

額安寺は県道108号(真っ直ぐ南北に走り、大和まほろばスマートICで西名阪道とクロスする道)から少し入ったところなので、車だと分かりやすい場所だが、近鉄平端駅からの道は入り組んでいて、やや分かりづらい。お寺の近くには額田部窯跡(ぬかたべかまあと)や鎌倉墓(五輪塔)もあるので、ぜひお参りいただきたいお寺である。では記事全文を紹介する。

聖徳太子は、熊凝(くまごり)の地に釈迦の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に倣って学問所を建て熊凝精舎と名付けました。熊凝山の山号はそれに由来します。太子の叔母、推古天皇の額の傷の平癒に効があり、額安寺(かくあんじ)の寺号を賜ったと伝えられます。

奈良時代は広大な偉容を誇りましたが、檀家(だんか)を持たない学問所の額安寺は衰退していきました。額安寺で得度した忍性(にんしょう)らによって鎌倉時代に再建されます。忍性の遺言で額安寺に分骨された骨臓器は、五輪塔とあわせて国の重文に指定されています。

古(いにしえ)から同寺は衰退、修理と復興を繰り返す歴史を重ねてきました。戦国時代には豊臣秀吉の命により、塔も四天王寺に移されて本堂だけになった時代もありました。明治時代には廃寺同然となりますが、1975(昭和50)年、名刹(めいさつ)の消失することを恐れて近くで誕生された喜多亮快(りょうかい)師が復興事業を進め、亮快(りょうかい)師没後は妻の寿桂(すが)住職がその志を継ぎ現在の額安寺の姿となりました。
  
室町期の十一面観音菩薩(ぼさつ)は本堂に置かれています。奈良時代から現代に至るまでの屋根瓦を生かして修復された本堂に、額安寺の歴史の重さを感じます。(奈良まほろばソムリエの会会員 酒井良子)

(宗 派)単立(真言系)
(住 所)大和郡山市額田部寺町36
(電 話)0743・59・1128
(交 通)近鉄平端駅から徒歩20分
(拝 観)10~16時、100円 
(駐車料)有(無料)


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