(中央公民館)
熊本藩二代藩主細川光尚が、自ら宇土へ足を運び、弟にあたる細川行孝のために屋敷建設地を見分した。現在、宇土市教育委員会付近を宇土藩陣屋場所と定めて、陣屋が建設された。完成は正保四年(1647)。当時の建物は現存しておらず、教育委員会の建てた説明板が建てられているのみである。
宇土細川藩陣屋跡
(市民会館)
市民会館の敷地付近には、鶴城学館という教育機関があった。鶴城学館は、旧宇土藩主細川行真が創立したもので、明治二十六年(1893)四月に開館した。当時百六十二名という生徒数であった。鶴城学館の特徴の一つとして挙げられるのが「女子部」の存在であった。開館当時から二十五名の女生徒が学んでいた。四年後には百名ほどまで増えた。
開校からわずか十年足らずの明治三十五年(1902)、経済界の混乱により経営が行き詰まり閉館に追い込まれた。
鶴城学館跡
熊本藩二代藩主細川光尚が、自ら宇土へ足を運び、弟にあたる細川行孝のために屋敷建設地を見分した。現在、宇土市教育委員会付近を宇土藩陣屋場所と定めて、陣屋が建設された。完成は正保四年(1647)。当時の建物は現存しておらず、教育委員会の建てた説明板が建てられているのみである。
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宇土細川藩陣屋跡
(市民会館)
市民会館の敷地付近には、鶴城学館という教育機関があった。鶴城学館は、旧宇土藩主細川行真が創立したもので、明治二十六年(1893)四月に開館した。当時百六十二名という生徒数であった。鶴城学館の特徴の一つとして挙げられるのが「女子部」の存在であった。開館当時から二十五名の女生徒が学んでいた。四年後には百名ほどまで増えた。
開校からわずか十年足らずの明治三十五年(1902)、経済界の混乱により経営が行き詰まり閉館に追い込まれた。
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鶴城学館跡
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