和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「安房郡の関東大震災」余話⑥

2024-07-13 | 地震
内村鑑三が、関東大震災に遭遇したのは62歳でした。
政池仁著「内村鑑三伝」(教文館・1977年)に

「・・・大手町の衛生会講堂も焼け落ちて、
 内村はその働き場所を失った。東京市民はぼう然自失、
 不安におびえながらも右往左往しそのなす所を知らなかった。

 内村は一枚の紙に左のごとく書いて玄関口にはり出した。

   今は悲惨を語るべき時ではありません。
   希望を語るべき時であります。・・・・・・   」(p567)


「 10月5日の内村の日記に、

    昨夜順番に当り、自警団の夜番を努めた。・・・・
    老先生拍子木を鳴らしながらその後に従う。・・・・

  と書いた。これについて、ベンダサンは、
 『内村鑑三のような、キリスト教徒の非戦論者・平和主義者までが、
  木刀をもって家のまわりを警戒に当たったのは事実であり・・』
  と書いた(「日本人とユダヤ人」)。

 内村は木刀を持って歩いたのではなく、拍子木を鳴らしながら
 歩いたので、拍子木というものはカチン、カチンという
 遠くまできこえる音によって、悪る者が逃げるようにするものである。
 息子の持っていた金剛杖というもの鉄棒だと誤解している人もあるが、
 これは樫の木で作ったもので、この夏息子祐之が富士登山に使った 
 ものである。・・・・      」 (p572~573)


はい。ここに、
『 内村は一枚の紙に左のごとく書いて玄関口にはり出した。
     今は悲惨を語るべき時ではありません。
     希望を語るべき時であります。・・・・・・    』

という箇所があったのでした。そこから思い浮かべた本が、
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日)の
このパウロが引用されている箇所でした。

「新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、
 ところどころに実に特殊な、『 喜べ! 』という
 命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『 喜べ! 』と
 命令されることはない。・・・・・・

 聖パウロの言葉は、人間が命令されれば心から喜ぶ
 ことを期待しているのではないだろう。

 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、
 人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには
 天賦(てんぷ)の才能が与えられている。

 しかし今手にしているわずかな幸福を
 発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。  」(p29)


え~と。
内村鑑三著「後世への最大遺物 デンマルク国の話」(岩波文庫)
これをパラリとひらいてみたら、パウロと二宮尊徳とのページが
目にはいりました。その両方を最後に引用しておきます。

「・・・パウロの書簡は実に有益な書簡でありますけれども、
 しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値の
 はなはだ少ないかと思う。パウロ彼自身は
 このパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書簡よりも
 エライ者であると思います。・・・  」(p54)

「あなたがたもこの人(二宮尊徳)の伝を読んでごらんなさい。
『少年文学』に中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、
 あれはつまらない本です。

 私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました。
 五百ページばかりの『 報徳記 』という本です。
 この本を諸君が読まれんことを切に希望します。

 この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。
 実にキリスト教の『 バイブル 』を読むような考えがいたします。」(p63)


ということで、はい。私はさっそく『報徳記』をネット注文することに。
そこに出てくるであろう、『希望』とめぐりあえますように。





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「安房郡の関東大震災」余話⑤

2024-07-11 | 地震
「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年7月30日)。
政池仁著「内村鑑三伝」(教文館・再増補改訂新版1977年)。

関東大震災の首都東京を、この2冊から引用してみます。
まず1冊目から。

「1923(大正12)年8月24日、
  時の首相加藤友三郎が亡くなり、
  外相の内田康哉(うちだこうさい)が臨時に首相を務めていた。
  28日には海軍大将の山本権兵衛に次期内閣を組織するよう
  『大命』が降下したのだが、組閣は難航し、
  新内閣はまだ発足していなかった。

  この状況(震災)のもとで、内田臨時首相、水野錬太郎内務大臣ら
  内閣の閣僚は首相官邸の植込みの中で閣議を開いた。
  臨時震災救護事務局を特設し、臨時徴発令の発布、
  戒厳令の一部地域への適用などの応急処置を取ることとなった。」(p18)

