史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

南千住 Ⅲ

2016年11月19日 | 東京都
(荒川ふるさと文化会館)


橋本左内の墓旧套堂(さやどう)

 荒川ふるさと文化会館の前に橋本左内の墓旧套堂が移設されている(荒川区南千住6‐63‐1)。この套堂は、昭和八年(1933)に橋本左内の墓を保護するために造られた建造物である。鉄筋コンクリート造で、もと回向院境内入口にあったが、平成十八年(2006)、荒川区に寄贈され、同二十一年、ここに復元された。
 套堂の内部には、橋本左内の陶像が置かれている。


橋本左内坐像

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本駒込 Ⅵ

2016年11月19日 | 東京都
(西善寺)


西善寺

 地下鉄東大前駅から徒歩数分、向丘1‐13‐8に西善寺がある。一見すると、普通のマンションとしか見えなくて、思わず通り過ぎるところであった。墓地奥に近藤重蔵の墓がある。


近藤重蔵墓

 近藤重蔵(1771~1829)は、幕臣で北方探検家。諱は守重、号は正斎。寛政十年(1798)、松前藩蝦夷御用取扱を命じられ、幕府使番大河内らに従い蝦夷地を巡察した。その後、寛政十一年(1799)、享和元年(1801)、同二年(1802)、文化四年(1807)の四回、蝦夷に赴き、樺太、千島、利尻や現在の札幌周辺を視察した。択捉島に設置されていた露人の十字架を撤去し、「大日本恵土呂府」の碑を建てた。その後、書物奉行、大阪弓奉行などに転身したが、身分不相応の行いがあったとされ、江戸滝野川に蟄居し、後に目黒の別邸に移り住んだ。文政九年(1826)、長男の富蔵が殺傷事件を起し、八丈島配流となり、重蔵は改易され近江国大溝藩預かりとなり、同十二年(1829)に死去。五十九歳。大溝藩主分部家の墓所、瑞雪院(滋賀県高島町)に葬られ、江戸駒込西善寺にも墓標が建てられた。

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護国寺 Ⅴ

2016年11月19日 | 東京都
(桂林寺)


桂林寺

 本多利明の墓が桂林寺にあるというので、 訪ねたが発見できず(文京区目白台3‐3‐11)。本多利明(1743~1820)は、江戸後期の経世家。越後蒲原郡の出という。江戸で和算、天文、暦学を学び、漢訳洋書により西洋の知識も吸収した。一時加賀藩に仕えたが、ほぼ一生浪人として、教育・著述に努めた。北方開発、国産増強、対外交易など重商主義的論説を主張。著書に「経世秘策」「西域物語」など。弟子に最上徳内がいる。

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多摩川

2016年11月13日 | 東京都
(浅間神社)
 東急多摩川駅を降りて直ぐのところに浅間神社がある(大田区田園調布1‐55‐12)。参道を上ると、その途中に勝海舟直筆食行身禄之碑がある。


浅間神社


勝海舟筆 食行身禄之碑

 浅間神社は少し高い場所にあり、ここから多摩川方面の眺望は素晴らしい。


夕暮の多摩川
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西大井 Ⅲ

2016年11月13日 | 東京都
(養玉院如来寺)


誠心院秋嶽澄照居士(佐須伊織の墓)

 対馬藩主宗氏の墓地の裏側に、対馬藩主の墓が並ぶ一角があり、その中に藩内の抗争で暗殺された佐須伊織の墓がある。この墓のためだけに西大井の養玉院如来寺を再訪した。
 佐須伊織は、対馬藩江戸詰家老。宗氏御三家のうち上席の家に享和二年(1802)生まれた。佐須と杉村は同一家で、代ごとに苗字を代える家風で、父も江戸詰家老をつとめた杉村但馬功加。嘉永・安政の間、井伊直弼、久世広周、安藤信正に謀り対馬を幕府の直轄とし、朝鮮通交は対馬従来の経験をもってこれに与し、宗氏を和泉十八万石に移封しようと謀ったが、異変のために成らなかった。文久二年(1862)八月、宗家継承の問題で、反対派四十四士のために暗殺された。年六十一。

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新馬場 Ⅵ

2016年11月13日 | 東京都
(品川神社)


