(上之町二丁目町内会館)
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植原六左衛門旧宅跡
上之町二丁目町内会館のある場所が、植原六左衛門の旧宅跡に当たる。
植原六左衛門は津山藩士で、海防家、水連家として名を成した。古式泳法神伝流の第十世宗師。嘉永元年(1848)、津山藩の水連師役となり、嘉永六年(1853)には幕命によって出府。同藩士はもとより多くの他藩士にも教授した。その頃から水戸藩尊攘派と交友を深め、安政四年(1857)、勤王儒者藤森弘庵は植原六左衛門に合うために津山まで来ている。文久三年(1863)、幕府より六左衛門に大砲製造の命が下り、以後もそのことにあたった。これによって藩における立場を失い、明治元年(1868)十一月、自邸にて自決した。享年五十三。
(本源寺)
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本源寺
本源寺は、臨済宗妙心派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。本堂は、慶長十二年(1607)に上棟された方丈形式の建物で、屋根は入母屋造、桟瓦葺きである。森家墓所は門が閉じられており、中を伺うことはできない。墓地に鞍懸寅二郎の墓がある。
森家墓所
秋汀鞍懸君之墓(鞍懸寅二郎の墓)
鞍懸寅二郎は天保五年(1834)、播磨国赤穂の生まれ。十五歳で赤穂藩の勘定方となり、のちに江戸に出て塩谷后陰に師事した。安政五年(1858)、故あって浪人となり、美作西北条郡香々美村に寓し、子弟に句読を授けた。ついで「富籤論」を著して津山藩の富籤を痛撃したが、これを機に同藩の儒員に抜擢され、藩政改革に努めた。文久二年(1862)、国事周旋掛となり、上京して縉紳(高位の人)に画策した。元治元年(1864)、征長に際して、藩主松平慶倫に長州藩の高義を説得した。明治二年(1869)、津山藩権大参事。明治四年(1871)、民部省出仕。同年八月、津山で暴漢に短銃で狙撃され死亡した。年三十八。
(妙法寺)
妙法寺
翼龍植原先生之墓(植原六左衛門の墓)
妙法寺の広い墓地の中に植原六左衛門の墓がある。墓地を三分の二週してようやく発見することができた。
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植原六左衛門旧宅跡
上之町二丁目町内会館のある場所が、植原六左衛門の旧宅跡に当たる。
植原六左衛門は津山藩士で、海防家、水連家として名を成した。古式泳法神伝流の第十世宗師。嘉永元年(1848)、津山藩の水連師役となり、嘉永六年(1853)には幕命によって出府。同藩士はもとより多くの他藩士にも教授した。その頃から水戸藩尊攘派と交友を深め、安政四年(1857)、勤王儒者藤森弘庵は植原六左衛門に合うために津山まで来ている。文久三年(1863)、幕府より六左衛門に大砲製造の命が下り、以後もそのことにあたった。これによって藩における立場を失い、明治元年(1868)十一月、自邸にて自決した。享年五十三。
(本源寺)
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本源寺
本源寺は、臨済宗妙心派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。本堂は、慶長十二年(1607)に上棟された方丈形式の建物で、屋根は入母屋造、桟瓦葺きである。森家墓所は門が閉じられており、中を伺うことはできない。墓地に鞍懸寅二郎の墓がある。
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森家墓所
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秋汀鞍懸君之墓(鞍懸寅二郎の墓)
鞍懸寅二郎は天保五年(1834)、播磨国赤穂の生まれ。十五歳で赤穂藩の勘定方となり、のちに江戸に出て塩谷后陰に師事した。安政五年(1858)、故あって浪人となり、美作西北条郡香々美村に寓し、子弟に句読を授けた。ついで「富籤論」を著して津山藩の富籤を痛撃したが、これを機に同藩の儒員に抜擢され、藩政改革に努めた。文久二年(1862)、国事周旋掛となり、上京して縉紳(高位の人)に画策した。元治元年(1864)、征長に際して、藩主松平慶倫に長州藩の高義を説得した。明治二年(1869)、津山藩権大参事。明治四年(1871)、民部省出仕。同年八月、津山で暴漢に短銃で狙撃され死亡した。年三十八。
(妙法寺)
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妙法寺
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翼龍植原先生之墓(植原六左衛門の墓)
妙法寺の広い墓地の中に植原六左衛門の墓がある。墓地を三分の二週してようやく発見することができた。
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