2冊目から引用。
こちらには小見出しに「朝鮮人虐殺事件」との箇所から引用。

「大震災のあった9月1日夜から、
『 朝鮮人が放火して廻っている 』、
『 朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ 』、
『 社会主義者と朝鮮人が内乱暴動を起こそうとしている 』
 などという流言がとんだ。・・・・

 ・・この流言の出所は『赤池警視総監らが流言の発頭人』
 だと三宅雪嶺が言っている。
 赤池警視総監の部下・官房主事・正力松太郎は
『 自分が部下にこの朝鮮人暴動の流言を命じ、掲示板にも公表させた 』
 と言った。

 なぜ、治安を保つべき警視庁が、このような
 治安を乱す流言を流したのかというと、
 その4年前の大正8年に朝鮮で三・一独立運動(いわゆる万歳事件)
 が起った。・・・・・

 日本政府はこの失政の責任を問うて朝鮮総督・長谷川好道をやめさせ
 斎藤実(まこと)を新総督に任命した。斎藤に随行した
 水野錬太郎・政務総官はソウルに着いた時
 駅前の南大門で朝鮮人から爆弾を投げられた。
 幸い死をまぬがれたが、その後日本に帰り内務大臣になった。
 大震災当時も彼が内務大臣であった・・・・関東各県に
『 朝鮮人や過激思想を有する者が
  妄動をふるう恐れがあるから検挙するように 』
 と命じた。
 水野内務大臣の朝鮮総督府政務総監時代にその下で働いた
 赤池濃は大震災の時、東京の警視総監であった。・・・・・

 なお、水野内務大臣はそのあくる日
 9月2日に東京府に戒厳令を発したが、
 その晩山本権兵衛新内閣ができたので
 内務大臣の席を後藤新平にゆずった。   」(p570~571)


最後には、一冊目の「震災復興 後藤新平の120日」
から1日~2日の様子を引用しておきます。

「この日、山本は海軍の社交クラブである築地の水交社に陣取って
 組閣の準備をしていた。そこへ大揺れが来てやむを得ず自宅へ帰った。
 翌日の9月2日の模様について、山本はこう回想している。

   火につつまれた地震の一夜が明けると、
   どこからともなく流言蜚語が伝わって来た。
   思う人を呼びにやっても、なかなか来ないし、
   又情報すらない。実に気が気でなかった処へ、
   来たのが後藤伯爵であった。伯とは、既に
   それとなく話もしてあったのであって、伯が来て、
   大体の様子も判った。依って自分は、これでは、
   完全の組織を望む訳には参らぬ。しかし、
   内閣は一日もむなしくすべからず、2、3の人とでも
   一緒となって働こうというと、伯は勿論やります、というた。 」
                          (p18~19)

「 こうして後藤新平は山本内閣の内務大臣に就任し、
  以後、『帝都復興』に主導的な役割を果たすことになる。
  9月2日、山本や後藤の活動により、どうにか閣僚の
  人選が進んできた。・・・・・・・

 大蔵大臣には後藤みずからが時の日銀総裁である
  井上準之助の説得に出かけた。井上はこう語っている。

    内閣の顔触れも揃わぬ所に後藤子爵が行って、
    こうなった以上は何が何でも内閣を組織しなければならぬ、
    こういうことを非常に力説されて、その足で私の所に
    2日の日に来られて、とにかく内閣を拵えなくては仕様がない、
    前内閣の人はそれだけの責任は負わないし、
    この惨状を眼の前に見て躊躇して居る場合ではない、
    山本伯にもそう話して賛成して居られるということであったのです。」
                    ( p21~22 )
    
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『安房郡の関東大震災』余話➃

2024-07-09 | 地震
震災と仏教とキリスト教と・・・
なんて思いがひろがります。

「生ききる。」(新書・角川ONEテーマ21・2011年7月10日発行)。
これは、瀬戸内寂聴と梅原猛の対談。

ここには、いろいろと仏教が語られてゆきます。

梅原】 行基(ぎょうき)や空也(くうや)上人はね、
    天災や戦さで死んだ人たちの屍を供養した。
    この行基・空也のような活動を仏教はやってほしい。(p53)

