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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(11)/風も木も川も土も、みんなみんな、仏性をもつ

2022年11月17日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、師の発言部分をピックアップして、〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第11回となる今回のタイトルは、「山も木も土も石も、みな仏…」。日本ではよく「山川草木 悉皆成仏」とか「一切衆生 悉有仏性」という。小椋佳の「風も木も川も土も みんな みんな~♪」ではないが、この世に存在するすべてのものに仏性が宿る(成仏できる)という意味だ。

これは日本に特有の考え方だそうで、この話をするとダライ・ラマも「それは動物まで」と断言したそうだ(利典師のブログより)。しかし約1年後にダライ・ラマは「あれは神道の考え方ですね」と言ったそうで、これは興味深い話だ。では師のFacebook(10/14付)から、全文を抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』⑪「山も木も土も石も、みな仏…」
自然信仰は自然の力、偉大さを身体で感じとっていくことと一体のものだった。そういう信仰のあり方は世界各地にあったのでしょうが、それらは時代の変遷や、とりわけ近代主義の進展によって淘汰され、消されていきます。ところが修験道はそれを今日まで残してきている。

大乗仏教も、もともとは真理を身体でつかみ取っていくことを基盤としていた。教義の奧に、単なる教義の修学ではつかめない世界をもち、そこにこそ本質を見出していた。大仰な言い方ですが、修験へと受け継がれていく日本の信仰のかたちは、その大乗仏教を取り込むことによって、近代主義に淘汰されずに日本的な大乗仏教として生き残ってきた、ともいえるのではないでしょうか。

こう考えていくと、修験へと受け継がれていく日本的な信仰のかたち、そのかたちを生みだした日本的な風土が、日本の大乗仏教を支えてきたのですから、日本仏教の代表としての修験の歴史もある、と考えてもいいような気がします。

「山川草木(さんせんそうもく) 悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」とはすべての生き物、また生き物たちの土台をつくりだしている土や水、石、岩などの無機物も、すべて成仏することができる…この世に存在しているものはすべて成仏する、という日本仏教独特とも言える教えですが、じつはこれってインドの仏教にはない教説なのです。もし、お釈迦さんがお聞きになったら、腰を抜かして驚かれるかもしれません。

なにせ、日本では石や枯れ木まで成仏するのですから。それはたぶん、仏教以前からこの地に育まれた信仰が受け継がれつづけたということです。神信仰との融合とでもいえばいいでしょうか。自然を同心円的にとらえる意識、そこに神を感じてきた意識と、仏教の教説や仏に対する意識が結び合って、日本の仏教が根付いていったと私は思っています。

日本の風土で暮らした人々のさまざまな願いに応えていく。そういうところに仏教が入って定着したし、それが「日本の仏教」になっていった。お坊さんたちの現住所はいまは何とか宗といっているわけですが、実際には庶民とともに生きる仏教として、宗派に関係なく展開したいったのです。

とすると、もっともよく太古からの庶民がつくる時空とともにあったのは修験ですから、修験道のあり方に、ひとつの日本仏教の純粋なかたちをみてもいいと、私はずっと思っているのです。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加除修正して掲載しています。
私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』をお読みいただければと思います。
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