勝海舟筆 天地開闢大日本大社廻

 勝海舟筆と山岡鉄舟筆の二つの石碑を見るため、品川神社を再訪した。品川神社には、海舟が「葵神輿」と名付けた神輿も保存されており、海舟との所縁が深いようである。鳥居の右手には、勝海舟の筆による石碑と、その直ぐ近くに山岡鉄舟書の石碑がある。


勝海舟筆 葵神輿


山岡鉄舟筆 

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越中島

2016年11月13日 | 東京都
(調練橋公園)
 越中島2‐16‐13に所在する公園は、調練橋公園と名付けられているが、見渡しても橋らしいものは無い。わずかに交差点の信号機の横に「調練橋」という表示があるのみである。


調練橋


調練橋公園

 安政二年(1855)以降、越中島では軍隊の調練、砲術の演習のため幕府の調練場として利用され、明治以降も陸軍の演習場として使われた。大正十三年(1924)にこの場所に橋が架けられた時、調練橋と名付けられた。

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清澄白河 Ⅲ

2016年11月13日 | 東京都
(本立院)


本立院

本立院本堂の前に間宮林蔵先生之瑩域と記された石碑がある(江東区平野1‐14‐7)。境内に林蔵の墓はなく、ここから東へ数分歩いた場所にある。


間宮林蔵先生之瑩域

 (間宮林蔵の墓)


間宮林蔵蕪崇之墓

 間宮林蔵の墓は、平野二丁目の交差点の北西の一角にある(江東区平野2‐7‐8)。
 間宮林蔵は、安永九年(1780)(一説に安永四年とも)、常陸国筑波郡上平柳村に生まれた(現・つくばみらい市)。名は倫宋(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政十二年(1800)、幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷をはじめとする北地探検と測量に従事した。文化五年(1808)、幕命により松田伝十郎とともに樺太を探検した林蔵は、翌年七月には単身で樺太からシベリアに渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)を遡りデレンに達した。この十五か月に及ぶ探検の結果、樺太が島であることが明らかになった。後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名になった。天保十五年(1844)、深川蛤町の家で没した。

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神楽坂 Ⅱ

2016年11月13日 | 東京都
(清隆寺)


清隆寺

 神楽坂の清隆寺は、勝海舟の菩提寺である(新宿区赤城元町1‐27)。海舟の父小吉も当初はこの寺に葬られたが、のちに青山霊園に改葬された。


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千歳烏山 Ⅲ

2016年11月13日 | 東京都
(多聞院)


多聞院

 多聞院には、館林藩士大久保鼎、明治の漢詩人本田種竹の墓がある(世田谷区北烏山4‐12‐1)。


舊館林藩 従五位大久保鼎墓

 大久保鼎は、文政七年(1824)の生まれ。初め新助と称した。少壮より志気勇烈、武技にも優れた。嘉永以後の幕政の失策を慷慨し、藤田東湖らと交わり尊王攘夷を主張した。嘉永六年(1853)、米艦渡来の時、浦賀に潜行し、外人の無礼を見て憤激し、これを刺さんとして同志に慰諭された。文久三年(1863)五月、長州の下関外艦砲撃事件を機とし、幕府征長の議起こるや、攘夷は朝旨なりとし、また藩主秋元志朝と兄弟たる長州藩世子毛利定広(元徳)の冤罪を除かんとして、同年十一月、同志九人と断髪決死を誓い、家老岡谷瑳磨介を糾弾。藩主の上京、公武斡旋を促した。この時、随行を願ったが、赦されず、墓石を刻んで上京せんとする途次、箱根で捕えられ、府下角筈の藩邸に幽囚され、ついで切腹を命じられた。元治元年(1864)四月没。年四十一。

(存明寺)


存明寺

 存明寺(ぞんみょうじ)に、坂本龍馬の妻、楢崎龍の弟、楢崎太一郎の墓があるというので、墓地を歩いてみた(世田谷区北烏山4‐15‐1)。墓石を一つひとつ確認して歩いた結果、楢崎家の墓を一つだけ発見した。ただし、これが太一郎の墓との確証は得られていない。墓石側面にある「秀嶺院釋一道白隠居士」が太一郎のものか。


先祖代々之墓(楢崎)

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