史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

吉備津

2018年11月22日 | 岡山県
(吉備津神社)


吉備津神社

 吉備津神社は、備中国一の宮。安芸の宮島厳島神社と並ぶ山陽道屈指の古社である。参道入口から北随神門(国重文)を入ると本殿がある。応永三十二年(1425)に再建されたもので、ともに国宝に指定されている。本殿と末社を結ぶ回廊は天正七年(1579)の建築で、総延長三百九十八メートルに及んでいる。


岡山縣知事正五位勲四等千坂高雅書

 北随神門の前にある石柱には、米沢藩出身の千坂高雅の書が残っている。千坂高雅は、同盟軍米沢藩の総督となったが、降伏して謹慎。維新後は養蚕製糸調査のため仏・伊に留学して、帰国後は内務官僚として活躍した。茨城県における地租改正反対暴動の鎮圧に当り、明治十二年(1879)以降は、石川県令、岡山県令を歴任した。大正元年(1912)、七十二歳にて没。


官幣中社吉備津神社(犬養毅書)

 門前の書は、犬養毅(号は木堂)のもの。犬養毅は、安政二年(1855)に備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に犬養源左衛門の二子として生まれた。犬養毅の生家は、吉備津神社から南方に約三キロメートルの場所に現存しており、犬養木堂記念館として公開されている。生家は代々庭瀬藩の大庄屋で、遠祖は犬養健命(たけるのみこと)と言われ、大吉備津彦命の随神とされる。


犬養毅像

 吉備津神社駐車場の一角に犬養毅の銅像が立つ。朝倉文夫の作。
 犬養毅は、明治八年(1875)、二十一歳のとき上京して慶應義塾に学んだ。犬養毅の名を世間に知らしめたのは、明治十年(1877)の西南戦争である。従軍記者として取材し、その文筆と雄弁を知られることになった。その後、衆議員議員、文部大臣などを経験した後、立憲国民党を結成し、「憲政の神」と称された。昭和六年(1931)、七十七歳で総理大臣となったが、翌年、いわゆる五一五事件にて過激派のため官邸にて暗殺された。殺害される直前、賊に対して「話せばわかる」と発したことは有名。享年七十八。
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