(西蓮寺)
西蓮寺
湯梨浜町橋津の西蓮寺には、二十二士の脱出を手助けしたといわれる、中原吉兵衛、忠次郎父子の墓がある。境内入って右手の石段を登った墓地に、中原家の墓地がある。中原家は地元で代々続く商家であった。比較的広い墓所に中原家の盛んだった時代を偲ぶことができる。
贈正五位 中原吉兵衛之墓
忠譽義道即心信士(中原忠次郎の墓)
中原吉兵衛は、文政八年(1825)の生まれ。伯耆国河村郡橋津村の大庄屋天野屋の分家お手船問屋天野屋の四代目当主。文久の頃、水口藩豊田謙次などいわゆる勤王の志士が多く来居し、よくこれを保護した。慶応二年(18666)七月、本圀寺事件の二○士河田左久馬、吉田直人、詫間樊六らの脱走に船を準備してこれを援け、さらに長男を伴わせた。途中、出雲国手結浦で松江藩に阻止され、長男忠次郎は抗戦したが、及ばず殺害された。吉兵衛は長州へ奔り、維新後帰藩したが、家業ふるわないまま、明治五年(1872)病没した。年四十八。
長男忠次郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。詫間樊六に剣術を学んだ。二十士が幽閉先の荒尾邸を脱出した際、これを助けて船を準備した。手結浦で怪しまれた四名は抑留され、残る十五名は長州潜入に成功した。残留した忠次郎は、慶応二年(1866)八月三日、黒部、早川、加藤四家の追討に遭い、師詫間らとともに討ち死にした。年十九。
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西蓮寺
湯梨浜町橋津の西蓮寺には、二十二士の脱出を手助けしたといわれる、中原吉兵衛、忠次郎父子の墓がある。境内入って右手の石段を登った墓地に、中原家の墓地がある。中原家は地元で代々続く商家であった。比較的広い墓所に中原家の盛んだった時代を偲ぶことができる。
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贈正五位 中原吉兵衛之墓
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忠譽義道即心信士(中原忠次郎の墓)
中原吉兵衛は、文政八年(1825)の生まれ。伯耆国河村郡橋津村の大庄屋天野屋の分家お手船問屋天野屋の四代目当主。文久の頃、水口藩豊田謙次などいわゆる勤王の志士が多く来居し、よくこれを保護した。慶応二年(18666)七月、本圀寺事件の二○士河田左久馬、吉田直人、詫間樊六らの脱走に船を準備してこれを援け、さらに長男を伴わせた。途中、出雲国手結浦で松江藩に阻止され、長男忠次郎は抗戦したが、及ばず殺害された。吉兵衛は長州へ奔り、維新後帰藩したが、家業ふるわないまま、明治五年(1872)病没した。年四十八。
長男忠次郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。詫間樊六に剣術を学んだ。二十士が幽閉先の荒尾邸を脱出した際、これを助けて船を準備した。手結浦で怪しまれた四名は抑留され、残る十五名は長州潜入に成功した。残留した忠次郎は、慶応二年(1866)八月三日、黒部、早川、加藤四家の追討に遭い、師詫間らとともに討ち死にした。年十九。
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