tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

全国初!南都銀行が、三菱UFJ銀・東京海上日動と「地方創生」で協定を締結!

2016年09月25日 | 奈良にこだわる
9月23日(金)、南都銀行)は三菱東京UFJ銀行、東京海上日動火災保険と地方創生における機能連携・協力に係る協定を締結した。地銀、メガバンクと損保による協定は、全国初! 日本経済新聞(9/24付)「南都銀、地方創生で連携 三菱UFJ銀・東京海上日動と」によると、
※写真はすべて9/23(金)に南都銀行本店で撮影



南都銀行は23日、三菱東京UFJ銀行と東京海上日動火災保険との間で、地方創生に関する機能連携・協力協定を結んだ。インバウンド(訪日外国人)需要の掘り起こしや農林業再生の動きが強まる中、輸出事業や海外関連の保険ビジネスなどの情報やノウハウを吸収する。地方銀行が大手銀行と連携する例は多いが、大手損保を含めた3者の連携は全国初という。

実際に地方活性化事業を展開していくうえで、地銀が機能的に弱い輸出や保険、コンサルティングなどの分野で三菱東京UFJ銀や東京海上日動のサポートを受ける。具体的な連携は今後詰める。想定される事業は、農産物と木材の輸出や中小企業の海外進出。インバウンドのリスク対策、PFI(民間資金を活用した社会資本整備)や災害時のBCP(事業継続計画)などがある。



南都銀の橋本隆史頭取は同日の記者会見で、「県や市町村と一緒に地方創生を準備してきたが、いよいよ実行段階に入った。観光振興を中心にしっかりと進めていくための連携」と説明した。

三菱東京UFJ銀も地銀との連携を強化している。同様の地方創生では2月の鳥取銀行、8月の大分銀行など今回を除いて6行と協定を締結。東京海上日動も7月に地方創生室を発足し、地域の代理店と一体となった取り組みを推進している。


このニュースを報じた「ゆうドキッ!」(奈良テレビ 9/23放送)


奈良新聞(9/24付)では《橋本頭取は今回の協定による具体的な各社の取り組みについて、同行が現在、県と県内市町村の9つの地方自治体と地方創生包括協定を締結していることを説明。その上で「これまでは企画段階だったが、今後は事業展開の段階。例えば川上村では林業、御所市は薬などと、自治体の優先案件に個別に取り組んでいく中で連携協定を活かしていきたい」と意欲をみせた》。


記者会見に来られた報道機関は8社にのぼる

さらに産経新聞(9/24付)では《協定締結の背景には、超低金利下で融資による収益が圧迫されていることがある。関西の地銀は続々と自治体や研究機関との「連携協定」を締結し、融資先の拡大を図っている最中だ。南都銀の橋本隆史頭取は「マイナス金利下で厳しい環境が続くが、地方創生の枠組みで連携を深めることは一つの突破口。今後の地方銀行の大きなテーマになる」と話した》。なお、南都銀行のニュースリリース(PDF)は、以下の通り。



東京海上日動火災保険・三菱東京UFJ銀行と
「地方創生に関する機能連携・協力に係る協定」を締結!

南都銀行(頭取 橋本 隆史)は、本日9月23日、東京海上日動火災保険(代表 北沢 利文 氏)と三菱東京UFJ銀行(頭取 小山田 隆 氏)と地方創生における機能連携・協力に係る協定を締結しました。この機能連携・協力に係る協定は、当行と東京海上日動火災保険と三菱東京UFJ銀行が相互に有する金融等の機能をより発揮し、地方創生に資することなどに取組むことにより、地域経済の発展の寄与に協力することを目的としています。

当行は、中期経営計画(「活力創造プラン」〔平成26年4月~29年3月〕)において、地域の活性化を重点戦略の1つとして掲げており、本協定を機に、これまで以上に地域の活性化に取組んでまいります。なお、協定の内容は以下のとおりです。



●連携事業
(1)地域産業の振興と安定した雇用の創出に資すること
(2)創業支援および地域経済の活性化に資すること
(3)地域づくり、地域の活性化および移住・定住促進に資すること
(4)その他地方創生の推進に資すること

