360
■ 原田マハさんの作品では『モダン』文春文庫を初めて読んだ。昨年(2022年)の11月に我が僻村の文化祭の「中古本プレゼント会」で見つけた本だった。今年の10月から集中的に原田さんの作品を読んでいる。
『リーチ先生』(集英社文庫2019年6月30日第1刷、2022年6月15日第5刷)を読んだ。原田さんの作品では10作目だ。
これはイギリスの陶芸家バーナード・リーチの評伝的作品とも言えるが、沖 亀乃介という一陶芸家の人生を描いた物語と言うこともできる。一言で括れば出会いと別れの物語だ。まあ、人生は出会いと別れ、この繰り返しなのだから、当然と言えば当然だろうが・・・。
1953年(昭和28年)に再来日したリーチは全国各地を訪ね歩いているが、この年に松本にも来ている。リーチが来松していることは知っていた。私の知り合いの中では最もご高齢のKBさんは、当時松本市入山辺に住んで居られ、来松して霞山荘に宿泊していたリーチが入山辺の徳運寺を散歩したり、茅葺きの民家を茶色の万年筆でスケッチしているところを見たことがあるそうだ。KBさんも『リーチ先生』を読まれたそうだが、特別な読書体験だったに違いない。
『リーチ先生』のプロローグはリーチが1954年(来松の翌年)の4月に大分県の山あいにある陶器の里、小鹿田(おんた)を訪ねてくるところから始まる。この時のリーチの世話役が16歳の陶工見習い、沖 高市(こういち)だった。
**「コウちゃん。私は君に、ひとつ、質問があります。訊いてもいいですか」**(75頁)
**「君のお父さんは、オキ・カメノスケ、という名前ではありませんか」**(76頁)
このリーチの言葉、読点の付け方が上手い。外国人であることを考慮した細かな配慮。
リーチが高市にかけたこの驚きの言葉から物語の本編が始まる。
1909年(明治42年)4月、高市の父親・沖 亀乃介とリーチが出会う。ふたりの運命的な出会い。場所は東京の高村光雲邸。このとき1887年1月生まれのリーチは22歳、亀乃介17歳。
本編では亀乃介の視点から、リーチの生活・活動の様子が描かれる。亀乃介の生活も。亀乃介は母親が働く横浜の食堂にいて、外国人の話し言葉を聞いていたので英語が話せた。
エピローグは1979年(昭和54年)4月、亀乃介の息子の高市がヒースロー空港に到着するところから始まる。高市は父の恩師であるリーチに会うためにイギリスに来たのだ。
大分の小鹿田でリーチと出会ってから既に25年の年月が流れていた。高市はふたりの小学生の父親になり、リーチが日本で出会い、交流していた仲間たちは既にこの世から姿を消していた・・・。
エピローグで原田マハさんは読者にリーチの人生、亀乃之介の人生を振り返らせる。感涙。小説の構成の妙への感動もあるけれど、リーチと亀乃介の生き方に対する感動の涙。
**けれど、たったひとり、開窯時からいまに至るまで、陶工たちを指導しながら、リーチを助け続けている陶工がいる、とアントンは言った。「もう八十代のベテランです。とてもやさしくて、とびきり腕がいいんだ」**(586頁)
ぼくはこの件(くだり)に続く次の1行を読んで、思わず「えっ!」と声に出し、泣いてしまった。
**シンシアという名の女性です、と教えてくれた。**(同頁) 亀乃介の息子と会ってシンシアは何と声をかけただろう・・・。
*****
『たゆたえども沈まず』で原田さんは画家のゴッホと弟の画商・テオ、それからやはり画商の林 忠正という3人の実在の人物に林の助手の重吉という架空の人物を加えて、リアルな物語を紡いだ。『リーチ先生』も同様で、亀乃介と高市という架空の父子を通じてリーチ像を描いた。
巻末に本書は史実に基づいたフィクションです、という注があるけれど、亀乃介と高市は実にリアルな存在感をもっている。さすが、原田さんと言う他無い。やはり巻末に協力者の一覧が載っている。その中にはリーチの孫、濱田庄司の孫の名前もある。
『リーチ先生』は美術史研究者(*1)でもある作家だからこそ描き得た小説であろう。他のアート小説と同様に。
*1 研究論文のように巻末に参考文献リストが掲載されている。