(稱念寺)
清(さや)地蔵
今年の夏休みは、世間のお盆休みから一週間ほど時期をずらして関西に帰省した。その中の一日、大阪、京都の史跡を訪ね歩いた。
手始めは、四天王寺夕陽丘の稱念寺である。この付近は「夕陽丘」という詩的な地名が付けられているが、小高い丘になっており、ここから眺める大阪湾に沈む夕陽があまりに美しかったことから、名付けられたという。残念なことに現在、ここから海は見えない。
陸奥宗光の父、伊達宗広が夕陽丘の命名者と言われる。宗広はこの地の風光を愛し、自在庵を建てるとともに、稱念寺を一族の墓地と定めた。遺言に従って、伊達宗広や陸奥宗光ら一族がこの寺に葬られた。のちに陸奥宗光の墓は鎌倉寿福寺に改葬されたためここにはないが、宗広の墓など名残を留めている。
そのうちの一つが、門前にある清地蔵である。宗光が、二十歳で世を去った愛娘清子のために建てたものである。
稱念寺は、明治三年(1870)薩摩藩の小松帯刀が大阪で病死したあと、葬られた寺でもある。その後、明治九年(1876)に鹿児島に改葬された。
(大江神社)
大江神社
大江神社の参道の脇に大江護国神社がある。明治維新における山口藩殉難者を祀ったものである。
大江護国神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/74/7e27a2200d444d445f40defe61d52c62.jpg)
清(さや)地蔵
今年の夏休みは、世間のお盆休みから一週間ほど時期をずらして関西に帰省した。その中の一日、大阪、京都の史跡を訪ね歩いた。
手始めは、四天王寺夕陽丘の稱念寺である。この付近は「夕陽丘」という詩的な地名が付けられているが、小高い丘になっており、ここから眺める大阪湾に沈む夕陽があまりに美しかったことから、名付けられたという。残念なことに現在、ここから海は見えない。
陸奥宗光の父、伊達宗広が夕陽丘の命名者と言われる。宗広はこの地の風光を愛し、自在庵を建てるとともに、稱念寺を一族の墓地と定めた。遺言に従って、伊達宗広や陸奥宗光ら一族がこの寺に葬られた。のちに陸奥宗光の墓は鎌倉寿福寺に改葬されたためここにはないが、宗広の墓など名残を留めている。
そのうちの一つが、門前にある清地蔵である。宗光が、二十歳で世を去った愛娘清子のために建てたものである。
稱念寺は、明治三年(1870)薩摩藩の小松帯刀が大阪で病死したあと、葬られた寺でもある。その後、明治九年(1876)に鹿児島に改葬された。
(大江神社)
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大江神社
大江神社の参道の脇に大江護国神社がある。明治維新における山口藩殉難者を祀ったものである。
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大江護国神社
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