■ 朝カフェ読書で『都市空間の明治維新』松山 恵/ちくま新書を読み始めた。毎日多忙ではあるが、時にはこんな時間を持ちたいと思う。
**かつて「江戸」と呼ばれた都市は、どのような過程で「東京」となったのか?**(カバー折り返し)という問いへの答えを論じている。興味深いテーマで、読んでみたいと思った。
今年も読んでみたいという気持ちに素直に従っていこう。
■ 朝カフェ読書で『都市空間の明治維新』松山 恵/ちくま新書を読み始めた。毎日多忙ではあるが、時にはこんな時間を持ちたいと思う。
**かつて「江戸」と呼ばれた都市は、どのような過程で「東京」となったのか?**(カバー折り返し)という問いへの答えを論じている。興味深いテーマで、読んでみたいと思った。
今年も読んでみたいという気持ちに素直に従っていこう。
『北杜夫の文学的世界』中央公論社(当時)/1978
この本で文芸評論家の奥野健男氏は北杜夫の文学について論じている。「原風景」について考えていて、ふとこの本を思い出した。北杜夫の文学的原風景を論じていて興味深い。
**北杜夫をして、文学にかりたてるものは、幼少年期の不思議な感銘ではないだろうか。普通なら無意識の昏(くら)い茂みの中に隠されたまま、忘却の彼方に消えて行ってしまう幼少年期の思い出が、彼の場合、敗戦前後の青春の一時期の透き通った感覚と体験とに照応して鮮やかに蘇って来たのではないだろうか。** 北杜夫の代表作の『幽霊』の書き出し部分を引用した後、奥野氏はこのように指摘している。
**人々は北杜夫の文学から、忘れていた自分の幼少年期の神話を、ひそかに感じていた魂の憧れを、まるで少年のように新鮮な現実への視点を発見するのだ。** 自分が北杜夫の文学に何故惹かれるのかを考えてみると、奥野氏が実に明快に北杜夫の文学の魅力を分析していることが分かる。
奥野氏は北杜夫の文学の「原風景」は「原っぱ」なのだと指摘する。原っぱこそが都会育ちの少年、特に戦前の東京の山の手育ちの子供たちにとって「自己形成空間」なのだという。氏は尾島敏雄や安岡章太郎、吉行淳之介、三島由紀夫、山口瞳、辻邦生、加賀乙彦ら多くの作家との語らいを通じて、彼らもまた原っぱに芸術や文学を支える原風景を見出していることを知る。
「作家にとって文学や建築は原風景を再構成して提示する手段であり、その意味においては両者は等価なもの」と考えて大過ないだろう。
私が書きたいのは実は今回も建築のモチーフとしての原風景なのだが、この数日間でようやく、自分なりに考えをまとめることができたと思う。
建築家の原風景が皆同じということでは勿論ない、繰り返すが藤森照信のそれは「諏訪の野山」であり、伊東豊雄の場合は「霞んで輪郭のはっきりしない諏訪湖」、原広司の場合は「伊那谷とアルプス」なのだ。
原氏の代表作のひとつであるJR京都駅ビルを、かつて藤森氏が伊那谷と南アルプスの姿から説明していたことを、例の本によって知った。なるほど、階段によって構成されたあの大きな吹き抜けの空間が伊那谷の地形を再構成したものだと素直に思える(藤森氏があの空間をどのように捉らえたのかは知らないが、たぶん私のイメージと差異はないだろう)。
最後にもう一度今回とり上げた『北杜夫の文学世界』に戻ろう。奥野氏はこの本で北杜夫の代表作について論じているが、始めにとり上げているのが『幽霊』、最後が『木精』である。やはり氏もこの2作を北杜夫の代表作と考えていたらしい。
2006年8月27日