まえがきは、瀬戸内寂聴さんでした。こうあります。

「 東北といえば、私が1987年の5月から晋山(しんざん)した
  天台寺がある所在地である。
  岩手県二戸郡浄法寺町にある古刹天台寺・・・
  私が51歳で出家した時、岩手県平泉市の中尊寺で得度(とくど)
  させてもらったという縁による。私の師僧になっていただいた
  今東光師が、中尊寺の貫主であられた仏縁であった。 」(p3~5)

瀬戸内】 私はね、坊さんになる時は本当に自分のために出家したんですよ。
     ・・・キリスト教でもよかったんです。・・・
     けれど結局、坊さんになった。そうしたら、
     天台寺は最澄の忘己利他(もうこりた)が根本でしょう。
     人のために尽くすのがもっとも大切な行です。義務です。
     やっぱり人のために何かしなきゃいけない思うようになった。
     これはえらいことになったと思った・・・     (p54)


梅原】 ・・・私は日蓮の『地涌(じゆ)の菩薩』に注目します。
   『地涌』という語は『法華経』の『従地涌出品』第15に出てきます。

   『従地涌出品(じゅうじゆじゆつほん)』という通り、
   いわゆる『本化(ほんげ)の菩薩』は天から舞い降りてくるのではなく
   大地から湧き出してくるという考えです。

   上行菩薩・無辺菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩が
   その地から涌き出た四菩薩です。この四菩薩は
   大衆の中にいて、大衆を導く仏です。というより、
   大衆自身。今、被災者のことを考えると、彼らこそ
   『 地涌 』の菩薩そのものなんです。だから必ず、
   地から湧き上がる力を持っている。私はそう考えます。  (p52)


梅原】 ・・被災地で何をやらないといけないのかと言ったら、
    それは瓦礫の撤去とともに、道を直し、橋を架け、
    そして死んだ人を埋葬し、弔うこと・・・、
    これはまさに行基集団が行った仏教です。
    空也上人の仏教です。

    また一遍(いっぺん)その人自身も、
    病気を救ったりといろいろするけど、
    特に二祖の遊行(ゆぎょう)上人、真教(しんきょう)は
    一遍の教えを実行した人です。
    この人は敦賀の気比(けひ)神宮で土木工事をしている。 
    水害で沼になっている参道に土を運んで来て埋め立てます。

   『 遊行上人縁起絵巻 』を見てたら、モッコ担いだり、
    土をならしたりと、土木工事そのもの。詞書を読むと、
    貴い人も俗人も、僧も遊女も手伝ったとある。
    さらに沼に住む亀が・・・          (p60~61)


さらには、第3章では、天皇陛下への言及もあります。

梅原】 ・・・・今、天皇陛下が被災地をお回りになっています。
    鎮魂の役割を果たしている。象徴天皇というのは、
   『 鎮魂する人 』という意味かもしれません。

    ・・・日本人が代々やってきた怨霊の鎮魂という、
    そういうことを今の天皇陛下がおやりになている。 (p88)

梅原】  天皇がいらっしゃると誰でもありがたいと思うんです。
     立ち直る元気が出てくる。不思議な力、
     私は日本の天皇制が、今、ここで生きていると思う。

     やっぱり何かシンボルがいるんですよ。
     今度ほど、そういうものが必要な時はないんじゃないかな。(p89)



はい。私といったら、キリスト教ということから、思い浮かんだのは
曽野綾子著「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」

地涌の菩薩から思い浮かんだのは、
門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」

そして天皇陛下から思い浮かんだのは、
『安房震災誌』の御真影の箇所でした。
   


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震災での死亡数の確認。

2024-07-05 | 地震
震災に際して、その地区の死亡者数を確認する場合に、
どうしても、地元の地区の人が確認する。ことになるのでしょうか?
震災の被害の当事者でありながら、現場の震災状況を把握するのに、
地元の当事者としての確認が、必要不可欠となります。

被災者の当事者であり、同時に現状の把握者とならなければならない。
そんなことを、つい思ってしまいました。

さて、そういう視点から『 安房震災誌 』を紐解いてみます。

安房郡長大橋高四郎の、9月3日のことが記されております。

「3日になると、東京の大地震殊に火災の詳細な情報が到着した。
 かくてはとても郡の外部の応援は望むべくもない、
 1日の震後直ちに計画してゐたことも、
 郡の外部に望を屬することはとても不可能である・・・
 と郡長はかたく自分の肚を極めた。そこで・・・

