■ 昨晩(15日)松本清張の『影の地帯』(新潮文庫1972年発行、1998年55刷)を読み終えた。事件を追うことになるカメラマン・田代利介が飛行機内で出会い、惹かれた女性。名前も分からないこの女性が事件に関わっていることが次第に明らかになる。
最後、この女性はどうなったのだろう・・・。このことが気になって、読み急いだ。ラストのサスペンスフルな場面の後に女性の名前も明らかになり、田代が望む結果に一応なる。ただし女性は凶悪な犯罪に関わっていたのだから、起訴猶予とはならないんじゃないかな。
**この平和の奥に、まだまだ見えない黒い影が傲慢に存在し、それが目に見えないところから、現代を動かしているのだ。**(604頁) 松本清張はこのことを伝えたくて600頁もの長編小説を書いたのだろう。タイトルの『影の地帯』にもこの意味が込められていると思う。
ネタバレになるから詳しくは書かないが、パラフィン包埋(ほうまい)と呼ばれる方法によって臓器の標本をつくり、それを薄く刻んで顕微鏡で検査するという方法を清張が知り、このことから死体処理の方法を思いつき、これは使える! と思ったに違いない。
わざわざこんなことをしなくてもとか、こんな行動するかな・・・。読みながらこのように思うところもあった。わざわざ木箱を東京から信州まで送らなくてもいいじゃないか、その木箱を何も湖に投ずることはないじゃないか。だが、このような行動は合理的ではないという指摘、つっこみは小説としての面白みを半減させる。そう、このような不合理な行動が小説を魅力的にしているともいえるのだから。
このことで思い出すのはしばらく前に再読した『砂の器』。この小説には若い女性が中央線の列車の窓から細かな白い紙片を撒くシーンが出てくる。映画でも省かれることなく出てくるこのシーン、ぼくはずっと印象に残っている(*1)。紙片は実は血痕のついたシャツを細かく刻んだものだが、それをわざわざ列車の窓から撒くなどという目立つことをするかなぁ、などと思ってはいけないのだ。この場面が目撃されたことが事件の解決につながっていくのだが・・・。
偶然の再会も小説ではありなのだ(松本清張の小説には偶然の再会が多いと思うがどうだろう)。
他の清張作品も読みたくなってきた。
*1 原作では夜汽車の窓から撒いているが、映画では昼間の列車の窓から。若い女性は島田陽子が演じていた。