史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡山 Ⅲ

2018年11月22日 | 岡山県
 岡山は西国の大大名毛利家の抑えとして重視され、江戸時代を通じて池田家が治めたが、徳川の治世となる前は、宇喜多家の城下であった。宇喜多秀家は、豊臣秀吉傘下の有力な武将で、朝鮮出兵でも活躍した。秀吉の信頼が厚く、五大老の一人にも任じられた。関ヶ原の合戦には西軍の主力として戦い、戦後は潜行して薩摩まで落ちのびた。島津ならば自分の身柄を交渉材料に使うような卑劣な真似はしないだろう、という冷静な読みがあったのかもしれない。やがて、島津が秀家を匿っているという噂が広がり、島津家でも匿い切れなくなった。秀家の身柄は徳川に引き渡されたが、島津家や正室豪姫の実家である加賀前田家の必死の助命嘆願により、処刑を逃れて流罪となった。八丈島への流人第一号といわれる。
 秀家は一生を八丈島で過ごし、明暦四年(1655)、八十二歳で世を去った。今も秀家の墓は八丈島にある。既に四代将軍家綱の時代であったが、徳川家は簡単に宇喜多家を赦さなかった。その子もその孫も、ずっと八丈島から出ることが叶わず、宇喜多家(徳川を憚って浮田姓を名乗った)が流罪を赦されたのは、何と明治を迎えてから、即ち秀家が流されてから二百六十年以上を経てからであった。これほど長い期間に渡って罪に服した例は世界史的にも珍しい。


宇喜多秀家の旗印「兒」

旗印に「兒」の字が使われたのは、宇喜多家が南朝の武将児島高徳の子孫を称したことに拠る。

 豪姫の実家、加賀前田家は気が遠くなるほどの義理堅さで浮田家を支援した。八丈島に食糧や生活物資を送り続け、浮田家でも不便が生じる都度、前田家に無心した。明治になって浮田家が東京に出て来た際にも加賀藩邸の近くに住居を用意するなど、支援を続けた。前田家の義理堅さは、どこから来たものだろう。
 明治を迎えた時、秀家の家系は複数が存続していたが、そのうちの何家は東京の生活に馴染めず、八丈島に逆戻りしたという。今も彼らは八丈島の宇喜多秀家の墓を守っているのである。

(下石井公園)
 敬老の日の三連休、久しぶりに大学時代の仲間で集まることになった。毎度のように幹事は岡山市在住のM君が務めてくれた。第一回目は大学のある神戸、第二回目は関東・関西両方の在住者が集まり易い岐阜で開かれたが、今回は幹事特権で岡山と決まった。宿泊は、M君の別宅のある岡山市北区御津虎倉である。初日の集合までの時間、レンタカーで岡山県下の史跡を訪ね歩いた。


杉山岩三郎翁像

 岡山市内最初の訪問地は、下石井公園である。公園ではちょうどお祭りの準備の真最中で、たくさんの露店がテントを張っていた。テントのせいで公園の中は見通しがきかなかったが、幸いにしてお目当ての杉山岩三郎像は、片隅で待っていてくれた。
 杉山岩三郎は、天保十二年(1841)、岡山藩士中川亀之進の二男に生まれ、のちに杉山家を相続した。文久三年(1863)、禁裏守衛の命を奉じて功をたて、慶應三年(1867)、岡山藩の精鋭隊士、翌年藩兵の監軍として奥羽征討に加わり、各地で転戦した。廃藩に際して岡山県典事に任じられた。明治五年(1872)には島根県参事に転じ、同年十二月、辞職して岡山に帰り、専ら身を実業界に投じた。有終社を組織して同藩士族の団結を図り、岡山紡績所の創立などで士族授産を実行した。明治二十三年(1890)、欧米視察、明治二十八年(1895)、中国鉄道社長となった。剛毅果断、胆力に富み、「備前西郷」と称せられた。大正二年(1913)、年七十三で没。

(セントラルホテル岡山)
 下石井公園から西川緑道公園をはさんで東側に立つセントラルホテルの10階に、当地にあった杉山岩三郎の屋敷の座敷が移設されているという。


セントラルホテル岡山

(東山墓地)


誠岩良忠居士(瀧善三郎の墓)

 東山墓地は、岡山市を代表する巨大墓地である。中心には火葬場を併設する東山斎場がある。斎場を左手に見て坂を百五十メートルほど登り、右手に現れる石段を昇ると、そこに瀧家の墓域がある。「誠岩良忠居士」という法名の刻まれた墓が瀧善三郎のものである。側面に善三郎の俗名と行年が刻まれている。
 いわゆる神戸事件が勃発したのは、慶応四年(1868)一月十一日。まだ鳥羽伏見の戦争の砲煙の漂う中のことである。備前藩兵が神戸居留地を通過した折、その行列を横切った外国人との間に紛争が起きた。第三砲隊長瀧善三郎はその騒動の責任をとって、古式通りの作法で堵腹して果てた。三十二歳。
 神戸事件は、発足したばかりの明治新政府が最初に直面した外交問題であった。瀧善三郎の命と引き換えにこの危機を乗り越えることができたのである。
 瀧善三郎の墓は、彼が切腹した兵庫県神戸市能福寺、京都市妙心寺塔頭回春院墓地にもある。東山墓地の墓は分骨墓と思われる。


