(養光院墓地)
昨年、鳥取県内を走ったときも、日吉津(ひえづ)の養光院を訪ね、そこで須山萬(すやまよろず)の墓を探したが、実はそこでは墓地すら見付けることができず、撤退することになってしまった。改めて須山萬の墓の場所を調査し、養光院墓地は、養光院から数百メートル東へ行った場所にあり、そこに須山萬の墓があるが分かった。今回は間違いなく養光院墓地に行き着くことができた。
須山家は数代の医家であった。萬は、十七歳で藩儒の正墻薫や江戸の名儒塩谷宕陰の教えを受け、のちに藩の周旋方に任じられ、勤王のため東西に奔走した。江戸に出て長州藩留守居役の僕(しもべ)と称して活躍しているところを、元治元年(1864)幕府のために捕えられた。一旦は逃げたが、再び捕えられ、討幕計画に加わったという罪で伝馬町の獄に投じられた。慶応元年(1865)、三月六日、斬首。年二十四。明治三十一年(1898)正五位を贈られた。墓碑側面に刻まれている漢詩は、萬が生前、父啓蔵に寄せたものである。
義芳院萬岳遜處居士(須山萬の墓)
昨年、鳥取県内を走ったときも、日吉津(ひえづ)の養光院を訪ね、そこで須山萬(すやまよろず)の墓を探したが、実はそこでは墓地すら見付けることができず、撤退することになってしまった。改めて須山萬の墓の場所を調査し、養光院墓地は、養光院から数百メートル東へ行った場所にあり、そこに須山萬の墓があるが分かった。今回は間違いなく養光院墓地に行き着くことができた。
須山家は数代の医家であった。萬は、十七歳で藩儒の正墻薫や江戸の名儒塩谷宕陰の教えを受け、のちに藩の周旋方に任じられ、勤王のため東西に奔走した。江戸に出て長州藩留守居役の僕(しもべ)と称して活躍しているところを、元治元年(1864)幕府のために捕えられた。一旦は逃げたが、再び捕えられ、討幕計画に加わったという罪で伝馬町の獄に投じられた。慶応元年(1865)、三月六日、斬首。年二十四。明治三十一年(1898)正五位を贈られた。墓碑側面に刻まれている漢詩は、萬が生前、父啓蔵に寄せたものである。
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義芳院萬岳遜處居士(須山萬の墓)
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