当行の地域における各地方公共団体や地元企業との密接なネットワークに、東京海上日動火災保険と三菱東京UFJ銀行が保有する情報や知見、国内外におけるネットワーク機能や顧客基盤などを融合することにより、「地方創生」への取り組みを加速化させ、地域の活性化に寄与してまいります。
【本件に関する照会先】公務・地域活力創造部 松山 ℡0742-27-1611




同行は奈良県および県下市町村(計9先)と「地方創生にかかる包括連携協力に関する協定」を締結してきた。これを準備段階とすれば、これからは事業を実施する段階である。林業および木材関連産業、農業、製薬業、観光関産業など、発展を期待される分野は多岐にわたる。これら各分野で雇用創出、定住促進、創業支援などができれば、奈良県の将来も安泰だ。各連携先と手を携えて、奈良県の活性化に取り組んでほしい。
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真田丸(37)信之

2016年09月24日 | 日々是雑感
前回(9/18)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第37回 信之」だった。「信幸」が「信之」に変わったところがミソだ。NHKのHP「あらすじ」によると、

関ヶ原での西軍敗北により徳川に降伏した信繁と昌幸。信幸と忠勝による、家康への必死の助命嘆願により、高野山への流罪と決まる。しかし、その代わりに家康が信幸に命じたのは厳しい条件であった。一方、大坂に立ち寄った信繁は、三成と刑部の最期について知ることになる。そして高野山に向かった信繁たち一行を待ち構えていたのは…。

徳川秀忠を相手にした第二次上田合戦で勝ったものの、関ヶ原で西軍が負けたことで敗者となった昌幸は、まだその現実を受け入れられず、自領に残る徳川勢を急襲する。これはやけっぱちの行動で、徳川の印象をさらに悪くしてしまう。そろそろ昌幸も、トシなのだろうか。

信繁は昌幸に「これ以上の戦いは無駄だ」と言う。「まだ上杉が残っている」と悔しがる昌幸は、握りこぶしを床に何度も叩きつけ、人生最後の賭に負けた無念を見せる。草刈正雄、迫真の演技だ。

真田は上田城を明け渡すことになる。立ち会ったのは徳川方の平野長泰(ひらの・ながやす)。もと豊臣家家臣で賤ヶ岳七本槍の一人。田原本町ゆかりの人物だ。



信幸は本多忠勝とともに大坂に向かい、家康に父と弟の助命嘆願をするが、家康は「死んでもらう」の一点張り。そこで本多忠勝は「自分の命に免じて助命してほしい、それが許されないなら婿とともに上田城に籠城して戦う」言い切る。

ここまで言われれば家康は苦笑しながら「命までは取らぬ。平八郎(忠勝)にそこまで言われたらな」と譲歩。そのかわり、これからは父を絶縁し、「昌幸」から引き継いだ「信幸」の「幸」の字を捨てるように言い渡す。家康はつくづく嫌なやつだ。

高野山に向かう途中、父子は大坂に立ち寄る。家康は「なぜ命を助けたと思う」と父子に問いかける。昌幸は「信之と忠勝が助命嘆願したからでは?」。信繁は「死より苦しい仕打ちを与えようとしているのでは?」と答える。これは図星だった。家康は「お前から兵も武器も馬も金も全部取り上げてやる。今後、戦を起こす機会も一切奪ってやる。残りの人生を、高野山の麓で過ごすのだ」「この生き地獄、たっぷりと味わえ」。



雪が舞う中、真田父子は紀州・九度山の屋敷に入る。きりと佐助もついてくる。ここから彼らの新たな暮らしが始まるのだ。しかし、やはり悲壮感が漂っている…。番組の最後に流れる「真田丸紀行」、今回は九度山町(和歌山県伊都郡)だった。NHKのHPには、

和歌山県九度山町。真田親子の新しい生活の舞台となったこの町は高野山参詣の玄関口でした。九度山町の慈尊院(じそんいん)は、弘法大師の母親ゆかりの地として知られ、古くから女性の参拝客でにぎわいました。妻子を伴った信繁たちもこの地で暮らすこととなったのです。

昌幸の屋敷跡とされる地に建つ善名称院(ぜんみょうしょういん)。地元の人々は真田庵と呼び、親しんでいます。敷地内の社には、昌幸、信繁、その息子、大助がまつられています。毎年、多くの人が集まる真田まつり。老若男女が赤備えで町中を練り歩きます。信繁たちが14年を過ごした、ここ九度山からは今も真田の息遣いが聞こえてきます。




