金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、ご講演「生と死…修験道に学ぶ」(第42回日本自殺予防学会総会 2018.9.22)の内容を10回に分けて連載された(2022.11.7~20)。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて当ブログで紹介している。
※トップ写真は、信貴山の紅葉(2022.11.14撮影)
今回のお題は「神仏分離150年」。政府は明治初年に「神仏判然令」(神仏分離令)を出し、さらに明治5年には「修験道廃止令」を出した。かつて師はご自身のブログ「山人のあるがままに」に、「修験道廃止で17万人の山伏が消滅した」と書いておられた。当時の日本に山伏が17万人もいたということ自体が驚きだが、それが1本の政令で消滅したとは!
金峯山寺も神社(金峯神社の口宮)になったが、ご関係者の尽力で、明治19年にお寺に戻り、さらに平成16年には、利典師などのご努力が実り、吉野大峯地域が「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。では、全文を師のFacebook(11/10付)から抜粋する。
シリーズ「生と死…修験道に学ぶ」④「神仏分離150年」
本題は、修験道から学ぶ「生と死」というテーマなのですが、その前に、修験道がいまの皆さん方にとってなぜ遠い存在なのかという話を先にしておきます。
今年(2018年)は明治維新から150年です。そして、日本は神仏習合を1300年間続けてきたのですが、この明治期に、神さまと仏さまをわけるという、暴挙ともいえる神仏分離政策を維新政府は断行しました。
その神仏分離政策が行われてから、今年は同じく150年になります。神仏分離は明治初年に行われたのです。修験道というのは仏教を父に神道を母に、神仏が合体してできた宗教ですから、この神仏分離によって極めて疲弊する時代を迎えます。
明治政府は神仏判然令(神仏分離令)を明治初年に出したのちに、さらに明治5年には修験道廃止令という、修験道自体を解体する法令まで出すに及びます。これによって、全国にあった修験の霊山はほとんど姿を変えてしまいました。このとき、霊山にあった修験のお寺はほとんどが神社に変わったのです。
わが吉野金峯山寺も、2年間の抵抗むなしく、明治7年に廃寺とされ、蔵王堂は金峯神社の口宮として、12年間復飾神勤を余儀なくされ、神社となりますが、明治19年になってようやく、いささか寺の組織の姿を変えながら修験のお寺に戻りました。じつは、これは全国的には極めて希な例で、奇跡的に、修験寺としての昔の威容を現在に残しております。
このとき日本中の修験寺院のほとんどが解体されて廃寺となるか、神社となってしまいました。しかし、それでもなお修験道の火の全部を消し去ることは出来なくて、徐々に復活を遂げてくることになります。
とりわけ平成16年には金峯山寺を含め吉野大峯地域が、熊野・高野とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産登録をされ、いよいよ復興の時を迎えるなど、それぞれに新たな歩みを始めているという現状があります。
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好評いただいている?私の著作振り返りシリーズの第4弾は、平成30年に開催された第42回日本自殺予防学会での特別講演「生と死…修験道に学ぶ」を、10回に短く分けて紹介させていただきます。もう4年前の講演ですが、なかなか頑張ってお話ししています。ご感想をお待ちしております。
※トップ写真は、信貴山の紅葉(2022.11.14撮影)
今回のお題は「神仏分離150年」。政府は明治初年に「神仏判然令」(神仏分離令)を出し、さらに明治5年には「修験道廃止令」を出した。かつて師はご自身のブログ「山人のあるがままに」に、「修験道廃止で17万人の山伏が消滅した」と書いておられた。当時の日本に山伏が17万人もいたということ自体が驚きだが、それが1本の政令で消滅したとは!
金峯山寺も神社(金峯神社の口宮)になったが、ご関係者の尽力で、明治19年にお寺に戻り、さらに平成16年には、利典師などのご努力が実り、吉野大峯地域が「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。では、全文を師のFacebook(11/10付)から抜粋する。
シリーズ「生と死…修験道に学ぶ」④「神仏分離150年」
本題は、修験道から学ぶ「生と死」というテーマなのですが、その前に、修験道がいまの皆さん方にとってなぜ遠い存在なのかという話を先にしておきます。
今年(2018年)は明治維新から150年です。そして、日本は神仏習合を1300年間続けてきたのですが、この明治期に、神さまと仏さまをわけるという、暴挙ともいえる神仏分離政策を維新政府は断行しました。
その神仏分離政策が行われてから、今年は同じく150年になります。神仏分離は明治初年に行われたのです。修験道というのは仏教を父に神道を母に、神仏が合体してできた宗教ですから、この神仏分離によって極めて疲弊する時代を迎えます。
明治政府は神仏判然令(神仏分離令)を明治初年に出したのちに、さらに明治5年には修験道廃止令という、修験道自体を解体する法令まで出すに及びます。これによって、全国にあった修験の霊山はほとんど姿を変えてしまいました。このとき、霊山にあった修験のお寺はほとんどが神社に変わったのです。
わが吉野金峯山寺も、2年間の抵抗むなしく、明治7年に廃寺とされ、蔵王堂は金峯神社の口宮として、12年間復飾神勤を余儀なくされ、神社となりますが、明治19年になってようやく、いささか寺の組織の姿を変えながら修験のお寺に戻りました。じつは、これは全国的には極めて希な例で、奇跡的に、修験寺としての昔の威容を現在に残しております。
このとき日本中の修験寺院のほとんどが解体されて廃寺となるか、神社となってしまいました。しかし、それでもなお修験道の火の全部を消し去ることは出来なくて、徐々に復活を遂げてくることになります。
とりわけ平成16年には金峯山寺を含め吉野大峯地域が、熊野・高野とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産登録をされ、いよいよ復興の時を迎えるなど、それぞれに新たな歩みを始めているという現状があります。
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好評いただいている?私の著作振り返りシリーズの第4弾は、平成30年に開催された第42回日本自殺予防学会での特別講演「生と死…修験道に学ぶ」を、10回に短く分けて紹介させていただきます。もう4年前の講演ですが、なかなか頑張ってお話ししています。ご感想をお待ちしております。