tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

行基菩薩の供養堂か/喜光寺の西側(菅原遺跡)で円形建物跡!

2021年05月22日 | 奈良にこだわる
昨日(2021.5.21)の新聞各紙はこぞって「菅原遺跡の円形建物跡」のニュースを報じていた。円形建物とは「円堂」や「多宝塔」のことで、たいてい誰かの供養のため(菩提を弔うため)に建てられる。興福寺北円堂(藤原不比等供養)・同南円堂(藤原内麻呂供養)、法隆寺夢殿(聖徳太子供養)、榮山寺八角円堂(藤原武智麻呂供養)という具合である。毎日新聞《8世紀 類例なき円形建物跡 大仏「造立」行基供養か》(5/21付)によると、
※トップ画像は円形建物などの復元図(元興寺文化財研究所制作)。画像は毎日新聞から拝借

元興寺文化財研究所は20日、奈良市疋田町の菅原遺跡で、8世紀半ばの類例のない円形建物と大規模な回廊の跡を確認したと発表した。東大寺大仏の造立を指揮した奈良時代の高僧、行基(668~749年)ゆかりの寺「長岡院」があったとされる地で、同研究所は行基をしのぶ供養堂の遺構で、後世の仏塔建築「多宝塔」の原形である可能性が高いとみている。遺跡からは大仏殿を望むことができ、専門家は「大仏の完成を見ずに亡くなった行基を弔うため弟子たちが建てたのでは」と推測している。

遺跡は平城宮跡の西方、標高106メートルの丘陵上にあり、宅地開発に伴って2020年10月~21年1月に約1960平方メートルを調査。柱穴(直径約21センチ)15基が直径約14・5メートルの円状に並び、その内側にも石を抜き取った跡が円状に確認された。北西側では柱穴の列も見つかり、約40メートル四方の回廊などが円形建物の周囲を巡っていたとみられる。

同研究所は、円形遺構は2層構造の丸い塔の周囲にひさしが付いた多宝塔に似た建物である可能性が高いと推定。多宝塔は平安時代以降に造られた供養塔の一種で、現存建築では大津市の石山寺多宝塔(国宝、鎌倉時代)などが知られるが、奈良時代の確認例はないという。一方、法隆寺夢殿(国宝)など奈良時代には八角形の仏堂「八角円堂」が建てられており、同研究所は「円形基壇の上に八角円堂が建てられていた可能性も残る」としている。

行基は晩年、国家事業だった東大寺の大仏造立に尽力したが、大仏開眼供養会(752年)の3年前、その完成を見ることなく菅原寺(現喜光寺、奈良市)で没した。長岡院は行基らが建てたと伝わる寺院「四十九院」の一つで、行基の業績を記した文献は「菅原寺の西の岡にあった」と記述。菅原遺跡は位置が合致し、1981年の奈良大調査で建物基壇も確認されたが、遺構の性格はよく分かっていなかった。

栄原永遠男・大阪市立大名誉教授(日本古代史)は「亡くなった行基を思い、弟子たちが大仏が出来上がっていく様子を眺められる小高い丘に長岡院を建立したのだろう」と指摘。鈴木嘉吉・元奈良文化財研究所長(日本建築史)は「古代インドの釈迦(しゃか)の墓はストゥーパと呼ばれるまんじゅう形の仏塔で、今回の円形建物に影響している可能性がある」と話している。現地説明会はない。6月1日から元興寺文化財研究所ホームページで解説動画を公開予定。【加藤佑輔】


なお現地保存はされないのだそうだ。奈良新聞(5/21付)によると《県文化財保存課によると、宅地造成の計画変更は困難なため、史跡指定を前提に公有化できないか事業者と調整。事業者も理解を示して交渉が続けられたが、買収価格で折り合いがつかず、「断念した」という》《鈴木嘉吉・元奈良文化財研究所長(建築史)は「円形建物の構造は今は分からないが、将来は分かる道筋がつくかもしれない。遺構を保存できず、後世の人が検証できないのは残念だ」と語る》。

現地保存できないのは、かえすがえすも残念だ。行基さん、ごめんなさい!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする