密偵の存在は、まさに我が国の裏の歴史における暗部である。徳川幕府や大名は、忍者や隠密、御庭番と呼ばれる諜報員を駆使して情報戦を展開したが、この体質は確実に明治政府に引き継がれたのである。
明治新政府が成立すると、密偵は弾正台という組織下に置かれた。廃藩置県の際、弾正台が廃止されると、正院監部に移された。概ね明治十年(1877)頃までその体制が続いたという。
徳川将軍以来、権力者は西欧のキリスト教国が宣教師を送り込み、それを起点に次第に信者を増やし、やがて武力によってその国を乗っ取るのではないかと恐れていた。その恐怖心は、そのまま明治新政府にも引き継がれた。
密偵という、当人にしてみれば多少後ろめたさのある仕事を迷いなく遂行するには、それを上回る使命感と堅固な信念が必要であろう。大阪の宣教師ウィリアムズのもとに潜入した異宗徒掛諜者伊沢道一の報告書には随所にキリスト教への強烈な警戒感を見ることができる。通商を行う場所七カ所に英仏二人ずつの宣教師がいて、一年に十二人の信徒を勧誘したら、信徒は一年で三百六十四人になり、五年後には九百二十一万二千八百十二人になり、やがて「天祖の赤子」は尽きてしまう。「このままだと、数十年後には必ず全国に広がって、撮り返しがつなかいことになってしまうだろう。」と警鐘を鳴らしている。
伊沢は「大道の仇敵」「人民の楚毒」と言葉を尽くしてキリスト教を罵倒するが、一方で宣教師が布教に身命を擲つ姿を間近に見て「その志は金石のようだ」と感心している。
このようにして諜者が活動を展開している頃、欧米諸国との交渉の中で、新政府はキリスト教禁止を撤回せざるを得なくなる。明治六年(1873)二月、ついに切支丹禁制高札の撤去を布告することになる。活動の意義を喪失した諜者たちは辞職を嘆願した。筆者によれば、ただちにキリト教関係の諜者が廃止されたわけではなく、辞職申請書が提出された八か月後にようやく異宗徒掛諜者は全員が免職となっている。
関信三こと安藤劉太郎も、キリスト教の動静を捜索する密偵の一人であった。安藤劉太郎の実家は三河安休寺で、僧名を「猶龍」という本願寺派の僧侶であった。明治二年(1869)、大阪の洋学校に入り、翌年横浜に移ってアメリカ人宣教師ブラウン、ゴーブル、ヘボン、バラ、イギリス人宣教師のベヤリンのほか、ギダー、ブラインなど、後世にも名が伝わる著名な宣教師のもとに出没した。明治五年(1872)にはバラによって洗礼を受け、以降は晩餐・祈祷など、すべてキリスト教の方式に従って生活を送り、キリスト教宣教師に親炙することになった。
もちろん安藤劉太郎の受洗は監部の指示を得た上での「偽装入信」であったが、彼の真情はどうだったのだろう。
抜群の英語力を買われた安藤劉太郎は、関信三と名を変え、ヨーロッパに渡航した。帰国した関信三は、女子師範学校幼稚園の初代監事(今でいう園長)に就き、欧州で学んだ幼児教育を実践した。「幼稚園記」「幼稚園創立法」などの著書を残し、明治十三年(1880)、三十八歳で死去している。谷中宗善寺の墓は、積み木を重ねたユニークな形をしているが、これは幼児教育の先駆者であるフレーベルの墓を模したものだという。密偵安藤劉太郎と教育者関信三という一見すると真逆の道を生きたことになったが、彼の中では矛盾もせずに一貫した人生だったのかもしれない。
佐賀の乱以降、世情が騒々しくなってくると、政府は各地に盛んに密偵を派遣した。九州に派遣された木下真弘(梅里)は臨時雇諜者として白川県士族隈部楯蔵と宮崎八郎を使っている。宮崎八郎といえば、過激な反政府活動家である。このとき宮崎八郎がどういう活動や報告をしたのか不明であるが、現代風にいえば「二重スパイ」だったのかもしれない。
密偵といえば、個人的に直ぐに連想されるのは西南戦争前夜、川路利良が鹿児島に送り込んだ「西郷刺殺団」のことであるが、本書ではこのことは触れられていない。因みに、川路の建言により警察ができると、その警察が密偵機能を担うことになった。その後も組織や形を変えながら、我が国の密偵機能は脈々と受け継がれた。時代によって、政治結社、衆会、新聞、雑誌、その他出版物、さらには社会運動、社会主義、共産主義運動とそのターゲットを変えつつ、戦後の公安警察へと引き継がれた。
当然、闇の世界の証拠は隠滅される。彼らの足跡を追った筆者の苦労は並大抵ではなかっただろう。これで密偵の全てが明るみに出たというわけではないだろうが、筆者の労苦に敬意を表したい。
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