昌幸は九度山での生活が11年目を迎えた慶長16年、ここで65年の生涯を閉じた。その様子は早くも次回「第38回 昌幸」に登場する。さて今回も締めは、藤丸タダアキさんの感想。彼のブログから紹介させていただく。

徳川家の後継者秀忠に完勝した真田昌幸と信繁。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成が敗戦することで状況は一変します。戦いに勝って城と領地を失う昌幸と信繁。真田丸37話信之の感想を書きます。

家康は武権を確立します。東軍の信幸は義父の本多忠勝にフォローされながら、昌幸と信繁の助命を家康に懇願します。家康は昌幸と信繁の死を免じる一方、真田家の諱である幸を名前から取るように信之に命じました。



小早川秀秋は関ケ原の戦いで裏切りを敢行します。彼の行動は関ヶ原前から不透明で西軍の根拠地大垣城にも入らずに松尾山に陣取りました。そして突如、東軍に寝返って裏切りを敢行します。しかし、この裏切りにあらかじめ備えていた信繁の妻はるの父大谷刑部吉継。
小早川軍は500mも押し戻されましたが、別の裏切りが発生し、西軍は崩壊しました。

彼はこの2年後に21歳で若死にします。それも西軍の亡霊に呪い殺されたといわれています。昌幸と信繁は高野山の麓の九度山に蟄居を命じられます。真田丸37話信之では多くの人の関ヶ原後が紹介されていました。特に敗者の物語を多く紹介されていました。



信幸は父と弟の投機性のような強いお茶目な面を本来は持っていたでしょう。しかし、彼は真田家を残すことに全力をかけました。これは彼がキャリアで培ってきた考えです。戦乱の世、大名たちの考え方は子孫繁栄と先祖供養を第一に考えます。子孫が繁栄しなければ先祖供養はできません。

信之をフォローした本多忠勝は地味な徳川軍団にあって珍しく知名度の高い武将でした。彼は弱冠20代から合戦師としての名声を持っていました。年上の家康も忠勝のいうことならばと何度も採用して作戦を成功させてきました。著名な話は武田との合戦における大井川の退却です。

真田丸の登場人物 本多忠勝について そして、実は本多忠勝は信之に惚れ込んで娘を嫁がせたといわれています。信之は地味ですが、そのように当時から評価が高かったのでしょう。真田丸37話信之の感想を書きました。
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NHKの奈良番組紹介(2016 Topic)

2016年09月23日 | お知らせ
NHKテレビで、奈良や食に関係した番組が放送されますので、お知らせいたします。これは必見です!

9月23日(金)NHK総合「歴史秘話ヒストリア 京都まぼろし大仏の旅」午後8:00~午後8:43 (43分)(翌週金曜 午後4時05分から再放送あり)
《大仏といえば、奈良や鎌倉が有名だが、実は京都にも大きな大仏があった。鎌倉大仏11メートル、奈良大仏15メートル、なんと京都大仏は18メートル!そもそも京都の大仏が造られたのは、400年以上前の戦国時代。いったい誰が、何のために造ったのか?そこにはどんな願いが?4代にわたって造り直された京都の大仏、その知られざる謎を解き明かすために、井上アナウンサーが京都の町をブラブラ歩いて徹底取材!》(番組のHP)。

9月24日(土)NHK総合「おはよう日本」と「ウィークエンド関西」
東アジア文化都市2016「古都祝奈良(ことほぐなら)」の一環で「ならまちアート・プロジェクト」の展示を行っている「奈良町にぎわいの家」から生中継。目安としては「おはよう日本」(全国版)が午前6:40から約1分半、「ウィークエンド関西」(関西エリア)が午前7:40から約6分。
《奈良市内で始まった、「古都祝奈良」と名付けられたアートイベント。アート作品の魅力、作品を通して見えてくる、古都・奈良の歴史の魅力を中継でお伝えします》(番組のHP)。

