久し振りに磯庭園(仙厳園)を訪れた。広い庭は相変わらずよく手入れが行き届いており、非常に気持ちが良い。仙厳園は、万治元年(1658)十九代島津光久がこの地に別邸を構えたのが始まりである。眼前に錦江湾と桜島を配した借景は雄大である。磯御殿は、維新後、鹿児島における島津家の生活の拠点となり、一時は本邸として使われたこともある。
磯御殿
磯御殿から桜島を臨む
反射爐址
薩摩藩百五十斤鉄製砲(復元)
仙厳園の入口を入ると巨大な鉄製の大砲が出迎えてくれる。勿論、これは復元されたレプリカであるが、当時反射炉で鋳造された最大級の砲身が百五十斤砲であった。
炉床の下部構造
島津斉彬は藩主に就くと、軍備の近代化と産業の育成に力を注いだ。反射炉は、主に大砲を鋳造するために建設されたもので、嘉永五年(1852)に着手し、安政三年(1856)にようやく鉄製砲の鋳造に成功した。文久三年(1863)の薩英戦争ではこの反射炉で造られた大砲が活躍したという。現在は解体されて基礎部分だけが残されている。炉の高さは15~20メートルと推定されている。
磯御殿
磯御殿から桜島を臨む
反射爐址
薩摩藩百五十斤鉄製砲(復元)
仙厳園の入口を入ると巨大な鉄製の大砲が出迎えてくれる。勿論、これは復元されたレプリカであるが、当時反射炉で鋳造された最大級の砲身が百五十斤砲であった。
炉床の下部構造
島津斉彬は藩主に就くと、軍備の近代化と産業の育成に力を注いだ。反射炉は、主に大砲を鋳造するために建設されたもので、嘉永五年(1852)に着手し、安政三年(1856)にようやく鉄製砲の鋳造に成功した。文久三年(1863)の薩英戦争ではこの反射炉で造られた大砲が活躍したという。現在は解体されて基礎部分だけが残されている。炉の高さは15~20メートルと推定されている。