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大和大納言・豊臣秀長の木像を安置する春岳院/毎日新聞「やまと百寺参り」第80回

2020年12月06日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(12/3)掲載されたのは「豊臣秀長の菩提寺/春岳院(大和郡山市)」。執筆されたのは大和郡山市在住で、市内で観光ボランティアガイドを務める浅井博明さんだった。
※トップ写真の風格ある「秀長公木像」は桂材の寄せ木造り=大和郡山市新中町春岳院で

秀吉の弟・豊臣秀長は秀吉や諸大名の信望が厚く、豊臣政権下で枢要の位置を占めた。秀長が大友宗麟に向かって「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ侯故、ご心配に及ばぬ」(内々のことは利休に相談せよ、公の事は私秀長に相談せよ、心配することはない)と言ったことはよく知られている。では本文を紹介する。

豊臣秀長は大和大納言とも呼ばれ、今なお多くの人々に敬慕されています。春岳院(しゅんがくいん)は秀長の菩提(ぼだい)寺で、位牌(いはい)や肖像画が残されています。さらに近年、多くの市民の浄財を得て、「秀長公木像」が造られ本堂に安置されました。

1585(天正13)年、秀長は紀州一揆の制圧後、兄である豊臣秀吉の名代として四国征伐の大役を果たし、その功により大和・紀伊・和泉の百万石の大守として、大和郡山の地に入城します。秀長は百万石にふさわしい規模の城郭と城下町を整備して、今日の大和郡山の礎を築きました。

秀長はお膝元の城下を町の自治で治める「箱本」という制度を作りました。城下町の十三町が地子(じし)免除などの特権を受け、併せて町々は輪番で御朱印箱を持ち回り、当番の町が治安・消火・伝馬などの責務を負う制度でした。

この箱本の制度は豊臣氏滅亡後も、松平氏、本多氏、柳澤氏と受け継がれていきました。春岳院には、箱本に関わる文書とそれを納める御朱印箱が残されています。秀長の墓所は同市箕山町に置かれ、大納言塚と呼ばれます。毎年4月22日には大納言祭が行われています。(奈良まほろばソムリエの会会員 浅井博明)

(宗 派)高野山真言宗
(住 所)大和郡山市新中町2
(電 話)090・3351・5804(住職携帯)
(交 通)近鉄郡山駅から徒歩約10分、JR郡山駅から徒歩約15分
(拝 観)要予約
(駐車場)有(無料)


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