史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

木更津 真武根陣屋遺址

2008年10月11日 | 千葉県
 市川のグラウンドで開かれる野球の練習に参加するため中央特快に乗っていると、間もなく新宿というところで携帯電話にメールがあった。「雨のため今日の練習は中止」だという。このまま引き返す手もあったが、総武線に乗り換えて千葉経由で木更津まで足を伸ばすことにした。
 ちょうど今、「脱藩大名の戊辰戦争」(中村彰彦著 中公新書)を読んでいる最中である。「脱藩大名」とは耳慣れない言葉であるが、この本の主人公請西藩主林忠崇のことである。林家は小なりといえ譜代大名であり、特に忠崇の三代前の忠英のとき、時の将軍家斉の小姓を足掛かりに、家斉の寵臣として出世を重ねた。忠英一代で林家は三千石から一万石まで加増され、大名に列するに至った。家斉の没後、水野忠邦の綱紀粛正にあって忠英は隠居を命じられ、忠旭が林家を相続した。このとき陣屋の所在をそれまでの貝淵から請西(じょうざい)に移し、新たに請西藩が立藩された。陣屋のある場所の地名は真舟(または間舟)であるが、武家風に真武根とした。
 その後、請西藩主は忠旭からその弟忠交に引き継がれたが、慶応三年(1867)六月 その忠交が三十五歳の若さで急死し、忠旭の五男、当時二十歳であった忠崇が藩主の座に就いた。


真武根陣屋遺址石碑

 林家は代々将軍家が正月に食べる雑煮に入れる兎肉を献上する家であった。そのことが林家の誇りであり、忠崇の鎧兜には兎をデザインしたものを使用していた。忠崇が何故脱藩してまで徳川家に忠義を尽くそうとしたのか、後世の我々は彼の心情を推し量るしかないが、とにかく忠崇は早々と官軍に味方することを決めた紀州藩、尾張藩、彦根藩に敵愾心を燃やした。
 慶応四年(1868)閏四月九日、忠崇は真武根陣屋に火を放って請西をあとにした。


史蹟 真武根陣屋遺址

 小雨の降る天候のせいか、木更津駅を降りたときの第一印象は何だか寂しい街であった。ここから真舟団地行きのバスに乗り、陣屋下バス停で下車する。真武根陣屋遺址はこのバス停から数百メートル北側に在る。付近に行先案内らしいものはなく、随分と迷った。小雨の降りしきる中、しかも野球の道具を担いだままで、予想外に厳しい史跡探索となった。目印は「木更津中央霊園」。霊園入口の向かい側の草むらの中に陣屋跡石碑がある。やっと行き着くことができた。さて、木更津駅に戻らなくてはならないが、真舟団地循環バスは本数が少ない。結局、ここからまた三十分ほど歩くはめになった。思いつきで木更津を訪ねることにしたが、思いのほか苦労した。

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「幕末維新と佐賀藩」 毛利敏彦著 中公新書

2008年10月08日 | 書評
 「明治六年の政変」や「江藤新平」を著わした毛利敏彦氏の新刊である。基本的には毛利氏がこれまで繰り返してきた論調と変わり映えはしない。残念ながら「何故、人権主義者であり、法治主義者でもある江藤新平が、西郷隆盛の遣韓使節に賛同し、遂には西郷とともに下野してしまったのか」という最大の疑問には答えていない。強いて本著の目新しさを探すと、鍋島閑叟に照明を当てたことだろう。毛利氏に言わせると閑叟は西洋列強に対して(島津斉彬より更に左に位置する)「克服路線」の最左翼にあり、「明治維新が産業革命への日本人の応答だったという根本義から見れば、維新史への理解をいっそう広げ深める鍵の一つは、鍋島閑叟の研究だろう」と指摘する。それにしても維新史における閑叟の存在感は意外なほど希薄である。島津久光や山内容堂、松平春嶽、伊達宗城ら、いわゆる賢候と呼ばれる人たちと比して、ほとんど中央の政局に顔を出さない。佐賀は京や江戸からとても遠い。情報が入らなかったから政局に取り残されたのかというとそういうわけでもない。維新前の江藤新平の活躍はあまり知られていないが、江藤は折に触れ「図海策」「急務げい言(げいは言べんに藝)」などの提言を閑叟に提出している。いずれも後世から見て驚くほど的確で鋭利である。閑叟にこれを受け容れるだけの理解力、決断力、判断力と政治力があれば、佐賀藩はもっとプレゼンスを高められたであろう。閑叟は慶応四年(1868)三月、有名な「五箇条の御誓文」が発布されるに当たって新政府の議定に任命されると、本名を「斉正」から「直正」に改めた。「斉」の字は、十一代将軍家斉から頂戴した諱である。閑叟はこの時点でようやく徳川幕府と決別することを固めたのである。閑叟は、幕府から命を受けた長崎御番の任務遂行に非常に熱心であったし、幕府に対して極めて同情的であった。これが時代の最先端の知識人であった閑叟の行動を鈍らせ、佐賀藩が時勢に乗り遅れる最大の要因であった。
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川口 錫杖寺

