斉昭というと「頑迷な攘夷主義者」というイメージが強い。「攘夷の巨魁」となった斉昭に天下の攘夷主義者の期待が集まり、実行不能な攘夷であっても幕府首脳はそれを無視するわけにもいかず、頭痛のタネになった。
一方、幕末の水戸藩における斉昭の存在は絶対的であった。安政五年(1858)、斉昭が幕府によって謹慎を命じられると、憤激した藩士ら(激派とよばれる人たち)は、一斉に水戸街道を上り小金宿に集結した。藩士の中には、激昂の余り腹を斬る者まで現れた。この時、集結した中には農民や神官までも含まれていたという。
これまであまり斉昭の前半生については知らなかったため、斉昭が幕末の水戸藩において絶対的な存在となった理由が分かっていなかったが、本書は若き日の事績に至るまで丁寧に解説しており、大いに理解が深まった。
斉昭が初めて藩主として水戸藩に帰った(「就藩」という)のは、天保四年(1833)の三月、三十三歳の時であった。藩主を継いだのが文政十二年(1829)であるから、それからほぼ四年後のことである。斉昭は熱心に領内を巡視し、暴風雨の後には資材高騰防止や復興のために資金を拠出するといった困民対策を実行した。
以下、斉昭の藩政改革を列挙すると、①江戸と水戸の藩士を交代制とし、江戸詰めの人員を大幅に削減した。②飢饉対応として常平倉を設置し、旱魃に備えて揚水機の図を出版、家臣を九州に派遣して米を買い付けさせた。③天保九年(1838)には領内総検地を断行し、藩収入の増加を実現した。④物産方をおき、従来の紙や蒟蒻、煙草のほか、馬産、陶器、製茶、硝子、蜜蜂、植林など新しい産業を興した。⑤藩士の知行所を指定し、そこから直接年貢を取り立てる方式に切り替えた(地方知行制)。⑥藩士の意識改革を狙った甲冑閲覧式を実施。神発流・大極陣といった砲術を創案。大砲の鋳造。家臣を地方に土着させ、有事に対応できる体制を整備(海防の強化)。⑦神仏分離政策。腐敗した僧侶を還俗させる等して僧侶を整理、寺院を統合整理する一方、梵鐘や仏具を供出させ大砲鋳造に充てた。一方で神道の振興策がとられた。⑧弘道館の設立(安政四年(1857))。医学館開設(天保十四年(1843))。郷校の設置。⑨牛痘の実施。⑩偕楽園の開園。偕楽園は、その名のとおり武士だけでなく、領内の庶民にも開放された。
斉昭が実行した改革や施策は、以上にとどまらない。地方知行制によって藩士を土着させ、海防を強化する等、それぞれの施策はお互いにリンクしたものであった。幕末の斉昭のイメージは、他人の忠告に耳を貸さない、言い出したら止まらない、悪く言うと「暴君」であるが、若き斉昭は領民のことを思って「仁政」を実行し、「言路洞開」を実践して改革派・門閥派両派の意見もよく聞く名君であった。
斉昭の改革は概ね善政と評価できるだろう。しかし、神仏分離策は後年の廃仏棄釈の前例となるファナテッィクな政策であった。この頃、僧侶の間では、法号を金次第で乱発し、布施が少ないと葬式を日延べするといった目に余る腐敗が横行していた。彼らに対する懲罰という意味合いがあったとしても、行き過ぎの観を否めない。当然ながら神社にはこの施策は歓迎された。雪冤のため続々と江戸に上った民衆の中に神官の姿があったのも、故の無いことではない。のちに桜田門外の変に参加した「桜田烈士」の中にも神官がいた。
幕閣は何を言い出すか分からない斉昭を恐れたが、同時に幕府への批判勢力である攘夷派の支持を集める斉昭を(適度に)幕府に取り込むことにも腐心した。
