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川原寺跡に建つ弘福寺(ぐふくじ)/奈良新聞「明風清音」第56回

2021年05月01日 | 明風清音(奈良新聞)
今年3月(2021.3.14)、明日香村の弘福寺(川原寺跡)で講演をすることになった。演題は「90分でわかる!飛鳥の古寺と万葉歌~川原寺を中心に~」だった。講演の準備をする過程で文献に当たり、この寺についていろんなことがわかってきた。ご住職は「よく、川原寺と弘福寺の2つの名前がありますが、どちらが正しいのですか?と聞かれ、困っています」ともおっしゃっていた。
※トップ写真は弘福寺(3/14)。右手がメノウのさざれ石、左手はそれを包んだお守り

これらの疑問や寺の由緒について、一気に分かる話をしようと準備し、講演に臨んだ。寺にゆかりのメノウ(瑪瑙)石のお土産も準備し、幸いご好評いただいた。しかしコロナ禍で定員を絞ったため、講演を聞いて下さった人数は少なかった。この際、奈良新聞「明風清音」欄に書いて、多くの人に知っていただこうと思って筆をとり、それが4月29日(木)に掲載された。ここで全文を紹介させていただく。

明日香村川原の弘福寺(ぐふくじ)をご存じだろうか。真言宗豊山派の寺で、国史跡「川原寺跡」に建つ。川原寺は『日本書紀』に登場する寺で、飛鳥時代には元興寺(飛鳥寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)とともに飛鳥四大寺の一つだった。『続日本紀』には川原寺の別名として弘福寺の名が登場し以後、並用されることになる。

川原寺の創建については諸説あるが、斉明天皇の「飛鳥川原宮」跡を寺としたという説が有力である。飛鳥川原宮は臨時の宮で、使われたのはわずか1年足らずだった。のち天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うため、ここに寺を建てたとされる。そのため平城遷都時にも新京に移転せず、この地に留まったようだ。

寺の中金堂跡にはメノウ(瑪瑙)の白い礎石が28基残る。メノウは微細な石英の集まりで、とても硬い。滋賀県大津市の特産品なので、近江大津宮を構えた天智天皇とのゆかりがうかがえる。

よくメノウと大理石を混同する人がいるが、両者は全く別物である。大理石は結晶質石灰岩、つまり石灰岩が熱変成作用を受けて再結晶したものだ。柔らかく加工しやすいので、装飾用によく使われる。逆に、礎石として使うには不向きだ。

「弘福寺の僧と談(かた)りて」と題して、会津八一がこんな歌を詠んでいる(『南京新唱』)。「よをそしる まづしきそうの まもりこし このくさむらの しろきいしづゑ」。漢字交じり文で書くと「世を誹る(嘆く)貧しき僧の守り来しこの草むらの白き礎(礎石)」。メノウの礎石について八一は「ひそかに之(これ)を売らば、大金をも得べかりしを、これまで保ち得たることを、その僧はしきりに誇り居たり」と書いている。 

『日本書紀』によると686年(朱鳥元)、新羅の客を饗応するためこの寺の伎楽団を筑紫に派遣している。寺には楽器なども多くあったのだろう。『万葉集』には寺にあった倭琴(やまとこと)の面に記されていたという歌二首が載る。いずれも作者は未詳である。岩波文庫『万葉集(四)』から引用する。

「生死(いきしに)の二つの海を厭(いと)はしみ潮干(しほひ)の山を偲(しの)ひつるかも⑯3849」(生死の二つの海が厭わしいので、潮が干上がった山を遥かに思い願ったことだ)。

「世の中の繁(しげ)き仮 廬(かりほ)に住み住て至らむ国のたづき知らずも⑯3850」(世の中の煩わしい仮の宿に住み続けて、至るべき仏の国のさまも想像できない)。僧侶らしい詠み手の厭世観がよくうかがえる。なお「世の中の」の歌碑は、寺の前面道路の南側に立つ。揮毫(きごう)は犬養孝氏である。

『日本書紀』によると673年(天武天皇2)、この寺では書生(写経生)を集めて日本で初の写経が行われた。これにちなんで現在、寺では参拝者が楽しんで取り組めるよう、様々な写経コースを用意している。

弘法大師空海とのゆかりもある。寺には平安時代初期に彫られた木造仏が安置されている。このうち持国天像と多聞天像が空海作といわれ、重文に指定されている。空海は京都と高野山を往復する際、この寺を宿として使っていたようだ。

斉明天皇の宮、メノウの礎石、伎楽団、琴の面に記された万葉歌と歌碑、日本初の写経道場、空海とのゆかり…。寺には歴史のミステリーが満載だ。飛鳥にお越しのおりは、ぜひ弘福寺をご参拝ください。


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