 ・・4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・・
 したがって会議の目的は、各町村の震災の実況、
 医薬、食料品の調査、青年団、軍人分会、其の他の応援が
 主たる問題であったことはいふまでもない。・・・   」(p277)


このすこしあとに『震災状況調査』とあります。そこを引用。

「 被害の状況が明白に調査されなければ、
  救助計画も出来ない順序であるから、
  被害調査は、第一着に手をつけたが、

  調査の中枢機関たる町村役場が、何れも全潰または半潰の
  悲惨な状態であるのと、道路も、交通機関も杜絶し、
  その上町村吏員もまた均しく罹災者であるので、
  その調査には大なる困難を感じた。

  しかし、こうした状態の中にも、各町村は最大の努力で
  時を移さず被害の状況をそれぞれ報告されたのである。
  郡当局は、それを基調として対応策を決定することが出来た。
   ・・・・・・・・・・・          」(p278~279)


『安房震災誌』には、第一編のはじまりに
「 『 震災状況調査表 』( 大正12年9月19日調 )安房郡 」 
 という一覧表があります。
 一覧表の横は、各町村名が並び、縦は区別として、
 総戸数・全潰戸数・半潰戸数・焼失戸数・流失戸数・・死亡数・負傷数・・
 と区分けしてあります。

この『調査表』については、こうも記述されております。
「 だが一度調査したものを更らに精査したり、
  又町村の応急施設指導の為めには、郡吏員は、
  しばしば各町村に出張して、町村吏員を督励したりして、
  調査の進捗を図ったのである。・・   」(p279)


なるほど、南三原村の『調査表』(大正12年9月19日調)の数値は、
一年後の大正13年9月1日に建立された石碑『震災記念碑』に
記載され彫られている数値と同じでありました。


話しはかわりますが、
大正12年9月1日が、関東大震災。
令和6年1月1日は、能登大地震。

ここに、読売の古新聞をもらってきてありました。
うん。ところどころ欠けている日にちがあるのですが、
それは、もらって来た古新聞だからであります(笑)。
その古新聞をめくってみます。

1月3日読売新聞一面「能登震度7 死者48人」と見出し。
「1日午後4時10分頃、石川県能登地方を震源とする地震があり・・」
一面の、これが左上で、右上は「日航機 海保機と衝突」。

1月8日「能登地震圧死多数か」発生1週間「死者128人 避難2.8万人」
1月9日「能登積雪捜査阻む」「死者168人安否不明323人」
1月11日「雨で土砂災害警戒」「死者206人安否不明52人」
1月12日「感染症警戒2次避難急ぐ バスなど5700人分確保」
1月13日「中学集団避難200人超希望」
1月14日「避難者情報を一元化 県がシステム的確支援狙う」
1月15日「耐震遅れ圧死拡大」(能登地震現場報告)
1月16日「能登地震死者名を公表」
1月20日「能登地震 孤立集落『実質解消』」
ちなみに、20日の各市町の数値一覧を見ると合計で
『 死者232人(14)・避難者1万3934人・家屋被害2万9885棟 』
そして、カッコ内( )は災害関連死。となっておりました。

私は、『 安房郡の関東大震災 』という講習をするのですが、
安房震災誌に載る『震災状況調査表』(大正12年9月19日調べ)の
各町村からの合計数を最後に、ここに記しておきます。

 総戸数   31,505
 全潰戸数  10,808
 半潰戸数  2,423
 焼失戸数  424
 流失戸数  71
 死亡数   1,206
 負傷数   2,954



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そんなことより私はいつも

2024-06-24 | 地震
あれれ、山本夏彦著「『室内』40年」(文藝春秋・平成9年)をひらくと
東京都知事選という箇所がありました。
それははじめの方にありました。小見出しが『 地震は票にならない 』。
この本は、インタビューに夏彦氏が答えている一冊でした。