2008年10月05日 | 埼玉県
(錫丈寺)

大河ドラマで幕末が取り上げられると、つい見てしまうが、今年も幕末を舞台とした「篤姫」が放映中である。画面に向かって
「そんなわけないだろう」
と一人で突っ込みを入れている。「篤姫」も史実に反した作り話が目につくが、村岡、幾島、瀧山といった登場人物は実在の人物である。ただし稲森いずみが演じる瀧山は、文化二年(1805)の生まれというから、幕末には五十歳を過ぎた老女だったはずであり、まだ三十代の女優が演じるには本来無理がある。

錫杖寺はJR川口駅から歩いて10分ほど。川口郵便局の裏手に所在している。錫杖寺は日光御成道川口宿に面し、歴代将軍の日光参詣時の御休息所、或いは鷹狩りの際の御膳所として利用された。本堂の背後に墓地が広がり、その一角に瀧山の墓がある。瀧山は家定、家茂、慶喜の三代の将軍に仕え、大奥の総取締役を務めた実力者である。江戸城開城後は、川口に移り住み、晩年夫婦養子を取って瀧山家を起こした。明治九年(1876)七十六歳で没した。





瀧音院殿響誉松月祐山法尼
(瀧山の墓 上)

錫杖寺(下)
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「暁の旅人」 吉村昭 講談社文庫

2008年10月04日 | 書評
 吉村昭は、司馬遼太郎先生と並んで私の好きな作家の一人である。やはり幕末から明治にかけての人物や事件を題材に多くの作品を残している。ところが不思議なことに、吉村昭と司馬遼太郎の二人が共通して小説の主人公として取り上げた人物は松本良順ただ一人なのである。松本良順は、佐藤泰然を父に、林董を弟に持ち、蘭医でありながら幕府の奥医師に取り立てられ、将軍家茂の臨終にも立ち会った。新選組の近藤勇や土方歳三とも親交が深く、のちに幕府が開いた医学所頭取に就任し、戊辰戦争にも従軍した。歴史のさまざまな場面に顔を出すので、作家としては執筆意欲を掻き立てられる題材なのであろう。同じ良順を主役に据えた作品でありながら、吉村昭の「暁の旅人」と司馬先生の「胡蝶の夢」は読後の印象が全く異なる。一言でいうと「胡蝶の夢」は痛快である。多紀楽真院や伊東玄朴といった悪役を配し、司馬凌海といったユニークな破滅型キャラクターも登場する。登場人物がいずれも活き活きとしかも人間臭く描かれており、小説として圧倒的に面白い。一方で吉村昭の描く良順は、必ずしもかっこよくない。多紀楽真院が繰り出す難問に対し、良順が一夜漬けで見事にクリアする下りは、わずか数行で片付けられている。逆に、晩年子供や親族に先立たれ、生きる意欲を失ったかのように老いを迎える良順の痛々しい姿を執拗に追う。目を背けたくなるほどの描写である。これが吉村昭流の歴史の描き方であり、読む方は、その人間の見たくない姿も見なくてはいけない。それだけの覚悟を要するのである。
 でもやっぱり良順についていえば、断然「胡蝶の夢」に軍配が上がると思います。

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