tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

テクスチャを楽しむ斬新な和食「ダイニング割烹にし田」(垂仁天皇陵 北西)

2023年03月26日 | グルメガイド
うーん、これは目からウロコ、こんな「割烹」があったとは!木曜日(2023.3.23)の夜、友人と3人で「ダイニング割烹にし田」(奈良市宝来2-9-4)を訪ねた(完全予約制)。このお店は、『ミシュランガイド奈良2022』にも掲載されている。
※トップ写真は、アワビ、ふき味噌(ふきのとう味噌)、ゴボウ。お皿は有田焼か


道ばたに、こんな道標があった

「宝来」と聞くと阪奈道路を連想するがそうではなく、近鉄尼ヶ辻駅から、暗越(くらがりごえ)奈良街道(国道308号)をまっすぐ西に約450mほど歩いたところだ。ちょうど垂仁天皇陵の北西方向になる。ご店主の西田陽亮(ようすけ)さんのFacebookには、



前日までの完全予約制です [ランチ] 7500円コース(税サ込) [ディナー]14000円コース(税サ込) 営業時間 ランチ 11:00~14:00/ディナー 17:00~22:00



「ダイニング」とは「1 食事。2 ダイニングルームの略。3 洋風の飲食店。洋食屋」(デジタル大辞泉)、これが「割烹」、つまり「《肉を割(さ)いて烹(に)る意から》食物を調理すること。ふつう日本料理にいう。料理」(同)と、どのように結びつくのか、興味津々(しんしん)だった。


先付。滋賀県産の鴨肉の下にはエビ(ニューカレドニア産「天使のエビ」)
ソースはジャガイモ(インカのめざめ)のペースト


剣先イカ、マグロ中トロ、生アオサ、クリームチーズ、そこにオニオンチップスがかかる

ミシュランガイドの同店サイトには、

ミシュランガイドのビューポイント
新しさを感じさせる店でありたいと名付けた「ダイニング割烹」。主人は黒の割烹着を身にまとい、和洋折衷の献立に腕を振るう。鮪と烏賊の造りは、白味噌にクリームチーズを合わせたソースで味わう。鯖のサンドイッチは名物。オリーブ油などの調味料も使いつつ、足し算の発想で創作している。



椀物。九十九里浜のハマグリ、和歌山のヒラメ。春の山菜・コゴミとユズのコントラストがいい


ウナギにトリュフとチーズを使ったソースがかかる、パスタは平打ちのフェットゥチーネ

ヒトサラの同店サイトには、このように紹介されていた。

【ミシュランガイド奈良2022年特別版掲載店】
良い食材が美味しいことは、当たり前。その先にある、新しさと満足感を追求する、ダイニング割烹 にし田。和食の基本をひときわ丁寧に、一つ一つ心を込めて調理。四季折々の厳選食材を使い、匠の技術によって食卓を彩る一皿を創作。訪れる度に新たな美味しさとの出会いを体験できる。割烹料理店として、宴会や接待などの宴の場はもちろん、ダイニングとしてご家族でのお食事でも利用可能。



アワビ、ふき味噌(ふきのとう味噌)、ゴボウ。トップ写真に同じ


黒毛和牛。上がサーロイン、下がシャトーブリアン(ヒレ肉)にウニのソース。クレソンが載る

料理人 / 西田 陽亮 氏 (ニシダ ヨウスケ)
専門ジャンル: 和食全般 食材本来の魅力を活かす、和食の道で技術を磨き続ける匠

20歳から京都・嵐山の割烹料理店で修業を重ね、その後も洋食・中華と様々なジャンルのいろはを学ぶ。料理人を志す原点となった和食の道へと帰り、2002年5月、地元奈良で「ダイニング割烹 にし田」を創立。食卓の空間にもこだわり、店の掃除は毎日3時間が日課。当たり前のことを妥協せず、1つ1つ丁寧に行う心は料理人の鑑そのものである。



フカヒレスープを使ったにゅうめん、これは幸せな三輪そうめんだ


最中の皮=最中種(もなかだね)の中にフルーツなどが入っている、これをバクッといただいた


イチゴはあすかルビー、器は伊万里焼か。パフェを混ぜながら食べている気分で、とても楽しい

新鮮な食材の組み合わせ、オリジナルのソースとの取り合わせ、食器を含めたビジュアルが三拍子揃って素晴らしい、よくお考えになったものだ。ここに至るまでには相当、試行錯誤を繰り返されたに違いない。

広々として清潔な店内でいただくサプライズ料理の数々は、上質のサスペンス映画を見ているようなワクワク感が味わえる。西田陽亮さん、ごちそうさまでした。皆さん、ぜひ「ダイニング割烹 にし田」をお訪ねください、前日までのご予約をお忘れなく!
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重伝建のなかのオアシス「四季彩菜 㐂風(きふう)」/橿原市今井町

2023年03月25日 | グルメガイド
バレンタインデー(2023.2.14)に、仲間と4人で「四季彩菜 㐂風」(橿原市今井町4-2-14)を訪ねた。今井町には何度も足を運んでいるが、このお店のことは、最近になって知ったばかりである。注文したのは、お昼の懐石@4,400円(税込み)だ。お店のHPには、
※豪華な八寸!このときは2月だったので、縁起物のヒイラギと梅のつぼみが添えられていた


お店は、室町後期から栄えた重要伝統的建造物群保存地区・今井町にある


古民家なので、室内はあまり広くない

(こだわり)和食料理人として17年修行しこのたび今井町北口東側の蔵を改築した「㐂風」を独立開業することになりました。古い木材の梁などを残しつつ、伝統的な日本建築で造りあげられたま新しい檜や杉、漆喰塗の壁、松の一枚板のカウンターテーブルなど、新旧織り交ぜた隠れ家的な趣のある空間に仕上がっております。


この日のメニュー、これは期待が高まる!


先付け。カニの茶碗蒸し、こごみ、ニンジン、ユズ


粕汁風の煮物椀。カブラ、タラ白子、ナタネ、ねじり梅、シイタケ、カラシ

伝統的な技と調理法で食材の持ち味を活かしたリーズナブルな会席料理をご提供いたします。また唎酒師(ききさけし)の資格を持つ店主がおすすめする各地の地酒も取り揃えております。お料理とぜひお楽しみ下さい。


向付(刺身)。本マグロ、ヒラメ、カンパチ。古伊万里風のお皿もいい


八寸(前菜=トップ写真)、「福」の蓋がいい。カキポン酢、タケノコ土佐煮、雪輪(ゆきわ)レンコン(雪の結晶状に切ったレンコン)、エビ芝煮(エビをさっと茹でたもの)、鴨ロース、カズノコ、玉子カステラ、そら豆、イクラ、サーモン柚庵焼き(つけ焼き)

(お料理)旬の素材を使い一品一品丁寧に調理し素材の持ち味を活かしたお料理を是非ご堪能ください。また季節感ある仕立て器等もお楽しみ下さい。


強肴(しいざかな=揚げ物)。タイと揚げ出し豆腐


焼肴。サワラの塩焼き

(コースのご紹介)
◆お昼の懐石 4,000円(税別)
◆夜の懐石  5,000円、6,000円、7,000円(税別)
詳しくはお問い合わせくださいませ。



土鍋飯。ブリの炊き込みご飯、これで4人前


あまりに美味しかったので、私は3杯いただいてしまった!


向かって左は、止椀とお漬物

座席数は1Fカウンター6席に、2Fテーブル12席ご用意しております。2Fテーブル席ではゆっくりとお寛ぎいただける様になっております。お2階は10名様以上で貸切可。15名様までご案内可能です。


香り高いコーヒー、イチゴも甘かった!


有田焼だろうか、いい器だ

接待やお祝いの席、法事のお食事、歓送迎会、忘新年会など各種宴会にもぜひご利用下さいませ。どうぞお気軽にお問合せ下さいませ。
ご予約・お問合せ先 TEL:0744-33-9155


いかがだろう、これで@4,400円とは驚きだ!地元の人たちは、お祝い事や法事で、よくこのお店を利用されるそうだ。雰囲気抜群、美味しくてリーズナブルなお店、皆さん、ぜひお訪ねください!
※ぐるなびは、こちら
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田中利典師「吉野山と嵐山」(1)吉野は古来、逃避地だった

2023年03月24日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」(世界遺産連続講座)という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり知られていない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は吉野山ではなく、ウチの近隣公園のヤマザクラ(コロナ禍の2020.4.5に撮影)

連載の初回は、吉野山の話。〈吉野は古代から天皇や豪族が逃げてきたり、挙兵したりという場所であった。それは何かというと、吉野は古代から、幽玄の地、幽境の地、神仙の地というか、なんか、よみがえりの地というべきなにかがあり、そこに行ってパワーをもらうという、そういう場所であった〉とお書きである。では師のFacebook(2/28付)から、全文を紹介する。

シリーズ「吉野山と嵐山」①
昨日、なにげにNHKのニュースをみていると、京都嵐山に、吉野の白山桜が植樹されたようすが伝えられ、金峯山寺や吉野山保勝会のみんなが、嵐山蔵王権現堂に参拝している画像が流れた。

実は2011年9月にこの嵐山蔵王堂に私もお参りしている。嵯峨野の野宮神社で開催された斎王セミナーの講師として招かれ、「吉野と嵐山の深い縁」についてお話しさせていただいた折りに、初めてご案内を頂いたのである。どしゃぶりだったように思う。そのときのご縁が更に深まったようで嬉しかった。

で、吉野山のシロヤマザクラが嵐山に植樹された機会に、好評いただいている?私の著作振り返りシリーズの第7弾は、このときの講演を元に、その後なんどか行った「吉野山と嵐山」の講演から活字になっているものを探したらあったので、それを紹介させていただきます。2016年11月、東京の奈良まほろば館で開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。

吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、講演会の雰囲気を残しながら、7回に分けてアップしますのでご覧下さい。

******************

今年は金峯山寺及び吉野大峯の世界遺産登録10周年記念を慶讃し、吉野町との合同事業として、全10回の連続講座を企画させていただきました。今年の講座は、吉野に関連する人物に目を向けようという趣旨で、古代から近現代くらいまで、吉野と縁のある人々のお話しさせていただいています。一応私が企画しましたから、自分自身でも一回は出なあかんなあというので、今日、来ました。

最初にだーっと10回分のリストを書いて、「これ誰にしてもらえ」という指示した企画の中で、私はじゃあこれをするからと書いた題が、ここに書きました「後嵯峨/亀山上皇と吉野山と嵐山」です。

でもよく考えるとこんな長ったらしいタイトルは失敗やなあ、変えようかなあと思っている内に、告知がされてしまい、それで人が来るかいなあと、とても心配をしていたのです。でも幸い満員となりましたので安心をしております。ありがとうございます。

さて今日はまず、結論を先に言います。吉野山に「嵐山」という地名があるのですが、嵐山というと、みなさんは京都を思い浮かべるわけです。ところがあの京都の嵐山は分家でして、吉野が本家なんです。で、その分家を行ったのが後嵯峨上皇と亀山上皇だ、という話。

後嵯峨上皇の時代に、吉野から「嵐山」という地名と、同じく「ほおずきお」という地名を持って行ってことで、あの一帯を嵐山・保津峡と呼ぶようになった、そういうテーマの話ですので、要はそれさえわかっていただくと結論が出たということになります。でも、それでは70分の講話が3分くらいで終わってしまうので、そういうわけにはいきません。分家が本家に負けるのはよくある話なんですけれども、その元となったお話をじっくり詳しくしていきます。

まず「吉野」という地名ですね。吉野は古代からずっと日本史上に現れ続けるんですが、それは吉野で活躍した人、あるいは吉野を訪れた人たちの歴史が、日本の歴史の中で大きな意味をなすことがたくさんあった、のでそうなったわけであります。ですから、まず吉野を訪れた人々はどんな人があるのかなという所から見ていこうと思います。

第一番目は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)。正確に言うと、皇子の前にも訪れた有名人はいます。古事記、日本書紀にも出てまいりますように、神話の世界ですが、神武天皇が大和にお入りになるのに、初め大阪からお入りになった。ただ、その道は土俗の人々の抵抗に会い、上手くいかなくて、それで改めて熊野から、紀伊半島の山々を越えて吉野に入り、それから大和に入る。吉野は神武様がお通りになったというような歴史があるのです。日本の歴史に関わる大きな足跡ですね。

しかしまあ正しく、正史と言われる中で出てくるのは、古人大兄皇子という、舒明天皇の第一皇子で、蘇我馬子の娘の子が、最初です。蘇我入鹿が、山背大兄王(聖徳太子の息子さんです)を殺して、古人大兄皇子が天皇の跡継ぎになります。ところが645年に大化の改新で、中大兄皇子に蘇我氏が滅ぼされ、蘇我氏の後ろ盾を失った古人大兄皇子は吉野に隠棲するのです。隠棲されるんですが、大化の改新の後、わずか3か月後には吉野で殺されてしまいます。

ここで注目するのは吉野に舒明天皇の第一皇子が逃げてこられたという事実。その辺から吉野というのは、都に対して「逃げる場所」的な、そういう場所であったことがわかる。

斉明天皇という舒明天皇の奥さん(重訴して皇極天皇)も吉野宮というのを営んで、吉野においでになりました。有名な額田王が斉明天皇に連れ添って、吉野に来て、歌を残したということもあります。

その斉明天皇のお子様たちが、天智天皇・天武天皇。中大兄皇子が天智で、大海人皇子が天武天皇です。大化の改新ののち、中大兄皇子は天智天皇として即位されたのは少し後なのですが、いずれにしろ、大化の改新を経て天皇家が蘇我氏から政権を取り戻したという話ですね。

天智天皇は近江京で天皇親政の世界をお造りになった。そしてその跡継ぎ問題でもめた時に、天智天皇の弟の大海人皇子は、「天智天皇はどうせ自分の息子の大友皇子に譲りたいだろうから、自分の身があぶない」というので、また吉野に逃げてこられ、そして吉野から挙兵して、天智天皇の息子の大友皇子を破って、天皇となられた。天武天皇です。これが壬申の乱であります。

で、そういう背景のもとに、吉野を拠点に天武政権はできたので、その天武天皇の奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という方は、なんと吉野に31回巡幸・行幸をされている。

鵜野讃良皇女、後の持統天皇ですが、彼女を主役に描いた『天上の虹』という里中満智子さんの長い漫画があります。この漫画はこの辺の所から物語が始まります。あの漫画、そろそろ完結したんですかね。今年の4月にラジオ収録で里中先生とご一緒しましたが、そのとき、完結しますっておっしゃってました。

それはともかく、そういう時代があって、吉野は古代から天皇や豪族が逃げてきたり、挙兵したりという場所であった。それは何かというと、吉野は古代から、幽玄の地、幽境の地、神仙の地というか、なんか、よみがえりの地というべきなにかがあり、そこに行ってパワーをもらうという、そういう場所であった。

さてその地に役行者という、後々には修験道を開祖と崇められる行者様が修行にお入りになります。そして蔵王権現という修験独特のご本尊を祈りだし、修験道という信仰を始めらます。もともと神仙境であった吉野ですが、そこに修験道という信仰が始まったことで、後々のさまざまな歴史に深くかかわってくるとことになります。この辺はこの後ゆっくりお話をいたします。
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三輪そうめん、存続の危機!後継者難で業者も生産量も半減

2023年03月23日 | 奈良にこだわる
奈良新聞(2023.3.19付)一面トップに〈三輪そうめん 後継不足で業者半減 生産量も比例し減少 原料高騰など追い打ち〉という記事が出ていた。詳細は、末尾の記事画像を見ていただきたい。リード文は、
※トップ画像は、「奈良まほろばかるた」から拝借

〈奈良を代表する特産品、三輪そうめん。その製造業者が減少している。それに伴い、そうめんの生産量も減少。第三者承継や新規参入が難しい業界ともいわれ、奈良の伝統産業を守るためには行政の支援も欠かせない〉。



2000年に比べ製造業者が約120軒から約60軒に半減し、これに比例して生産量も半減しているというから深刻だ。製造業者の高齢化が原因で、パート従業員を募集してもほとんど応募がないという。この話は、同紙の「國原譜」(2023.3.22付)でも取り上げられていた。

そうめんの製造はいわゆる「家内制手工業」で、自宅の一部が工場になっている。親族が跡を継いでくれれば良いが、なかなかそのようには行かないようだ。



三輪そうめんは2022年度の文化庁「100年フード」に選ばれ、同時に「有識者(審査員)特別賞」も受賞している。奈良県が誇る特産品、興味を持ってくれる若者はいないのだろうか。

コメント (4)
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田中利典師の「日本の桜、吉野の桜」/『奈良大和路の桜』(淡交社刊)より

2023年03月22日 | 田中利典師曰く
2015年3月、淡交社から「奈良を愉しむ」シリーズとして『奈良大和路の桜』が刊行された。共著者は田中利典師、岡本彰夫師、岡野弘彦氏、桑原英文氏、菅沼孝之氏という錚々(そうそう)たる顔ぶれである。同じシリーズには『奈良大和路の紅葉』がある(2014年10月刊)。
※トップ写真は、ウチの近隣公園のヤマザクラ(コロナ禍の2020.4.5に撮影)

田中利典師はご自身のFacebook(3/17付)で、 本書の巻頭解説「日本の桜、吉野の桜」を公開された(先日は「吉野山巡礼」を公開された)。詳しくてとても分かりやすい文章なので、以下に紹介させていただく。ぜひ熟読玩味していただきたい。

「日本の桜、吉野の桜」
昨日お知らせしましたように、写真家桑原英文さんの写真と私や春日大社元権宮司岡本彰夫先生などの随筆がコラボして出版された『奈良大和路の桜 』(淡交社刊)が絶版となります。 もうAmazonも在庫切れになっているようです。もし、お求めの方は私の手持ちがまだありますので、メール(フェイスブックのメッセンジャーでOK)でご連絡いただければお送りします(サイン付きですよ〜ん)。

その「奈良大和路の桜」で、巻頭解説の文章を書かせていただきました。少し長くなったので元原稿ははしょられていますが、その元原稿を掲載します。よろしければご覧下さい。

***********

「日本の桜、吉野の桜」
桜について考えてみたいと思います。桜は菊と並んで、日本の国花といいます。はてさて、いつ頃からそういうことになったのでしょうか。万葉集に出る桜の数は44首。梅は118首。ご存知のように、当時は梅の花の方が多く詠まれています。

どうやら平安時代、古今和歌集の頃から、花といえば桜が定着して来たようです。とはいえ、今ではやはり桜が日本を代表する花であることは間違いないでしょう。いや、花見といえば、菊でもボタンでもはたまた椿でもチューリップでもなく、桜に決まっています。日本人の花見は桜見なのです。

ところで、この桜が問題なのです。明治以前までは桜といえば、ヤマザクラを代表に、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラなど、もともと日本に自生した自然種のサクラでした。ヒガンザクラなどもそうです。それが明治以降、日本各地に咲く多くの桜は「ソメイヨシノ」になっていったのでした。

この「ソメイヨシノ」。実は幕末から明治の初期にかけて、江戸染井村の植木職人達が作った、エドヒガンとオオシマザクラの掛け合わせのコピー種(クローン)なのです。品種改良の完成当初、サクラといえば吉野だからというので、「吉野桜」の名前で売り出したそうですが、本家吉野山の山桜と混同されるのを避けて、誕生地染井村の名前によって「ソメイヨシノ」となったということです。

ソメイヨシノはヤマザクラやオオシマザクラなどの固有種と違い、たとえば、山桜の寿命が100~120年に対して、80~100年と短いのですが、一方で繁殖力が大きく、また苗木から開花までの年数が短いという多くのメリットがありました。しかし日本各地の桜の名所がソメイヨシノで飾られるようになるのは、世間ではあまり知られていませんが、深い歴史のワケがありました。

