tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

土井一成展「木に生きる書」(in レクサス奈良八条)

2020年12月26日 | 奈良にこだわる
先月(2020.11.21)、「レクサス奈良八条15th Aniversary 新型LS発売記念スペシャル」と銘打った土井一成(どい・いっせい)展「木に生きる書」特別講演会に出席した。川上村出身・在住の書家・刻字家の土井一成さんが奈良トヨタさんに刻字作品を寄贈され、そのお披露目と、土井さんの特別講演会が開催されたのである。幸い土井さんからご招待いただき、イベントを楽しむことができた。
※トップ画像は、レクサス奈良八条の公式Facebookから拝借




川上村長 栗山忠昭氏の挨拶。土井さんが村民にも村長にも愛されていることが伝わってくる

イベントは午前10時から、記念映像(レクサス奈良八条15年の歩み)披露、主催者代表挨拶(奈良トヨタグループ代表 菊池 攻氏)に続き、川上村長 栗山忠昭氏、安堵町長 西本安博氏が来賓挨拶に立った。新型LSの披露のあと、10時40分からはお待ちかねの特別講演会「木に生きる書」。土井さんと柳林修氏(もと読売新聞編集委員)のトークセッションだった。





今まで知らなかった土井さんの中高生の頃の話や、山守の仕事、そして毎週1回、師の藤岡都逕(とけい)氏の指導を受けるため、川上村と奈良市を往復した話など、興味深く拝聴した。土井さんの奥さんにも会場でお目にかかった。そしていよいよ、土井さんが寄贈された刻字作品の披露。


菊池代表と土井さんが紐を持つ



おお、これは巨大な作品だ。「颯爽(さっそう)」と書くところをレクサスに引っかけて「颯走」としたところがミソである。ブルーで描いたことで疾走感が出ていて、とても良い。

私は川上村には3ヵ月に1回、講演のためにお邪魔していたが、コロナ禍でもう1年近くストップしている。しかしこの日はたくさんの村民の方や知人にお目にかかることができ、貴重な機会となった。土井さん、お招きいただき、ありがとうございました。これからも良い作品を作り続けてください!



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飛鳥四大寺のひとつ川原寺跡 弘福寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第82回

2020年12月25日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2020.12.17)掲載されたのは《「謎の大寺」の歴史継ぐ/川原寺跡 弘福寺(明日香村)》、執筆されたのは奈良まほろばソムリエの会会員で桜井市出身・在住の露木基勝さんだった。

露木さんは奈良県下のガイド名人を選ぶ「Nara観光コンシェルジュアワード」で最優秀賞を獲得するとともに、プロのガイドとして「飛鳥探検倶楽部」にも所属している。『奈良百寺巡礼』でも「川原寺跡 弘福寺(ぐふくじ)」を担当された。では記事全文を紹介する。

川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺(だいかんだいじ)とともに、飛鳥の四大寺に数えられる飛鳥時代を代表する大寺でした。しかし、創建の時期やいきさつが「日本書紀」などの古代の文献に記述されていません。さらに、他の大寺が平城遷都とともに平城京に移転していったのに、唯一、飛鳥にとどまり続けました。川原寺はその後、歴史の舞台から姿を消してしまい、「謎の大寺」と呼ばれています。

川原寺には東塔と中金堂・西金堂の二つの金堂を持つ、一塔二金堂式で堂塔が配置されていました。それは川原寺式と呼ばれ、寺跡は国史跡に指定されています。その中金堂の場所に建つのが、川原寺の法灯を引き継ぐ現在の弘福寺(ぐふくじ)です。

境内に足を踏み入れると、点在する白色の石が目に入ります。この石こそが、1400年の時を超えた川原寺の中金堂の礎石です。「瑪瑙(めのう)石」と呼ばれている珍しい大理石で作られ、28個が現存しています。

東西150㍍以上、南北330㍍という広大な遺構を散策すると、在りし日の川原寺の壮大さを肌で感じます。瑪瑙の礎石に手を触れて、飛鳥時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(奈良まほろばソムリエの会会員 露木基勝)

(宗 派)真言宗豊山派
(住 所)奈良県高市郡明日香村川原1109
(電 話)0744-54-2043
(交 通)飛鳥駅より赤かめバス「川原」下車、徒歩2分または橿原神宮前駅より赤かめバス「岡橋本」下車、徒歩10分
(拝 観)9~17時 300円   
(駐車場)近くに有(有料)


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動画配信とサンキューカードの配布を行う「三穂津姫(みほつひめ)まつり」、1月24日(日)スタート!(2021 Topic)

2020年12月24日 | お知らせ
※コロナ禍のため、ライブではなく、
録画済みの動画配信となりました!


