市川のグラウンドで開かれる野球の練習に参加するため中央特快に乗っていると、間もなく新宿というところで携帯電話にメールがあった。「雨のため今日の練習は中止」だという。このまま引き返す手もあったが、総武線に乗り換えて千葉経由で木更津まで足を伸ばすことにした。
ちょうど今、「脱藩大名の戊辰戦争」(中村彰彦著 中公新書)を読んでいる最中である。「脱藩大名」とは耳慣れない言葉であるが、この本の主人公請西藩主林忠崇のことである。林家は小なりといえ譜代大名であり、特に忠崇の三代前の忠英のとき、時の将軍家斉の小姓を足掛かりに、家斉の寵臣として出世を重ねた。忠英一代で林家は三千石から一万石まで加増され、大名に列するに至った。家斉の没後、水野忠邦の綱紀粛正にあって忠英は隠居を命じられ、忠旭が林家を相続した。このとき陣屋の所在をそれまでの貝淵から請西(じょうざい)に移し、新たに請西藩が立藩された。陣屋のある場所の地名は真舟(または間舟)であるが、武家風に真武根とした。
その後、請西藩主は忠旭からその弟忠交に引き継がれたが、慶応三年(1867)六月 その忠交が三十五歳の若さで急死し、忠旭の五男、当時二十歳であった忠崇が藩主の座に就いた。
真武根陣屋遺址石碑
林家は代々将軍家が正月に食べる雑煮に入れる兎肉を献上する家であった。そのことが林家の誇りであり、忠崇の鎧兜には兎をデザインしたものを使用していた。忠崇が何故脱藩してまで徳川家に忠義を尽くそうとしたのか、後世の我々は彼の心情を推し量るしかないが、とにかく忠崇は早々と官軍に味方することを決めた紀州藩、尾張藩、彦根藩に敵愾心を燃やした。
慶応四年(1868)閏四月九日、忠崇は真武根陣屋に火を放って請西をあとにした。
史蹟 真武根陣屋遺址
小雨の降る天候のせいか、木更津駅を降りたときの第一印象は何だか寂しい街であった。ここから真舟団地行きのバスに乗り、陣屋下バス停で下車する。真武根陣屋遺址はこのバス停から数百メートル北側に在る。付近に行先案内らしいものはなく、随分と迷った。小雨の降りしきる中、しかも野球の道具を担いだままで、予想外に厳しい史跡探索となった。目印は「木更津中央霊園」。霊園入口の向かい側の草むらの中に陣屋跡石碑がある。やっと行き着くことができた。さて、木更津駅に戻らなくてはならないが、真舟団地循環バスは本数が少ない。結局、ここからまた三十分ほど歩くはめになった。思いつきで木更津を訪ねることにしたが、思いのほか苦労した。
ちょうど今、「脱藩大名の戊辰戦争」(中村彰彦著 中公新書)を読んでいる最中である。「脱藩大名」とは耳慣れない言葉であるが、この本の主人公請西藩主林忠崇のことである。林家は小なりといえ譜代大名であり、特に忠崇の三代前の忠英のとき、時の将軍家斉の小姓を足掛かりに、家斉の寵臣として出世を重ねた。忠英一代で林家は三千石から一万石まで加増され、大名に列するに至った。家斉の没後、水野忠邦の綱紀粛正にあって忠英は隠居を命じられ、忠旭が林家を相続した。このとき陣屋の所在をそれまでの貝淵から請西(じょうざい)に移し、新たに請西藩が立藩された。陣屋のある場所の地名は真舟(または間舟)であるが、武家風に真武根とした。
その後、請西藩主は忠旭からその弟忠交に引き継がれたが、慶応三年(1867)六月 その忠交が三十五歳の若さで急死し、忠旭の五男、当時二十歳であった忠崇が藩主の座に就いた。
真武根陣屋遺址石碑
林家は代々将軍家が正月に食べる雑煮に入れる兎肉を献上する家であった。そのことが林家の誇りであり、忠崇の鎧兜には兎をデザインしたものを使用していた。忠崇が何故脱藩してまで徳川家に忠義を尽くそうとしたのか、後世の我々は彼の心情を推し量るしかないが、とにかく忠崇は早々と官軍に味方することを決めた紀州藩、尾張藩、彦根藩に敵愾心を燃やした。
慶応四年(1868)閏四月九日、忠崇は真武根陣屋に火を放って請西をあとにした。
史蹟 真武根陣屋遺址
小雨の降る天候のせいか、木更津駅を降りたときの第一印象は何だか寂しい街であった。ここから真舟団地行きのバスに乗り、陣屋下バス停で下車する。真武根陣屋遺址はこのバス停から数百メートル北側に在る。付近に行先案内らしいものはなく、随分と迷った。小雨の降りしきる中、しかも野球の道具を担いだままで、予想外に厳しい史跡探索となった。目印は「木更津中央霊園」。霊園入口の向かい側の草むらの中に陣屋跡石碑がある。やっと行き着くことができた。さて、木更津駅に戻らなくてはならないが、真舟団地循環バスは本数が少ない。結局、ここからまた三十分ほど歩くはめになった。思いつきで木更津を訪ねることにしたが、思いのほか苦労した。