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備中あしもり 緒方洪庵生誕の里
(田上寺)
今回、岡山県の史跡を訪ねるに当たって、「戊辰掃苔録」の竹様より、岡山市在住のE様をご紹介いただいた。E様は、足守藩士の末裔で、熱心に先祖の足跡を調査されている方である。事前にコンタクトすると、ご先祖である禰屋庸夫のほか、新選組安富才助らの墓までご案内いただけるという。
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田上寺
最初にご案内いただいたのが田上寺である。ここにE様の四代前の先祖に当たる禰屋庸夫の墓がある。
E様よりいただいたメモによれば、禰屋庸夫は、天保八年(1837)九月七日の生まれ。父は、足守藩士禰屋儀左衛門光忠。慶應四年(1868)、足守藩隊長として新潟方面に出征した。明治二年(1869)、足守藩少参事。明治四年(1871)には足守県少参事から小田県少属。明治十二年(1879)、第一回岡山県議会議員当選。明治十三年(1880)、永禄社(のちの足守銀行)副社長就任。同年岡山県議会議員に当選すると議長に就任して明治十五年(1882)までその職にあった。明治二十三年(1892)、足守銀行頭取に就任した。明治三十七年(1904)十月三十日、死去。
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威徳院義翁光正居士(禰屋庸夫の墓)
安富才助の墓は、禰屋家の墓域の一段下、墓地の奥にある。
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無量院善求宗壽居士(安富才助の墓)
安富才助は、天保十年(1839)、足守の生まれ。元治元年(1864)、江戸の募集に応じて新選組に入隊した。慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還。甲州勝沼の戦い、会津戦争にも参加して、蝦夷に渡った。土方歳三が戦死すると明治二年(1869)五月十二日「早き瀬に力足らぬや下り鮎」という追悼句を添えて、日野の土方家に向かう立川主税に託した。五月十五日、弁天台場にて降伏。長らく江戸で殺害されたとされていたが、近年、足守でこの墓が発見され、明治六年(1873)当地で亡くなっていたことが確認された。享年三十五。安富才助がどのような最期を迎えたのかは不明であるが、この墓は夫人の戒名が併記されている夫婦墓である。
鳥羽伏見以降、土方歳三の側近として支え続けた。かなり有能な人物だったと思われる。
(東光寺)
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東光寺
竹下鹿之助(「幕末維新全殉難者名鑑」では竹下鹿十郎)は、慶応四年(1868)八月二十六日、羽越国境高畑越えにて負傷。十二月五日、柏崎病院にて死亡。二十四歳。
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深光院義隆居士(竹下鹿之助の墓)
(乗典寺)
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乗典寺
乗典寺には緒方洪庵の両親が眠る「洪庵ゆかりの寺」である。洪庵自身の位牌も安置されている。
(旧足守商家藤田千年治邸)
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旧足守商家藤田千年治邸
藤田千年治邸は、足守で代々醤油製造業を営む商家である。この建物は江戸時代末期の建築とされ、明治以降に本瓦葺き入母屋二階造り漆喰塗りという、現在見られる豪華な建物となった。内部には昔の醤油工場の様子が復元されている。
E様には「洪庵茶屋」でお昼を御馳走になってしまった。E様によれば、第二奇兵隊の立石(大橋)孫一郎も遠縁に当たるのだという。血縁を遡って歴史に触れるというのも、歴史の楽しみ方の一つかもしれない。
食事をしながら、岡山の歴史に話が及んだ。新見市では山田方谷の師丸川松隠の銅像が立ち、この人物によって町おこしが始まっているという。改めて岡山の史跡を調べてみると、まだまだ史跡の山があることが分かった。今回はほとんど時間が取れなかったが、次の機会には是非訪ねて見たい、と思う。
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