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田中利典師の講演「生と死…修験道に学ぶ」より(3)修験道はグローカルな宗教

2022年12月13日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、ご講演「生と死…修験道に学ぶ」(第42回日本自殺予防学会総会 2018.9.22)の内容を10回に分けて連載された(2022.11.7~20)。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて当ブログで紹介している。
※トップ写真は信貴山朝護孫子寺周辺の景観、柿本家さんのロビーから撮影(11/11)

今回の演題は「あなたの宗教は何ですか?」。日本人にこの質問をすると70~75%の人が「無宗教」と答えるそうだ。見知らぬ他人からこのような質問をされたとき、「怪しい宗教の勧誘かな?」と思い、とっさに「無宗教」と答える場合はあると思うが、読売新聞からの質問なら、正直に答えても差し支えないと思うが…。

さらにグローカル(グローバル&ローカル)の観点から、修験道こそが、日本の風土に根ざすグローカルな宗教である、とする。では、師のFacebook(11/9付)から全文を抜粋する。

シリーズ「生と死…修験道に学ぶ」③「あなたの宗教は何ですか?」
日本人に「あなたの宗教は何ですか」と聞くと、「私は無宗教です」「私は無信心です」と答えるそうです。読売新聞の調査では70~75%の人が「無宗教、無信心」と答えています(読売新聞2008年11月29日掲載)。

これはある特定の宗教に入信していない限り、一般の日本人が示す普通の反応ではないかと思われますが、その一方で多くの人は子どもが生まれれば、宮参りに行くし、年末にはクリスマスを祝って、お正月には初詣でにと、神社やお寺に参詣します。なんと毎年8000万人にものぼる人が初詣に行くと言われています。

あるいはお彼岸やお盆にはお墓参りに行きますし、結婚式などは8割方が教会か神社で執り行う。そして死ねばほとんどの人がお坊さんを呼んでお葬式をします。

考えてみると、日本人は生まれてから死ぬまで、正月からクリスマスまで、年がら年中、一生にわたっていろいろな宗教と関わっているのが実際で、このような人たちが無宗教、無信心であるはずがないのです。

本当に無宗教で本当に無信心なら、寺に行ったり、神社に参ったり、お坊さんを呼んだりしないのです。しかし日本人の大部分がそういう生活を送りながら、一人ひとりに聞くと、私は無宗教です、私は無信心ですと、平気で答える現状が続いています。

一神教の人たちから見たら、同じ人間が、神様を拝む、仏様を拝む、お地蔵様を拝む、キリスト教の祭りをするなどということは考えられません。彼らにとって、そんなものは宗教でも何でもない、そんなものは信心ではないのです。

彼らはヤハウェの神ならヤハウェの神、アッラーの神ならアッラーの神以外は拝まない(*注/本当はちょっと違うのかもしれません)。しかしそれは一神教の人たちの勝手であって、私たちは明治以前のはるか昔から、身近にある神、仏を分け隔てなくそばに置いて拝んできた、祈ってきたのです。

それは一神教の人たちから見たら節操がないと見えるでしょうし、そのような、ごった煮のようなものは宗教とは呼ばないでしょうが、それは彼らの都合であって、逆に私たちにとってはそれこそが信仰であり、信心なのです。つまり6世紀の仏教伝来以降、神仏習合こそが日本人の信仰心の基盤なのです。

ではなぜ無宗教だと答えるかと言うと、宗教という言葉が悪いのです。これは明治期にレリジョン(Religion)というヨーロッパの概念を宗教と訳したのですが、これが間違いでした。レリジョンは一神教の宗教のことを指します。

つまりヤハウェの神やアッラーの神のような唯一絶対の神と契約した、そういう宗教をレリジョンというのであって、日本のようにあれも良いこれも良い、森の神さま、便所の神様、イワシの頭まで神様になるような宗教はレリジョンとは言わないので、彼らからすると、無宗教と言ってしまえば無宗教なのですが、「それの何が悪いんや」と日本人はいうべきです。

もっというと、一神教のほうがよほど悪い。もう2000年も(イスラエルの)エルサレムでは同じ宗教同士で喧嘩をしている。いや、世界中の戦争の大きな原因の一つは宗教同士の争いであるということ。そう考えると、日本のように雑多な形のまま共存している、そちらの方がはるかに優れているのではないかと、私は思います。

つまりそれはとてもグローカルな宗教であるといえるでしょう。グローカルな宗教とはなにかということですが、世界三大宗教とは、キリスト教とイスラム教と仏教を指します。これらは世界的規模で発展したグローバルな宗教です。

このグローバルに対するものが地方限定のローカルなもの。神道というのは日本土着、日本固有の極めてローカルな宗教です。で、このグローバルな宗教の仏教とローカルな宗教の神道が出会う、グローバルなものとローカルなものが合体した時に「グローカル」という言葉が生まれますが、実に神仏習合というのは、グローバルとローカルの出会いで生まれたグローカルなものなのです。そうすると、神仏習合の修験道というのは、まさに日本の風土が生んだグローカルな宗教ということになります。

今、グローカルということが盛んに言われています。グローバリゼーションが地球上を席巻する中で、ローカルなものがどんどん失われていく‥本当にこのままで良いのだろうか、と問われているのですが、『国家の品格』(岩波新書)という名著をお書きになった藤原正彦さんも、いくらチューリップが美しいからといって世界中をチューリップにしてどうすんのや。

桜の花、サボテンの花、それぞれの花が似合う国の、国柄を大事にすることの方に普遍性があるのではないか、という話を展開されております。私もそのとおりだと思うのです。

もちろん今さら、グローバリゼーション、ユニバーサルなものの全部を止めるのは無理ですが、グローバリゼーションに対してそれぞれの土地が持ってきた、その風土が持ってきたローカルのものと、グローバルとをこれからどう向き合わせていくか、これがこれからの人類的な大きな課題になるでしょう。そういうグローカルな一面を持った宗教が、修験道であると私は思っています。

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好評いただいている?私の著作振り返りシリーズの第4弾は、平成30年に開催された第42回日本自殺予防学会での特別講演「生と死…修験道に学ぶ」を、10回に分けて紹介させていただきます。もう4年前になりますが、なかなか頑張ってお話ししています。ご感想をお待ちしております。
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