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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(13)/密教と修験道の深い関わり

2022年11月24日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、師の発言部分をピックアップして、〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第13回は「修験の歴史を難しくしたのは…」。空海が登場する前に伝わっていた雜密(ぞうみつ)の時代から、密教と修験道は深い関わりを持っていた。東密(真言密教)と台密(天台密教)が成立して以降も、この関係は維持されていた。しかし密教の僧侶を修験者とは言わないので、話がややこしくなった…。では、全文を師のFacebook(10/17付)から抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』⑬「修験の歴史を難しくしたのは…」
真言宗を開いた空海(774~835)は、若い頃、四国で山林修行をしていたことはよく知られています。南都(奈良)の大学での勉強をやめて、四国の山岳に入って山林修行をしていた。その後に遣唐使として中国に渡り、密教を学んで帰国し、真言密教を日本にもたらし、そして最後は根本道場として高野山を開山した。

この高野山開山については、さまざまな伝承があるのですが、最近になって、南都にいる若い頃に吉野で山林修行をし、高野山を見出したということが明らかになってきた。『性霊集』(空海が書いた漢詩集)に次のような文があるのです。

空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに/吉野より南に行くこと一日にして/西に向かって去ること両日程、平原の幽地有り/名付けて高野(たかの)という

文章にあるとおり、吉野という役行者の伝統を受け継ぐ山で、空海さんは山林修行をしていた。いわばその修行には修験者の一面があったといってもかまわないのではないでしょうか。もともと空海さんは優婆塞僧だったわけで、その後、入唐求法ののち、恵果阿闍梨の元で真言僧になっていかれますが。

その後も聖宝(832~909、平安前期の真言宗の僧侶。伏見の醍醐寺の開祖。後に当山派修験道の祖とも言われるようになる)や浄蔵(891~964、平安中期の天台宗僧侶。高い祈祷能力をもっていたとされる)など、修験者という一面をもった密教僧が続々出てくる。修験者には、密教の学僧と重なりあう人がいっぱいいるのです。

穿ったいいかたになるかもしれませんが、山林修行をしていた人はみな修験者だとみることもできる、と私は思っています。また、そういう方とは違う山林修行をしていたに人々もいて、そのなかには、道教の修行をしていた行者などたくさん人がいたのも事実です。そういう曖昧さをもちながら、聖や行者の世界は展開していたということなのではないでしょうか。

空海や最澄・円仁・円珍らの大学僧たちによって真言密教と天台密教のかたちができて、いわゆる東密(真言密教)と台密(天台密教)が確立されていったわけですが、このような密教的世界観ができる前に伝わった密教を、雜密と呼ぶわけです。しかし、雜密とは何かというと、やっぱり密教ですよね。大乗仏教の深遠な教理、論理をまだもっていないかたちで入ってきた密教です。それは大系化されていない密教だったと言ってもよい。

修験はその雜密と深い関係をもって生まれてきたのだと私は思いますが、その後に東密、台密が確立されていくに従って、その流れも修験の中に取り込まれ、受け継がれていく。

修験の行をした人たちには、増誉(1032~1116、天台宗僧侶、葛城山や吉野大峯で修験道の修行をした。後に園城寺〈三井寺〉の最高位である長史となる。一時期天台座主を務める。聖護院を開山)や行尊(平安中期の天台宗僧侶)や、先に述べた聖宝とか、大乗仏教の学僧でもあり、修行僧であった人たちがいて、修験の行を行じて修験道の本流を確立していく。

にもかかわらず、修験者でもあったその人たちを、あまり、修験者とは普通は言わない。それは修験や教団の側が修験者として扱っていないだけであって、私は正統な修験者だと言ってもいいんだと思っています。

さらに例をあげれば、相応和尚(831~918,天台宗僧侶)は比叡山の回峰行の開祖みたいな方ですが、相応もまた若い頃には大峯修行をしている。相応は天台の不動明王信仰の元締めみたいな人でもあります。その相応和尚さえ、修験側からいうなら、山伏だったと言うこともできると私は思います。山伏修行の時代があったわけですからねえ。

いわばプロの修験者の世界でも、そういう広がりや重なり合いがあって展開してきたのが修験の歴史なので、それがまた修験道のとらえ方を難しくさせているのかもしれません。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加除修正して掲載しています。
私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』をお読みいただければと思います。
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