(東福寺)
東福寺
京急黄金町駅から徒歩で六~七分。東福寺は、赤門が印象的な寺である。本堂の裏手の山の斜面にこびりつくように墓地が広がっている。この中に新選組隊士近藤芳助の墓がある。その位置は極めて分かりにくい。墓地に達するには、赤門を通って右と左にそれぞれ入口があるが、近藤芳助の墓を目指すのであれば、左手から入る方が分かりやすいだろう。墓地の高い場所、左手の奥に近いところに近藤芳助は眠っている。
清壽院徹心正澄居士(近藤芳助墓)
近藤芳助は、江戸深川の幕臣川村家の三男に生まれた。次兄は、同じく新選組に所属した近藤隼雄。幕臣近藤芳三郎の養子となり、近藤芳助と改めた。維新後は旧姓に復して川村三郎と名乗ったため、東福寺の墓石台座には「川村家」と記されている。
実家が試衛館のそばにあったため、近藤周齋の門人となった。元治元年(1864)の入隊。鳥羽伏見にも参戦したが、銃弾を浴びて重態に陥った。全快はしていなかったが甲陽鎮撫隊にも従軍している。流山から白河、会津と転戦して仙台で降伏した。明治三十九年(1906)、「近藤芳助書翰」を記し、貴重な証言を残している。大正十一年(1922)、八十歳にて病死。
東福寺
京急黄金町駅から徒歩で六~七分。東福寺は、赤門が印象的な寺である。本堂の裏手の山の斜面にこびりつくように墓地が広がっている。この中に新選組隊士近藤芳助の墓がある。その位置は極めて分かりにくい。墓地に達するには、赤門を通って右と左にそれぞれ入口があるが、近藤芳助の墓を目指すのであれば、左手から入る方が分かりやすいだろう。墓地の高い場所、左手の奥に近いところに近藤芳助は眠っている。
清壽院徹心正澄居士(近藤芳助墓)
近藤芳助は、江戸深川の幕臣川村家の三男に生まれた。次兄は、同じく新選組に所属した近藤隼雄。幕臣近藤芳三郎の養子となり、近藤芳助と改めた。維新後は旧姓に復して川村三郎と名乗ったため、東福寺の墓石台座には「川村家」と記されている。
実家が試衛館のそばにあったため、近藤周齋の門人となった。元治元年(1864)の入隊。鳥羽伏見にも参戦したが、銃弾を浴びて重態に陥った。全快はしていなかったが甲陽鎮撫隊にも従軍している。流山から白河、会津と転戦して仙台で降伏した。明治三十九年(1906)、「近藤芳助書翰」を記し、貴重な証言を残している。大正十一年(1922)、八十歳にて病死。
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