■ 今日(10月30日)は筑摩書房の創業者・古田 晁の命日。
昨日の午後「本の寺子屋」で太宰 治賞を受賞した作家・山家 望さんと臼井高瀬さんの講演会が開催された。臼井高瀬さんの父親は長編小説『安曇野』を世に残した臼井吉見。
古田 晁と臼井吉見は大正7年(1918年)旧制松本中学に入学し、その日に出会う。その後二人は共に松高、東大に進学している。臼井高瀬さんは「吉田 晁と臼井吉見の55年6ヵ月」と題した講演で古田 晁と父親の臼井吉見の交流をさまざまなエピソードを交えて話された。なお、山家 望さんの演題は「ものがたりと小説、そのあわい」。
古田 晁が創業した出版社の社名、筑摩書房は臼井吉見が提案したということはよく知られていて、私も知っていた。島崎藤村を意識したのか、千曲という表記案もあったそうだが「筑摩」を臼井吉見の奥さんが提案したということ(*1)。臼井吉見が提案した「現代日本文学全集」の出版が筑摩書房の経営危機を救うことになったということ。晩年、古田 晁は健康を損ない禁酒していたそうだが、臼井吉見から10年がかりで書いた『安曇野』の脱稿を聞き、飲酒。梯子して行きつけのバーで倒れ、自宅に送られる車内で亡くなったこと。駆け付けた臼井吉見が号泣、泣き声が家の外まで聞こえたこと。『安曇野』の刊行記念の祝賀会では臼井吉見の席の隣が空席で、そのことについて臼井吉見が挨拶で触れたこと。
加齢とともに涙もろくなった私は、講演の終盤、二人の友情話を涙ぐみながら聴いた。臼井高瀬さんは実に話の上手い方で、印象に残る講演をされた。
*1 このことについてネット検索した。福岡女子大学文学部紀要の「角川書店の『昭和文学全集』の変化」(田坂憲二氏)に次のような記述があった。**筑摩書房の社名は、当初は藤村の「千曲川旅情のうた」にあやかって、「千曲書房」と考えられていたのだが、臼井吉見の妻あやの、「センキョクと読まれるから、筑摩県の筑摩がいい。古田さんの故郷も、もとの筑摩県ですし」という言葉によって、現在の社名に落ち着いたという。** 和田芳恵『筑摩書房の三十年』(1970年12月)からこのことが引用されている。