史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

氷見

2022年10月22日 | 富山県

 夜八時過ぎに八王子を出発し、関越道から上信越道、北陸道を経て、深夜一時半に第一目的地である氷見市の朝日山公園に到着した。公園の駐車場で日の出を待った。座席を倒して横になったが、予想とおり安眠はできなかった。雨が屋根を叩く音と時折闇をつんざく野獣の吠声に目が冴えてしまった。

 この日の日の出は朝四時半。明るくなると同時に活動を開始した。

 

(朝日山公園)

 朝日山公園は、氷見市街を一望に見渡せる高台にある。公園の中心に神武天皇像があり、同じ広場に忠魂碑が建てられている。

 

氷見市街

 

神武天皇銅像

 

 神武天皇像は、明治四十一年(1908)の建立。台座銘板の「永芳」の揮毫は、当時学習院長を務めていた乃木希典の手による。そのため朝日山公園は、かつて「永芳公園」とも呼ばれた。

 

篤信斎齋藤弥九郎先生

 

 展望台のある広場から少し下ったところに齋藤弥九郎の像がある。氷見は、齋藤弥九郎の出身地であり、朝日山公園を含め、三体の齋藤弥九郎像がある。

 

(氷見市立十三中学校)

 二体目は上飯久保の十三中学校である。

 

氷見市立十三中学校

 

齋藤弥九郎篤信斎

 

(脇之谷内集落総合センター)

 

剣聖齋藤弥九郎先生生誕之地

 

 氷見市仏生寺脇之谷内は、齋藤弥九郎の生誕地である。脇之谷内集落総合センターの前に生誕地碑と齋藤弥九郎像が建てられている。

 

斉藤篤信斎翁

 

 齋藤弥九郎は、寛政十年(1798)の生まれ。雅号は篤信斎。文化九年(1812)、十五歳で江戸に出て、剣客岡田十松の門に入り、師範代を務めるまでに上達した。文政三年(1820)、師の没後そのあとを受け、文政九年(1826)、飯田町に練兵館を開いて神道無念流の剣道を指南し、江戸中比肩する者のないほどの腕前で、のちには門人三千人と称され、千葉周作、桃井春蔵とともに「三傑」と呼ばれた。のちに練兵館は九段坂上、ついで牛込見附と移転して、明治に及んだ。天保九年(1838)、水戸藩主徳川斉昭に招かれて、弘道館で藩士に剣道を指南したが、その国を思う志を賞されて「報国」の二文字を大書して贈られた。また天保十二年(1841)、高島秋帆が幕命により武蔵野で練兵を行ったとき、砲術を教授した。ついで嘉永六年(1853)、江川坦庵(太郎左衛門)を助けて、江戸湾の台場築造のときには工事の監督を行い、文久二年(1862)、長州藩世子毛利元徳に尊攘の大義を進言した。慶應四年(1868)、政府軍が江戸に迫ったとき、彰義隊の首領に推されたが受けず、門人にも大義を説いて軽挙を戒めた。維新後新政府に出仕し、慶応四年(1868)八月、徴士会計官判事試補に任じられ、ついで同権判事に進んで大阪に在職。明治二年(1869)七月、造幣局権判事に転じ、明治三年(1870)五月、東京在勤を命じられたが、翌明治四年(1871)、いくばくもなく没した。年七十四。

 

脇之谷内集落

 

 齋藤弥九郎の出身地、脇之谷内集落は静かな農村である。

 

(薮田)

 氷見市薮田は能登半島の付け根にあり、もう少し北に行くと石川県七尾市というロケーションにある。セメント王と称された浅野総一郎の生誕地である。

 

浅野総一郎翁誕生地

 

九転十起像(浅野総一郎の像)

 

 浅野総一郎は嘉永元年(1848)の生まれ。浅野財閥の創設者。明治四年(1871)、無一文で上京し、石炭やコークス等の売買事業を行い、やがて渋沢栄一の知遇を得た。渋沢の助力を得て、明治十七年(1884)、東京深川の官営セメントの払い下げを受け、これを我が国におけるセメントのトップ・メーカー、すなわち浅野セメント(のちの日本セメント、現・太平洋セメント)に発展させた。浅野は、多角化志向が強く、セメント以外にも鉱山(石炭)、海運、石油(採掘・精製)、港湾土木、造船、鉄鋼、水力発電、貿易など多くの事業を興した。今日の京浜工業地帯の中核である鶴見、川崎地区は浅野の造成になるものである。大正七年(1918)、持ち株会社浅野同族株式会社を設立し、傘下の多角的事業会社を所有・管理する体制を整えた。浅野は金融面では安田善次郎に依存するところが大きかった。昭和五年(1930)没。なお、浅野総一郎が築き上げた浅野財閥は、戦後GHQにより財閥解体の命を受けて解散した。

 

 薮田の浅野総一郎の像は、九転十起の像と名付けられている。浅野総一郎は幾多の失敗と挫折を繰り返し、若い頃に何かと面倒を見てもらった村の肝煎役山崎善次郎から「七転八起で足りなければ、九回転んで十回起きれば良い」と教えられ、懸命な努力をして成功を収めた。その逸話に因んで「九転十起の像」と命名された。平成二十年(2008)の建立。

 

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