史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

豊前

2016年06月11日 | 福岡県
(蔵春園)


蔵春園

 蔵春園は、文政七年(1824)、恒遠醒窓(つねとうせいそう)が開いた私塾で、別に恒遠塾とも呼ばれる。醒窓は、文政二年(1819)、十七歳で廣瀬淡窓の咸宜園に入門して、ここで五年間学ぶ。二十二歳のとき、長崎に出て高島秋帆の家に身を寄せて、多くの人々と交わりながら学を修めて帰郷した。当地で私塾を開いて子弟の教育に力を注いだ。門下には海防僧として有名な僧月性などがいる。醒窓は五十九歳で没したが、その子の精斎が後を継ぎ、明治二十八年(1895)に歿するまで、父子二代にわたって七十年間続けられた。その間の入門者は約三千といわれる。蔵春園は、仏山の水哉園とともに北豊私塾の双璧と称えられた。


恒遠醒窓生誕二百年記念碑


恒遠梅村麟次先生像

 福岡旅行の初日はここで日歿を迎えた。本当は豊前市の史跡をもう少し見て回る予定であったが、日が暮れてしまっては致し方ない。この原因の一つは、レンタカーのカーナビの使い方に不慣れだったことにある。このカーナビは有料道路を使うことに極めて消極的であった。このカーナビの癖に気付いたのは、使用後数日を経た後であった。それまで盲目的にカーナビの勧める道を走っていたため、特に車量の多い飯塚、鞍手、北九州を移動するのに、予想以上の時間を要してしまった。この時間のロスは痛かったが、何とか最終日までに取り返すことができた。

(千束八幡神社)


千束八幡神社

 慶應二年(1866)八月、小倉小笠原藩は、長州との戦いに敗れ、自らの手で小倉城と藩邸を焼いて南に逃れた。小倉新田藩は、自領に陣屋(藩庁)を持たず、小倉城下の屋敷に常駐していた。幕末の小倉新田藩一万石の藩主小笠原貞正は、同年十一月、小倉藩の当主小笠原豊千代丸(のちの忠忱)とともに領内安雲(あぐも)の光林寺に入り、明治二年(1869)塔田原に館の建設を始め、翌明治三年(1870)に完成し、旭城と名付けた。実態としては城というより、政治的な藩庁と呼ぶべきものであった。現在千束八幡神社の周囲に残る石垣はその当時構築されたもので、千塚原古墳の石を転用したものと伝えられる。明治四年(1871)の廃藩置県により、結果的にここに千束藩庁が置かれたのは僅か一年ほどのことであった。全国で最後に築かれた城と呼ばれる。


旭城跡

(八屋)


小今井乗桂翁像


浄土真宗乗桂校舊跡

 小今井潤治(乗桂)は、文化十一年(1814)、上毛郡小祝村に生まれた。文政年間に宇島(うのしま)に移り住み、小今井家の営む萬屋を継いで、養父とともに米穀商と酒造業を商った。米や酒を運ぶために多くの船を保有し、四国や関西の商人と取引を行った。天保七年(1836)、小倉藩から紙幣「萬屋札」の発行を許され、格式大庄屋、御蔵本(年貢米を管理する役)を申付けられた。この頃、相次ぐ飢饉のため藩財政は苦しかったが、江戸西の丸の焼失による幕府への献金二万五千両のうち七千両を引き受けた。維新後も宇島港の管理と修理費用を負担したり、明治十七年(1884)の全国的飢饉にあたっては、二年間無制限の炊き出し、施し米を行った。明治二十年(1887)には私費で施療病院を開き、宇島駅の開業にあたって三町歩余りの土地を寄附した。明治八年(1875)、明治政府が信教の自由を達示すると、仏教の前途を憂い、独力で浄土真宗の私立大教校小今井乗桂校をこの地に開校した。ここで学んだ僧徒は三千人と伝えられる。乗桂とは西本願寺から賜った名である。明治二十年(1887)、大阪出張中に急逝した。享年七十四歳。


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