9月26日(月)BSプレミアム「にっぽん縦断こころ旅 朝版」午前7:45~午前8:00
《俳優の火野正平さんが、視聴者から寄せられた“こころの風景”を相棒の自転車・チャリオと訪ねる「にっぽん縦断こころ旅」。秋の旅が、いよいよスタート!今回は3年ぶり2度目となる奈良を出発し、大阪、兵庫と走って中国地方の日本海側を西へ。九州を南に進み、12月の沖縄をめざします。月曜朝版では、特別編集で旅の名場面をお見せするとともに、火野さんが訪ねられなかった“こころの風景”を、駒村多恵さんの朗読でご紹介!》(番組のHP)。

9月29日(木)EテレI「日本の書のパイオニア~空海“風信帖”~」(高校講座/書道)午後2:20~午後2:40(20分)
《「風信帖」は空海(弘法大師)が最澄に宛てて書いた手紙のことです。重厚さと軽妙さを巧みに調和させているといわれる「風信帖」を鑑賞し、臨書に挑戦します。》(番組のHP

9月29日(木)BSプレミアム「新日本風土記・選 うどん」午後11:45~午前0:45(60分)
《▽コメへのあこがれ~稲作に不向きな地の人々が、小麦を使ってあみだした▽生きたうどん~打った直後、グルテンが水分を抱え込んだ状態。香川ではこれを求めて大行列▽大阪・うどん屋の風邪薬▽中国から持ち込んだ~空海のうどん伝説▽京都・相国寺うどん供養~修行僧が音をたてて食べられる唯一の日。南北朝時代からの伝統▽稲庭うどん~殿様のひごのもと高級食になった、一子相伝の製法▽風土を映す各地のうどん▽連絡船うどん》(番組のHP)。
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地元民からの反論/観光地奈良の勝ち残り戦略(108)

2016年09月22日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
興味深い話を聞いた。奈良の観光振興などを手がける私のようなヨソ者に対する反論として、これは貴重なジモティー(地元民)の意見である。
※写真はすべて何年か前の今頃、明日香村で撮ったもの

発端は、8/28(日)に開いたNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の酒宴である。参加者からはいろんな話が飛び出した。奈良県のご出身で、現在は大阪市在住のFさんから「生粋の奈良県民(地元民)は奥ゆかしい。県外から来た外来人(ヨソ者)が奈良の活性化などを上から目線で言うのは、地元民にとってはいい迷惑だ」というご趣旨の発言をいただいた。感極まって泣き出す女性もいた。

酒宴での話なので誤解していてはマズいと思い、後日、メールで問い合わせた。その回答が以下の通りである。ご本人のお許しを得たので、転載させていただく。Fさんは編集の仕事をされているので、堂々たる論文である。

外来の奈良好き、または奈良の現状に危機感を持つ人は、往々にして、昔から何代も奈良に住んできた人々をよく言えばのんびりしているとか、大仏商法とか、どんくさいとか、口に出すか出さないかの差はあるにしても、やや軽く見た、または下に見た言動が見られることへの私なりの地元に代わった代理反論です。

外来人が、奈良の現状と将来に危機を覚えるあまり、在来人を非難がましく見るのも愛情の変形でしょうが、このぼんやりした人々が、何代にもわたり神社に寄付し、労力を提供し、お寺の改築をし、大和棟をはじめとする美しい農村風景を守ってきたのです。外来人は、金も労力も出さず、地元のご苦労や悲しみを理解せずに頭で議論しているだけだと思います。

平城京の時代でも、気が利いた人は、平安京の時に京都へ移ったでしょうし、現代では、外来人と共同歩調で、生駒や学園前で、新建材の美しい風景を作らない家で欧米的、文化的な暮らしと錯覚して暮らしておられます。100年後、学園前などの新興住宅地が美しい景観だと外国人が観光にやってくるでしょうか。

在来の奈良県人が無口で鈍臭いのは、深い悲しみを秘めて、祈りのDNAを受け継いできたのだと思います。国中(くんなか)にいかに出雲系、物部系の神社が多いことか。どう考えても、大和朝廷ができてから、出雲や吉備からきた人が作ったのではなく、先に大和の地に入った出雲や吉備の人々が、後から来た神武さんに象徴される征服者に従うまでに殺された多くのご先祖への祈りを黙って続けてきたのだと思います。



