仁禮景通墓
仁禮景通は、戊辰戦争では監軍として出征し、その後は伊集院区長などを務めた。西南戦争では本営付として西郷隆盛と行動を共にし、九月二十四日、城山陥落に際して捕えられて斬罪に処された。なお戦後処分で斬罪処分を受けたのは、大山綱良県令以下の首謀者、参謀級二十二名である。
貴島國彦(清)墓
貴島清。戊辰戦争に従軍し、明治四年(1871)御親兵、近衛少佐に任じられたが、明治七年(1874)辞任して帰郷。西南戦争には当初従軍せず、のち西郷軍の苦戦を聞いて、兵を募って西郷郡に加わった。その後、振武軍監軍となり、鹿児島、宮崎を転戦。可愛岳突囲後、鹿児島に戻り、城山麓の米倉を襲撃し、戦死した。
貴島は米倉襲撃を提案し、賛同を得た。貴島は喜び
「諸君はまだ自分を疑っているか」
といった。参戦が遅れたことをこの期に至るまで気に病んでいたらしい。これに対し桐野が
「今日まで生死をともにしてきた貴君を誰が疑うか」
と応えてやると、貴島は清らかな笑顔を見せたという。
翌日、白刃をもって米倉を襲い乱弾を浴びて即死した。三十五歳であった。
河野通政(主一郎)墓
明治六年(1873)西郷隆盛の下野に従い近衛大尉を辞任。帰郷後は、私学校の創立に力を尽くした。西南戦争では五番大隊一番小隊長として出征し、田原坂の戦い、城東会戦にて奮戦した。その後、正義隊、破竹隊長を務め、可愛岳突囲後、西郷隆盛とともに城山に籠城。九月二十一日、山野田一輔とともに軍使として下山した。山県有朋の密書を持たされて薩軍本営に戻った山野田は三日後の総攻撃を受けて戦死した。河野は懲役十年に処されたが、明治十四年(1881)出獄し、その後、青森県知事などを務めた。
小川原正道「西南戦争」(中公新書)では、その後の河野主一郎を紹介している。河野が鹿児島に帰ると、待ち構えていた薩軍残党は河野を主盟に戴き、三州社を設立した。三州社は「第二の私学校」とも呼ばれ、時代の思想である自由民権運動と無縁ではなかった。彼らは西南戦争戦没者の遺骨収集も重要な任務としていた。しかし三州社の存在に危険な匂いを感じた政府高官の運動により、次第に骨抜きとなり明治二十二年(1889)解消を余儀なくされた。
平野正介墓
平野正介は、明治五年(1872)頃、陸軍少佐を辞任し帰郷。私学校の吉野開墾社を監督した。明治十年(1877)西郷隆盛の挙兵に応じて五番大隊七番小隊長として出征し、二月二十三日の木葉の戦いでは、乃木希典の十四連隊を撃破した。その後、常山隊長を務め、西郷とともに城山にて戦死した。
小倉知周(壮九郎)墓
小倉壮九郎。諱は知周。東郷平八郎の実兄である。明治四年(1871)近衛大尉に任官し、二年後に海軍に転じた。明治八年(1875)西郷に従って官を辞し帰郷。種子島区長などを務めた。西南戦争では三番大隊九番小隊長を務め、熊本・植木方面で政府軍と戦った。その後、本営護営狙撃隊一番中隊長として西郷と行動を共にし、城山にて戦死した。
村田三介墓
諱は経往。明治八年(1875)陸軍砲兵少佐を辞任して帰郷した。菱刈区長などを務めていたが、明治十年(1877)西郷隆盛の率兵上京に反対し、少人数での上京を主張したが、桐野利秋らに押し切られ、自らも五番大隊二番小隊長として出征した。二月二十二日の植木の戦闘では、乃木十四連隊を撃破して連隊旗を奪っている。その後、隅田にて戦死。