奈良新聞「明風清音」欄に、月1~2回、寄稿している。この木曜日(2020.12.17)に掲載されたのは「死という最後の未来」。同名の対談本のことを紹介した。対談したのは石原慎太郎と曽野綾子で、見事に話がすれ違っている。しかし、その対照が鮮やかなので、興味深く読んだ。ではその中身を以下に紹介する。
石原慎太郎と曽野綾子の対談本『死という最後の未来』(幻冬舎刊)を読んだ。帯には《キリストの信仰を生きる曽野綾子。法華経を哲学とする石原慎太郎。対極の死生観を持つふたりが「死」について赤裸々に語る》。歳はひとつ違い(曽野が上)、家も近所だそうだが、作風も宗教も死生観も全く違う2人の対談はどうなるのだろうとハラハラしながら読んだ。結局、話はすれ違いだらけなのだが、そのギャップが興味深かった。印象に残ったところを以下に紹介する。
まず裕次郎のこと。裕次郎は解離性大動脈瘤(りゅう)に冒された。《(石原)9時間もの手術をしました。生還して奇跡といわれたけれど、次の検査で肝臓がんが発見されてね、それからが大変でした。(中略)管に繋(つな)がれて、苦しみ抜いた。「泥に埋まって、沈んでいくようだ」と言っていて、むしろ残酷だと思いましたね。早く死んで楽になれよ、と言いたかった》。
《(曽野)そう思うのが愛情ですよ。私は、人にはたぶん死ぬべき時があると思っているんです。(中略)病人が水を飲みたいと言えば飲ませてあげる、食べたいものがあれば用意してあげる、その人が望む状態を叶(かな)えてあげる、そういう自然の範囲でいいと思うんです》。

石原は30歳代半ばでベトナム戦争の最前線に取材に行き肝炎に感染し、帰国してから発症した。《(石原)肝炎は戦争につきものらしいですね。神経が消耗して、疲れ果てて発症する。しかし僕の場合はあまりの書き物の多さで、心身が疲弊していたこともあったでしょうね》。このとき、週刊誌の連載小説を何本も抱えていた自身を反省する。
すると三島由紀夫から手紙が届く。《(石原)「気落ちしているだろうが、これを人生に起こった大切な出来事、機会として捉えたらどうか。達観し、自分のこと、世の中のあらゆることをじっくり眺めたらいい」というようなことが書かれていました。この手紙が僕の人生を変えたんです。(中略)熱く湧き上がってくるものがありましてね、政治に参加しようと決意しました》。
曽野は夫・三浦朱門をキリスト教式の家族葬で見送った。神父は死の日をディエス・ナターリス(生まれた日)と呼んだ。《(曽野)「人間の死は決して、命の消滅ではなくて、永遠に向かっての新しい誕生日」という意味ですね。これはカトリック教徒の全員の中にあるものなんです。(中略)ミサの終わりに、神父がハーモニカで「ハッピー・バースデイ」を吹いてくださって、皆で合唱しました》。
最終章には《(曽野)いろいろとお話をしてきましたが、死というものには結論など出ない。(中略)死はすべての人に平等に訪れるものであって、これだけ、あれこれと命題が与えられている、ということが素晴らしいんだと思います》。《(石原)僕と曽野さんの考え方だけでも、正反対ですからね。最後までがむしゃらにやりたい僕と、静かに死を受け入れていく曽野さんと。老年期は、それぞれ自分の老境と向き合って存分に味わっていく。そうやって人は成熟していくのでしょう。(中略)まさに死は人生の頂点です。そして最後の未知、希望である》。
私はもう少し石原の死生観を知りたくて、本書の姉妹編ともいえる彼の『老いてこそ生き甲斐』(幻冬舎刊)を読んだ。《老いるということは経験の蓄積です。それはなまじ貯金なんぞよれも貴いともいえる。貯金は他人に簡単に分ける気にはなれないが、人生での経験は無差別無尽に他の人々に分かち役立てることが出来ます。そしてその献身は喜ばれるし、自分自身にとって生き甲斐になります》。本書ともども、ご一読をお薦めしたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