被征服の民、京都へついていかなかった人々は無口で口下手なのです。それは知恵でもあるのです。口は災いの元でもあり、征服者、時の流行は、やがて去っていくという諦念かもしれません。悲しみの祈りがある、すなわち勝者の大和朝廷の文化と、宇陀など征服された悲しみを秘めた地域の二重構造が、外来人が美しいと感じる奈良の風景を作っていると思います。

もちろん反論はあるでしょうが、私はいろいろ考えて、この結論に行き着きました。ただ、一方の征服された民だけに入れ込むのではありませんが、こういう視点も持って欲しいと願っています。

表に出て触れられる平城京の文化は素晴らしいものがありますし、悪辣と評価される藤原氏ですが、不比等が今日までの日本文化の骨格を作ったと、評価しております。万世一系という価値観を広め、中国のような易姓革命を否定する価値観を、史書を通じて作り上げた、凄い政治家と考えています。

京都は勝った人々だけが作った土地なので、在来人の悲しみが土地にないので、悲しみがない美しさだと思います。美しいが奈良より浅い。悲しみがない、風流だけの文化では奈良の美しさと太刀打ちできません。

そんな結論から、在来の気の利かない、無口の、口下手な奈良県人に対して、外来人は、謙虚で、 感謝・尊敬の念を持つ視点、概念の切り替え、パラダイムの転換をお願いしたいということです。

上から目線で、地域振興を訴えても、在来人には受け入れられないと思います。危機感のあまり、ついつい上から目線になる外来人は自戒して欲しいと感じております。



さらに言えば、大和の各地を紹介するにしても。古事記や日本書記など、いわば官製史書、勝者が都合よく筋書きを書いた史書、古事記など官製ではありませんが、朝廷に合わせた史書で、それをそのまま紹介するのではなく、その裏に秘められた逆の歴史にも思いを馳せて欲しいという願いです。大和朝廷中心史観に首まで浸かっていては、在来の奈良県人に申し訳ないと言いたいのです。

また、京大、東大というアカデミックな世界の学者は、学閥の力、締め付けがあるので、思考が硬直的ですが、アマチュアの研究者は、できるだけ思考は自由で柔軟、百家争鳴であるべきと考えます。

奈良を応援するあまり、大和朝廷中心史観、ヤマタイコクなどヤマト中心で古代の歴史が動いてきたと一つの思考で固まるのは、美しい集団風景ではありますが、新興宗教みたいで、避けるべきと考えます。官の学者がAと言えば、アマチュアはBでないかとへそ曲がりで考えないといけないのではないかと危機感を持っています。

我が国の歴史関係の学会は、対立者の間で議論しません。無視するのです。都合の悪い考古学データは無視し、双方議論しないのです。
大先生が亡くなるまで、異説は発表しません。発表しても、マスコミは取り上げませんし、定年後の再就職はかなわないからです。比較的自由なのは、文筆で食べていける私学系の学者だけでしょう。苦悶している、若手研究者はたくさんおられます。

そんなことを言いたかったとご理解ください。勿論、違う見解もあるでしょうが、私は、そう考えて、現在の外来人、私もそうですが、が考えている言論空間に違和感を感じていることを伝えたかったのです。




地元民が「何代にもわたり神社に寄付し、労力を提供し、お寺の改築をし、大和棟をはじめとする美しい農村風景を守ってきた」というのは、全くそのとおりである。「国中にいかに出雲系、物部系の神社が多いことか。(中略)先に大和の地に入った出雲や吉備の人々が、後から来た神武さんに象徴される征服者に従うまでに殺された多くのご先祖への祈りを黙って続けてきたのだと思います」ということも、今まで気づかなかった自分が恥ずかしい。

「奈良を応援するあまり、大和朝廷中心史観、ヤマタイコクなどヤマト中心で古代の歴史が動いてきたと一つの思考で固まるのは、美しい集団風景ではありますが、新興宗教みたいで、避けるべきと考えます」というのも、痛いところを突かれた。確かにひいきの引き倒しも「新興宗教みたい」で、部外者からは奇異な光景に見えることだろう。

地方銀行でも「地域へのコミットメント・コスト」ということを言う。採算が取れなくても、過疎地からは撤退しない(地元民に不便をかけるから)。寺社や商店街のイベントなどへの寄進や協賛にも協力する。地方祭にも行員を動員する…。このような目に見えないところで地元を支えているのだ。