19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、日本は大きな変革期を迎えます。260年続いた江戸期の泰平の世が終わって、幕末から明治維新へ、近世から近代への大変革が行われます。近代社会は18世紀にヨーロッパで興った産業革命以降、世界各地を席巻していきます。その波に飲み込まれるように日本にも近代化の波が押し寄せたのでした。

近代社会は「国民国家」と「市民社会」と「資本主義」の三点セットでやってくると言われていますが、その一番最初に来るものは「国民国家」です。国民国家とは国民のための国家ということではなく、それまであった共同体を解体して国民をばらばらにしたあと、改めて新しい国家観のもとに国民を統合管理する、いわば管理社会のことを言います。

日本の近代は明治の神仏分離以降、天皇制の確立と共に成立していきますが、当初は長く続いた元々の共同体組織の解体が進まず、うまくいきませんでした。人々は国家の下ではなく、それぞれの土地の神や仏、先祖たちから受け継いだ地域社会のもとに暮らしていたのでした。

それが壊れ、一気に国民国家に進むのは日清・日露戦争の勝利だったのです。そしてその戦勝記念にソメイヨシノの植樹運動が全国で行われ、学校をはじめ多くの公園に植えられて、広がったから、日本の桜の代表が山桜からソメイヨシノに変わっていくのでした。コピー種ですから一斉に咲きます。そしてパッと咲いてパッと散るというソメイヨシノの美しさは、日本人の精神にもなぞらえられたのです(内山節著『共同体の基礎理論』農文協刊)。

少々難しい話になりました。だからといって、筆者は決してソメイヨシノがダメだというのではありません。ソメイヨシノはソメイヨシノなりの美しさがあります。ただ、古今集の紀友則や紀貫之にはじまり、西行法師や俳聖芭蕉が賛嘆した日本の桜はソメイヨシノではなく、山桜を代表とする日本に自生した桜花であり、そこには近代以前の日本の美しさを伝えている世界が広がっています。

「敷島の大和心を人問えば 朝日に匂ふ山桜花」と本居宣長が詠んだのは、決してソメイヨシノの花ではなく、匂い立つように咲いた山桜花だったのです。日本一の桜の名所と謳われる奈良県吉野山の桜は山桜です。しかも、この桜は、近代以降の、人が愛でるために植えられた桜ではなく、吉野の主尊・蔵王権現のご神木として、代々にわたり大切に守り伝えられてきた桜なのです。

権現信仰とともに千年の歴史を刻んできたのが吉野山の桜であり、ソメイヨシノが近代の象徴であるとするなら、山桜は国民国家以前の、神と人とがよりそってきた古い形の日本の象徴と言っていいでしょう。

実は奈良県内に点在する多くの桜の名所・名木もまた吉野山同様に、元はその土地に自生し、長年にわたって土地の人々と共に歴史を刻んできた桜であります。そこに深さとすごみ、そしてゆかしさを感じるのは地元の人だけではないでしょう。訪れる人にこその味わいが生まれることと思います。

ただ、日本の素晴らしさは縄魂弥才、和魂洋才という、日本古来のものと外来のものが喧嘩することなく、互いに影響し合いながら、重層的に棲み分けをし、混同するという独特の文化性といえるでしょう。桜花も同様であります。

日本の桜の名所は、吉野山のように千年以上前から蔵王権現のご神木として全山を山桜が覆い尽したような景観を持つところと、明治以降、大量に植樹されて見事な桜公園を作ってきた各地の花見所が、あたかも競演し合うように、春の日本列島を彩ります。日本ならではの風景であり、四季の情緒を作り出しているのではないでしょうか。

そしてその美しさは奈良県内に咲き競う多くの桜名所でも見て取れます。ぜひ、その、それぞれの桜名所の由来を訪ねてみて、近代以前の日本人の深い美観と、近現代が作り得た美しい桜風景の数々を見比べながら、存分に愛でていただければと思います。

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昨日も書きましたが、本書を片手に、奈良県内の桜の名所をお訪ねになってはいかがでしょうか。もうそろそろ各地で開花宣言が聞かれますねえ…。
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