(善福寺)
善福寺
善福寺(上京区尼ケ崎横町出水通千本西入355)は、多田郷士隊が屯所として使用したという寺である。多田郷士隊というのは、北摂多田庄出身者による郷士隊で、戊辰戦争が始まると招集されて上京し、その後、東山道軍や北総総督軍に従って各地を転戦した。多田隊には従軍した隊員とは別に京都に残った留守隊員がいた。また東山道総督軍に従軍した隊員は、慶應四年(1868)六月に京都に凱旋している。そのうち脇田頼三、新井三郎、赤松譲之助、大島賢司、多田佐市、新井左近の六名は、岩倉家の用人・常勤となって仕えることになった。残された多田隊留守隊は、吉村雅楽介、中沢主計、森本左近、長谷中司の四人が頭取となって、善福寺を屯所として駐留を続けた。彼らは新たに入隊所を募り増員されたが、同年十一月末、吉村ら幹部が隊の金を酒宴・遊興に使ったとして隊内から訴えられている。さらに明治二年(1869)一月には、頭取批判グループ、吉村・森本・長谷らを中心としたグループ、頭取の一人中西を中心としたグループに分裂。その後も彼らは分裂と合流を繰り返したが、明治二年(1869)七月二十日、新政府刑法官より多田隊廃止が発せられた。残留していた隊員はそれぞれ出身地に引き取られたが、その後には多額の借金が残されたという(「戊辰戦争と草莽の志士」高木俊輔著 吉川弘文館)。
(大幸寺)
大幸寺
「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によると藤井九成の墓が大幸寺にあるというので、墓地を歩いてみた。藤井姓の墓が二つ見つかったが、藤井九成の血縁者かどうかは不明。
その後、青山霊園で藤井九成の墓に出会ったので、彼の墓は移葬されたとみるのが自然であろう。
(瑞雲院)
瑞雲院
同じく「明治維新人名辞典」情報だが、瑞雲院には画家横山華渓の墓があるという。こちらも探し方が十分ではなかったのか、発見に至らず。
横山華渓(かけい)は、文化十二年(1815)の生まれ。生家は、柏屋という若狭国高浜町の名門で、農桑と酒造を業とした。幼より絵心が豊かで、堀尾某に学び、長じて京都で岸駒の門に入り、また横山華山に師事し、天保八年(1837)、師が没すると横山家を継いだ。堂上公家諸侯に出入りして大作をものし、紫宸殿の襖絵に「十八賢画像」を謹写したという。遺作ははなはだ多いが、特に「蘭亭の図」は山水を描いた大作である。余徳として桑苗施行を企て、年々八十万本の桑を若狭および近国の有志に頒つことを五ヵ年に及んだ。元治元年(1864)二月、年五十で没。
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