手代木勝任(直右衛門)夫妻墓

 手代木直右衛門の墓を探して、広い東山墓地を歩き回った。折柄の雨と汗とで、シャツの色が完全に変わってしまうくらいびしょ濡れになってしまったが、結局見つけることができなかった。
 翌日、レンタカーを返却するために岡山市内を再訪した機会をとらえて、再度東山墓地を歩いた。手代木直右衛門の墓は、墓地の上の方にあると思い込んで、その辺りを何度も行き来したのだが、実は東山斎場の直ぐそばにあった。
 手代木直右衛門は、文政九年(1826)の生まれ。通称が直右衛門。諱は勝任。実弟は幕府見廻組の佐々木只三郎である。嘉永六年(1853)、会津藩主松平容保が房総海岸の警備巡視するにあたりこれに従った。文久三年(1863)、容保が京都守護職を命じられると、公用人として京都に赴き、浪士逮捕の任を帯び、藩士・新選組、所司代および町奉行の吏卒を指揮し、浪士十数人を斬獲した。また、軍事奉行副役、京都勤務用人となった。慶應三年(1867)、将軍慶喜から金および服地を贈られた。慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いの後、帰藩して軍事局に勤務し、大監察に進み、米沢、仙台両藩に使し、奥羽越列藩同盟を周旋した。同年九月、若年寄となり官軍包囲下の若松城を脱し、米沢に使いし、開城の方法を報名した。会津開城後、猪苗代に屛居したが、鳥取・高須・名古屋の諸藩に幽され、明治五年(1872)、ようやく赦された。その後、左院少議生、香川県・高知県の権参事等を歴任した。明治三十七年(1904)、年七十九で岡山にて没。

(半田山墓地)
 半田山墓地は、植物園に隣接する巨大霊園である。ちょうど雨が降りだし、全身濡れネズミ状態での探墓となった。


玉堂秋琴春琴三先生胎髪之碑

 浦上玉堂は、延享二年(1745)、備前岡山藩池田家の支藩備中鴨方藩に仕える武士浦上兵右衛門宗純の子として岡山城下の藩邸内(現在の岡山市北区天神町)に生まれた。幼名市三郎また磯之進、後に孝弼。幼い頃より勉学に励み、父の病没により七歳で家督を相続し、十六歳の時に一才年上の鴨方藩主池田政香に初御目見、その後御側詰となった。政香と玉堂は「水魚の交」と謳われるほど厚い信頼関係で結ばれ、玉堂は敬愛する政香のもと順調に昇進した。政香は二十五歳の若さで病死したが、この時葬儀諸事取計を仰せ付けられた。その後三十一歳で参勤交代の御供頭、三十七歳で大目附役と藩の重職を歴任した。藩務に励む一方で、玉堂は儒学や医学、薬学といった学術や、詩作や音楽(七絃琴)にも強い関心を示した。玉堂が画業に本格的に打ち込んだのは四十代に入ってからであるが、数々の山水画、花鳥画の名作を残した。寛政六年(1794)、五十歳を迎えて脱藩。このとき十六歳の長男春琴と十歳の二男秋琴を連れていた。玉堂は諸国を遊歴し、京都、大阪、名古屋、周防、大阪、水戸、飛騨、金沢を訪ね、各地で文人との交友を楽しんだ。長崎では幕臣で文筆家大田南畝、広島では儒学者頼春水、漢詩人菅茶山に会い、大阪の持明院では四十日にわたり文人画家の田能村竹田と同宿した。文政三年(1820)、七十六歳で没。本墓は京都本能寺にある。


秋琴君之墓(浦上秋琴の墓)

 浦上秋琴は、天明五年(1785)、玉堂の次男として備前岡山城下に生まれた。十歳で父の脱藩に伴い岡山を去り、翌年、玉堂が会津藩の招聘に応じて会津に向かった折に同道し、父が土津神社の神楽を再興した功によって十一歳で会津藩士となった。詩画をたしなむものの、二十三歳で雅楽方頭取となるなど、会津藩では音楽面の活動が中心だった。七十歳で官職を辞し、会津戦争終戦に際して進駐した備前藩兵とともに八十五歳で岡山へ帰り、明治四年(1871)、八十七歳で当地にて没した。


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