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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(10)/大自然の中に、悟りの世界を見る

2022年11月14日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、師の発言部分をご自身で加除修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第10回となる今回のタイトルは、「本覚山伏と始覚山伏」。山伏は「修行をつづけて自然の中に融合する人間になっていく」のだそうで、まさに日本人的自然信仰の面目躍如である。師のFacebook(10/13付)から全文を抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』⑩「本覚山伏と始覚山伏」
他力ありきではなく、自力からはじまって他力にいたる。山伏の教義でいくと、「始覚」(しがく…自分の努力で修行をし、悟りを得ていくという考え方)と「本覚」(ほんがく…すべてのものには仏性があり悟りを開くことができる、自然はすでに悟りを開いているという考え方)の違いになるのですが、凡夫たる身の人間が修行を始めると「始覚山伏」ということになる。自力の行者として修行をはじめるということです。

それに対して「本覚山伏」はすでに悟りを開いている、もともと悟っているということで、人々は、大自然の中に、もともと悟っている世界を感じていた。だから自然は神仏そのものでもあるのです。

修行をつづけて自然の中に融合する人間になっていくというのは、「始覚山伏」から「本覚山伏」になっていくということで、自然にすべてをゆだねていく、神仏にすべてをゆだねていく、つまり言葉を換えれば、絶対他力の山伏になっていくということなのだと私は理解しています。

ただこういうとらえ方がはっきりしてくるのは鎌倉以降だと思います。鎌倉新仏教を初めとする時代背景の影響もあるのかもしれません。ただしそういう感覚は、遙か以前から日本の自然信仰のなかにあったのだと私は思っています。

自然は人間たちを救済してくれる悟りの世界としてあるのだというような感覚があって、そこに向かって自力で努力、修行をするけれど、それをとおして自然にすべてをゆだねていくという絶対他力というべきあり方を識る。まあ、真宗法門の絶対他力とは少し違うので誤解を招くかもしれませんが…。

太古の昔から日本では、そういうとらえ方が生まれやすかったのかもしれないと思うのです。だから自然のなかに阿弥陀浄土をもみた。西方十万億土(はるか十万億土先に西方極楽浄土があるという考え)の先に、阿弥陀の浄土があるのではなく、日本人には、大自然のなかに阿弥陀の世界、悟りの世界を見ていたのではないかと思っています。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加除修正して掲載しています。
私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議を深めていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』の本文をお読みいただければと思います。
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