石原慎太郎と曽野綾子の対談本『死という最後の未来』(幻冬舎刊)を読んだ。帯には《キリストの信仰を生きる曽野綾子。法華経を哲学とする石原慎太郎。対極の死生観を持つふたりが「死」について赤裸々に語る》。歳はひとつ違い(曽野が上)、家も近所だそうだが、作風も宗教も死生観も全く違う2人の対談はどうなるのだろうとハラハラしながら読んだ。結局、話はすれ違いだらけなのだが、そのギャップが興味深かった。印象に残ったところを以下に紹介する。
まず裕次郎のこと。裕次郎は解離性大動脈瘤(りゅう)に冒された。《(石原)9時間もの手術をしました。生還して奇跡といわれたけれど、次の検査で肝臓がんが発見されてね、それからが大変でした。(中略)管に繋(つな)がれて、苦しみ抜いた。「泥に埋まって、沈んでいくようだ」と言っていて、むしろ残酷だと思いましたね。早く死んで楽になれよ、と言いたかった》。
《(曽野)そう思うのが愛情ですよ。私は、人にはたぶん死ぬべき時があると思っているんです。(中略)病人が水を飲みたいと言えば飲ませてあげる、食べたいものがあれば用意してあげる、その人が望む状態を叶(かな)えてあげる、そういう自然の範囲でいいと思うんです》。

石原は30歳代半ばでベトナム戦争の最前線に取材に行き肝炎に感染し、帰国してから発症した。《(石原)肝炎は戦争につきものらしいですね。神経が消耗して、疲れ果てて発症する。しかし僕の場合はあまりの書き物の多さで、心身が疲弊していたこともあったでしょうね》。このとき、週刊誌の連載小説を何本も抱えていた自身を反省する。
すると三島由紀夫から手紙が届く。《(石原)「気落ちしているだろうが、これを人生に起こった大切な出来事、機会として捉えたらどうか。達観し、自分のこと、世の中のあらゆることをじっくり眺めたらいい」というようなことが書かれていました。この手紙が僕の人生を変えたんです。(中略)熱く湧き上がってくるものがありましてね、政治に参加しようと決意しました》。
曽野は夫・三浦朱門をキリスト教式の家族葬で見送った。神父は死の日をディエス・ナターリス(生まれた日)と呼んだ。《(曽野)「人間の死は決して、命の消滅ではなくて、永遠に向かっての新しい誕生日」という意味ですね。これはカトリック教徒の全員の中にあるものなんです。(中略)ミサの終わりに、神父がハーモニカで「ハッピー・バースデイ」を吹いてくださって、皆で合唱しました》。
最終章には《(曽野)いろいろとお話をしてきましたが、死というものには結論など出ない。(中略)死はすべての人に平等に訪れるものであって、これだけ、あれこれと命題が与えられている、ということが素晴らしいんだと思います》。《(石原)僕と曽野さんの考え方だけでも、正反対ですからね。最後までがむしゃらにやりたい僕と、静かに死を受け入れていく曽野さんと。老年期は、それぞれ自分の老境と向き合って存分に味わっていく。そうやって人は成熟していくのでしょう。(中略)まさに死は人生の頂点です。そして最後の未知、希望である》。
私はもう少し石原の死生観を知りたくて、本書の姉妹編ともいえる彼の『老いてこそ生き甲斐』(幻冬舎刊)を読んだ。《老いるということは経験の蓄積です。それはなまじ貯金なんぞよれも貴いともいえる。貯金は他人に簡単に分ける気にはなれないが、人生での経験は無差別無尽に他の人々に分かち役立てることが出来ます。そしてその献身は喜ばれるし、自分自身にとって生き甲斐になります》。本書ともども、ご一読をお薦めしたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