田原本町記紀・万葉事業実行委員会は、2021.1.24~3.31まで、能楽「寿椿(じゅちん)」の動画配信とサンキューカード「三穂津レター」の配布を行う「三穂津姫(みほつひめ)まつり」を開催する。同委員会のニュースリリースによると、

田原本町記紀・万葉事業実行委員会(委員長:服部 誠、事務局:一般社団法人 田原本まちづくり観光振興機構内)は、2021 年 1 月 24 日(日)に「三穂津姫まつり」と題した YouTubeライブ配信イベントと、「三穂津レター」(サンキューカード)の配布を行う、3 月 31 日(水)までの期間限定イベントを実施いたします。

三穂津姫は、村屋神社(村屋坐彌冨都比賣神社:むらやにいますみふつひめじんじゃ)の祭神で、縁結びの神としても信仰されています。この三穂津姫の名を冠し、イベント事業とコミュニケーション事業、2 つの事業を展開することで、町内の交流と活性化を図り、田原本町記紀・万葉事業の最終年を華やかに締めくくります。

■イベント事業
世阿弥ゆかりの地・田原本のオリジナル能「寿椿(じゅちん)」を YouTube でライブ配信(無料)します。寿椿は世阿弥の妻でこの新作能では霊となって登場します。また、村屋神社の巫女舞や、三穂津姫のイメージソング「祈り」を古事記 project のまみよさんが歌います。
三穂津姫まつり特設サイト URL https://tawaramoton.com/mihotsuhime/

■コミュニケーション事業
日本書紀ゆかりの村屋神社の祭神・三穂津姫命のイメージをデザインしたサンキューカード「三穂津レター」を町内に配布します。大切な人へカードを贈ることで、三穂津姫命の夫婦和合や縁結びのご利益にあやかって、男女を問わずご縁をつなぎ、感謝を伝える“輪”を広げていきます。
配布先:観光ステーション磯城の里、はつのや 他 町内の施設・事業所など ※随時更新


世阿弥は若い頃、「補巌寺(ふがんじ)」(磯城郡田原本町味間)で禅を学んだ。また、妻とともにこの寺に身を寄せ、ここで亡くなったとも言われる。なので「世阿弥ゆかりの地」なのである。

コロナ禍のなか、動画配信とサンキューカード配布とは、よく考えたものである。ライブ動画は1月24日(日)18:00~19:30、こちらのサイトから入っていただける。皆さんも、ぜひ!



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依水園(いすいえん)の敷松葉(しきまつば)

2020年12月23日 | 観光にまつわるエトセトラ
奈良県庁の東にある依水園(奈良市水門町74)をご存じだろうか。奈良市観光協会のサイトによると、
※写真はすべて、依水園の公式Facebookから拝借した。
トップ写真は「市松模様のようにきれいにデザインした遠州流」か

かつて奈良晒(ならざらし)の御用商人が別邸として作った庭園で、昭和50年に国の名勝に指定されました。若草山や春日山、東大寺南大門の屋根が借景となり、あたかも若草山の芝生が園内まで続くかのように中の島と築山は芝生でおおわれています。また園内には、寧楽(ねいらく)美術館があり、東洋古美術品を収蔵・展示しています。

冬を迎えて依水園は今、庭(お茶室露地)に「敷松葉」を施している。敷松葉とは《霜をふせいで芝生や苔を保護し、また、風致をそえるために庭に松の枯葉を敷くこと。また、その松葉。(季・冬)》(『日本国語大辞典』)。最近開設された依水園の公式Facebookによると、


これは「一本ずつ均等に敷き詰める織部流」か

冬の風物詩:お茶室露地の敷松葉。枯れ松葉を敷き、霜による苔の傷みを防ぎ、乾燥をやわらげる効果があります。一本ずつ均等に敷き詰める織部流。市松模様のようにきれいにデザインした遠州流。人工的な敷松葉を排して自然風に回帰した利休流。庭石の裾のしめりや敷松葉 虚子


これは「人工的な敷松葉を排して自然風に回帰した利休流」か

これは見事だ。ぜひお訪ねいただきたい。依水園は火曜休。なお、2020.12.28~2021.1.15までは「庭園整備期間」として閉園されるので、ご注意を。詳しくはこちらをご覧ください。
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山上ヶ岳に墜落したB29搭乗の生存者、その行方を追う

2020年12月22日 | お知らせ
当ブログでは以前、「大峰山にB29が墜落、米兵士4人が生存…」(2020.11.19)という記事で、75年前のB29墜落事故について12月12日(土)、川上村地域おこし協力隊のデイビッド・カパララ(David Caprara)さんがリサーチ結果を発表する、と紹介した。
※トップ写真は読売新聞のサイトから拝借。キャプションは「入手したGHQの機密文書をパソコンに映し出すカパララさん。聴取された日本人の署名と押印もある。後ろにあるのは展示するパネル(川上村で)」

