「明治六年の政変」や「江藤新平」を著わした毛利敏彦氏の新刊である。基本的には毛利氏がこれまで繰り返してきた論調と変わり映えはしない。残念ながら「何故、人権主義者であり、法治主義者でもある江藤新平が、西郷隆盛の遣韓使節に賛同し、遂には西郷とともに下野してしまったのか」という最大の疑問には答えていない。強いて本著の目新しさを探すと、鍋島閑叟に照明を当てたことだろう。毛利氏に言わせると閑叟は西洋列強に対して(島津斉彬より更に左に位置する)「克服路線」の最左翼にあり、「明治維新が産業革命への日本人の応答だったという根本義から見れば、維新史への理解をいっそう広げ深める鍵の一つは、鍋島閑叟の研究だろう」と指摘する。それにしても維新史における閑叟の存在感は意外なほど希薄である。島津久光や山内容堂、松平春嶽、伊達宗城ら、いわゆる賢候と呼ばれる人たちと比して、ほとんど中央の政局に顔を出さない。佐賀は京や江戸からとても遠い。情報が入らなかったから政局に取り残されたのかというとそういうわけでもない。維新前の江藤新平の活躍はあまり知られていないが、江藤は折に触れ「図海策」「急務げい言(げいは言べんに藝)」などの提言を閑叟に提出している。いずれも後世から見て驚くほど的確で鋭利である。閑叟にこれを受け容れるだけの理解力、決断力、判断力と政治力があれば、佐賀藩はもっとプレゼンスを高められたであろう。閑叟は慶応四年(1868)三月、有名な「五箇条の御誓文」が発布されるに当たって新政府の議定に任命されると、本名を「斉正」から「直正」に改めた。「斉」の字は、十一代将軍家斉から頂戴した諱である。閑叟はこの時点でようやく徳川幕府と決別することを固めたのである。閑叟は、幕府から命を受けた長崎御番の任務遂行に非常に熱心であったし、幕府に対して極めて同情的であった。これが時代の最先端の知識人であった閑叟の行動を鈍らせ、佐賀藩が時勢に乗り遅れる最大の要因であった。
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