「危機感のあまり、ついつい上から目線になる外来人は自戒して欲しい」。確かに、これは気をつけねばなるまい。目からウロコがボロボロと落ち、反省することしきりである。Fさん、ありがとうございました!
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奈良ものろーぐ(5)松倉重政 五條で善政 新町が発展

2016年09月21日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
九度山村(現・和歌山県伊都郡九度山町)に帰省していたので、更新が遅くなった。今日紹介するのは、私が奈良日日新聞に月1回(第4金曜日)に連載している「奈良ものろーぐ」第5回「松倉重政」(8/26付)である。高校の歴史教科書では悪者扱いであるが、全く違う横顔がある。五條新町発展の基礎を築いたのである。今回は、そこをクローズアップする。全文を紹介すると、

松倉重政「五條で善政 新町が発展」
 
高校の歴史教科書にも登場する松倉重政、一般的な理解は「江戸初期の大名。大坂の陣後、肥前島原四万石領主。島民に重税を課し、キリシタンを弾圧、島原の乱を誘発した」(『大辞林』)というもので、ネガティブなイメージがつきまとう。しかしこの重政が五條二見城主として善政をしき、新町発展の基礎を築いたことはあまり知られていない。

重政は大和郡山市横田町で、松倉重信の長男として生まれた。越中国(富山県)出身の祖父の代から、郡山筒井家家老職の家柄だった。重政は、筒井順慶の養子定次に仕え、関ヶ原では徳川方について武功をあげ、慶長13(1608)年、定次の改易処分後に大和国五條一万石余の大名に取りたてられ、二見城(五條市二見)に藩主として入部した。重政が二見城を与えられたのは、紀州九度山(和歌山県伊都郡)に蟄居(ちっきょ)する真田信繁(幸村)や高野山を警戒してのことといわれる。

入部した重政は、すぐさま二見村と五條村の間に約900メートルの直線道路をつけ、新しい商業の町「五條新町」を現出させた。そこでは「諸役免許」(諸税免除)という特権を与えて商業活動を奨励し、近郷から有力商人を集めた。「五條は、江戸期、大和盆地においては奈良に次ぐ都市であった」(司馬遼太郎著『街道をゆく 12 十津川街道』)という基礎を築いたのは、重政の功績である。。さらに重政は防火対策として新町に水門屋敷(水溜め場)を設けるとともに、類焼対策を兼ね南北に横小路(水門道)を通した。

重政は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で、郡山城の救援や道明寺方面での後藤又兵衛勢との戦いの功により、翌元和2(1616)年、肥前日之江城へ4万3000石余に加増のうえ転封となった。新町の住民は、重政の転封ののちも「諸役免許」の特権を守るため、団結して時の領主や代官にくり返し請願を行うとともに、「豊後様祭り」を行って重政への感謝の意をあらわした。

平成20(2008)年は重政の二見城入部400年の年で、同年五條市では「松倉豊後守重政四〇〇年記念事業」が行われた。法要、記念式典、記念講演会のほか豊後様祭り(松倉祭り)、顕彰碑の建立、『新町と松倉豊後守重政四〇〇年記念誌』の刊行などの事業が実施された。

同年6月、同事業実行委員会のメンバーは島原市を訪れた。驚くべきは「島原市長さんはじめ歴史に詳しい島原の皆さんは、異口同音に『重政公は島原城をこの地に築き、今日の島原市の礎を造った恩人として尊敬しており、悪く言う人はいません。五條の皆さんは心配しすぎではないでしょうか』と勇気づけられて帰ってきた」(「五條市広報」平成20年11月号)というくだりだ。慰安婦問題ではないが、くもりのない目で歴史を見つめ直すことは、いつの時代にも必要なのだ。=毎月第4週連載=


いかがだろう。重政はのちにも「築城に優れていた人物」「城下町を形成し町を振興させた人物」「浪人者などを集めて上手く人を使った人物」「貿易活動に注目した人物」として高い評価を得たが、これらが現在もよく知られているとは言いがたい。ステレオタイプを脱し、そろそろ松倉重政を再評価して良いのではないだろうか。

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