このブログ記事を読んで、何人かの友人・知人が川上村まで聞きに行ってくれた。同日のプレゼン終了後、カパララさんはご自身のFacebookに次のように書かれた(英語の原文を拙訳)。

今日は、私が今住んでいる地域にある日本仏教の聖なる山で75年前に起こったB29の墜落に関連して行ったリサーチについて、プレゼンテーションを行いました。 7人が墜落で亡くなり、4人が生き残りましたが、天皇が戦争の終結を発表した後、処刑されました。 75年前は、誰が正しいのか、誰が間違っているのかを判断することはできないと思います。

何らかの形で歴史における微妙に異なる見方に貢献し、リサーチと歴史保存の重要性を印象づけることができれば、と思います。過去に地政学的緊張と軍国主義がどのように発生したかを研究すれば、将来それが再び起こらないようにする方法を学ぶことができます。


カパララさんはアメリカの機密解除文書を入手して、リサーチしたそうだ。カパララさんのプレゼン当日朝、読売新聞奈良版が「天川墜落のB29機密記録 米ジャーナリスト調査/投降後の米兵 住民ら手当て」と大きく報じた。全文を引用すると、

太平洋戦争末期の1945年6月、紀伊山地に墜落した米軍のB29爆撃機について、墜落地に近い川上村に移住した米国人ジャーナリスト、デイビッド・カパララさん(31)が、米国立公文書館などから当時の機密文書を入手して調べた。12日に村で調査結果を発表する予定で、日米開戦から今月で79年となった今、「戦争の歴史を学び、平和を守ることが何より大切だ」と訴える。(中井将一郎)

4人 終戦直後に処刑
B29は45年6月1日、大勢の人が亡くなった大阪大空襲に加わった。帰還する途中に日本軍機に銃撃され、山上ヶ岳(1719メートル、天川村)の中腹に墜落。いずれも20歳代の搭乗員11人のうち、4人はパラシュートで脱出した。山中で投降するなどした4人は、捕虜として大阪の憲兵隊司令部に連行され、処刑されたことが知られている。

カパララさんは2012年から2年間、外国語指導助手として川上村に住んだ。帰国後にジャーナリストとなったが、「川上は日本での古里。村おこしを手伝いたい」との思いが募り、19年8月、村の地域おこし協力隊となった。

吉野林業について映像取材を進める中で、かつてB29が墜落したと聞き、興味が湧いた。インターネットで調べても確たる事実はつかめず、米国立公文書館や米軍などに情報開示を求めたところ、今年2月までに計約400ページの当時の文書や写真を入手できた。中でも、連合国軍総司令部(GHQ)が戦後にまとめた30ページにわたる機密扱いだった調査報告書は、憲兵や現地の村人、警察官、捕虜を移送した運転手らを聴取した記録が含まれていた。

墜落現場で焼け焦げた遺体を見た住民は「衝撃的な経験」と語っている。山上ヶ岳山頂の大峯山寺で生き残った2人が降伏、残る2人も山中で住民に発見されたことも記録されていた。墜落から2日後に数キロ離れた川上村で投降したアルビン・ハート軍曹(当時28歳)は、村人に握り飯をもらい、やけどを負った顔を近くの女性医師から手当てを受けた。

カパララさんは「『米兵は鬼』と教えられていたはずなのに驚いた。たとえ敵兵でも目の前にすると、同じ人間だと感じたのだろう。その心が大事だ」と語る。捕虜になった4人は、玉音放送が流れた直後、憲兵がほかの捕虜とともに、3人をピストルで頭を撃つなどして銃殺し、1人を胃薬と偽って毒殺したこともわかった。ある憲兵は、上官から食料が限られていることを理由に、早く処刑することを求められたことも証言している。

カパララさんは「墜落後も生きていた人がいたことを知ってほしい。戦争を二度としないためには、戦争について学ぶことが大切だ」と強調している。機体の一部は戦後も放置されていたが、天川村が06年にエンジンの残骸を回収し、村立資料館で展示している。カパララさんは今回の調査内容を資料館に提供したいという。12日午後1時、川上村立図書館隣接のホールで内容を発表する。聴講の申し込みは図書館(0746・52・0144)。図書館では当面、調査内容をパネル展示する。


アメリカの機密解除文書を入手してリサーチしたとは、すごい。まさに日米両国の架け橋だ。これは立派な平和教育の教材になる。後南朝の皇子たちを匿(かくま)った川上村の伝統が、戦時中も生きていたことになる。この話は永く語り継いでいただきたいと思う。

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