斉昭は「副将軍」としての意識から、幕府への建言を繰りかえした。天保五年(1834)には松前拝領と蝦夷地の防備強化を申し入れた。幕府は適当に受け流したが、天保九年(1838)には蝦夷地を「北海道」と定めて日本の国土であることを明確にし、家臣ともども移住して、築城、番所の設置、人数武士の配置、諸士の土着からアイヌの教化に至る精密な計画を考案していた。天保十年(1839)には「戊戌封事」と呼ばれる文書を新将軍家慶に提出している。ここでも斉昭は蝦夷地開拓を水戸家に任せてもらいたいと請願している。異国との交易を禁じ、異国船を直ちに撃ち払えと主張し、そのために堅固な大船を建造せよと説く。対外危機への対処から内政問題までに至る壮大な提案であったが、「現実的な切迫感に乏しく、総じて観念的な感じが強い」ものでもあった。
しかし、藩政改革の成功を背景に斉昭の声望は高まっており、幕府としても無視するわけにはいかなかった。幕府は斉昭を江戸に呼び、太刀、鞍鐙、黄金を授けて慰労した。
しかし、天保十五年(1844)には藩政に不審があるとして、斉昭に致仕・謹慎を申し渡した。これには領民たちによる猛烈な雪冤運動もありその年の内に解除された。弘化三年(1846)頃からは老中阿部正弘へ頻繁に書状を送り、海防強化について提言した。幕府が、斉昭の実子慶喜に一橋家を相続させ、有力な将軍候補としたのも、斉昭を幕府に取り込むための政略という側面もあった。
嘉永六年(1853)ペリーが来航すると、幕閣は斉昭を頼った。斉昭の回答は「衆議のうえお決めになるほかなかろう」という拍子抜けしたものであった。常日頃は強硬論を吐く斉昭であったが、、国家存亡の危機に瀕して常識的な意見しか思いつかなかったということかもしれない。折しも、将軍家慶は危篤の病床にあり、世子家祥(のちの家定)は心身薄弱で指揮をとれる状況になかった。自ずと斉昭に期待が高まった。斉昭は海防参与として幕政に直接関与することになった。ようやく長年の希望が叶ったのである。
斉昭は何が何でも攘夷を主張したわけではなく、内には和睦のことは封印して決戦の構えを号令し、外に対しては避戦の交渉を進めるという「内戦外和論」を唱えた。しかし、回答延引で固めていた幕府には受け入れがたいものであった。アメリカから和親条約締結を迫られると、斉昭は石炭の補給については長崎に限定、交易については三年間試験的に交易することを提案した。「攘夷の巨魁」として名声が確立していた斉昭には妥協的な提案ができなかったのである。日米和親条約が締結されると、斉昭は辞職を申し出た。
安政二年(1855)、安政の大地震により、それまで斉昭を輔翼し、「水戸の両田」と称された藤田東湖と戸田蓬軒(忠敞)が亡くなった。斉昭の傍若無人は、両田を失って以降、加速したともいわれる。
安政三年(1856)、ハリスが総領事として着任し、通商条約の締結の交渉が始まると斉昭の反対にかかわらず、幕閣は通商是認、ハリスの出府是認で固まっており、斉昭はまたしても参与辞任を申し入れることになった。
斉昭はそれで収まらなかった。幕府に「自分をアメリカに派遣しろ」と申し入れたかと思うと「老中に腹を切らせ、ハリスの首を刎ねるべし」と暴言を吐いた。この時分から斉昭は我がままな老人と化し、幕府首脳をてこずらせた。積年の鬱憤がたまっていたのかもしれない。両田を失って、斉昭を諫める側近がいなくなったともいわれる。ここには藩政改革に取り組んでいた当時の溌剌とした若き日の斉昭の姿はない。人は年齢を増すにつれて短気となり、権力を手に入れるに従って頑固になるものである。人間は時間の経過とともに変わることは避けられないが、できることなら良い方に変わりたいものである。
斉昭は、万延元年(1860)、蟄居処分が解けぬまま六十歳で世を去った。死後、「烈公」という諡号を贈られた。「公、夙に忠誠を秉り、深く夷狄之患たりことを慮り、威武を震耀し、以って英烈を揚ぐ」から引用されたものである。「英烈」というのは「すぐれたいさお」という意味らしいが、むしろ「はげしい」という意味で、斉昭に相応しい命名といえよう。
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