―― 清水(幾太郎)さんが近く大地震が来るぞと
   説いているのをご存じだったんですね。

山本】 ああ聞いていた。けれども地震は票にならない。
    秦野章が地震は票になると誤解して、  
    東京都知事選を美濃部亮吉と争った。

    そして失敗した。地震の話はね聞きたくないんです。
    いずれはあるに決まってるんだから。
    当時は60年に1度あると信じられていた。・・・・   (p43)


―― 地震は票にならないっていうのはどういうことですか。

山本】 地震で壊滅するのはいつも本所深川です。
    次もそうに決まっているから、そこへ行って選挙演説したんです。
    
    ところが誰も聞いてくれない。
    地震の話は聞きたくない、あれは天災だ、運だ、
    猫の額みたいな、あんな『火よけ地』で助かるはずがないと
    知っているから耳をかさない。

―― 今度の阪神大震災で関心が高まってます。

山本】 一年たったら忘れます。人間はそういう存在です。
    ・・・・・・・・・・・・・・         (p44)


建築雑誌に関する箇所も印象深い。

山本】 ・・・でもねえ建築家ならまた違った心がけがなければいけないな。
    建築雑誌は地震をとりあげない。見ててごらん地震の特集をするか
    しないか。

    日建設計の林昌二さんに
    『JIA』(新日本建築家協会が出す月刊の機関紙)
    で扱いますかって聞いたら、扱わないでしょう、って言ってました。

    なぜ扱わないかって聞いたら
    専門家としてやろうとするからでしょうと答えた。
    専門家ならいいかげんなことはできない、
    データが揃うのを待っていたら何年かかるかわかりません。
    揃う頃にはもう地震のことなんか忘れている。    (p45)


はい。この箇所は以前読んだのですが、すっかり忘れておりました。
それよりも、私が覚えていたのは、懐中電灯を取り上げた箇所です。
さりげないのですが、何だか印象に残り、懐中電灯を買いました。
最後にその箇所を引用しておわります。


山本】 ・・そんなことより私はいつも懐中電燈持ってる。
    妻に死なれて一人になって『 雨が降る日はいやだなあ 』
    って書いたことがある。

    片手に傘、片手に鞄を持って両手がふさがっている。
    夜家に帰ると暗くて勝手口の鍵があけられなくて、
    だから懐中電燈を持ってるの、二つも。

    ひとつは万年筆みたいなの、それからちゃんとしたのと。
    手さぐりでつかめる。

    もし地下道が真暗になったとき、
    それがどのくらい人助けになるかわからない。
    住友系の大手町不動産の元社長『室内室外』の執筆者
    臼井武夫さんから教えられた。

―― 臼井さん、用意周到な方ですよ。
   実は私も山本さんから聞いて持ってるんです。

山本】  自分より人助けだと思ってる。
    まっくらになるとパニックが起こる。
    だからあんなちっぽけな灯でも助かる。    (p44~45)
コメント (2)
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クリップでとめ、題つけ。

2024-06-23 | 地震
山本夏彦対談集「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社・2009年)。
この本に、清水幾太郎さんとの対談「誰も聞いてくれない地震の話」がある。
はい。そこから、この箇所を引用

山本】 清水さんは本所でも被服廠跡には逃げておられませんね。
清水】 ええ、遠かったので逃げておりません。

山本】 あそこへ逃げこんで死んだ人がたくさんいますね。
清水】 私はあそこで従弟を含めて親戚10何人かをなくしています。
    叔父と叔母は死体の山の中に埋もれて、2日目でしたか、
    ザーッと雨が降り、それで息をふき返しました。

山本】 話には聞きましたが、本当にあったんですね。
清水】 はい、非常に稀な例でございましょう。
    その時の経験が江東ゼロメートル地帯には残っております。
    被服廠跡へ逃げろって言ったのは警察なんです。
    そこへ逃げたのが4万人で、3万8千人が死にました。
    折れ重なった死骸の山の高さは1メートル以上もありました。

山本】 そういう経験をしながら、なぜ近くあるはずの
   地震の警告を聞かないんでしょう。
清水】 聞きたくないんでしょうね。      ( p61~62 )


今年は当ブログで『安房郡の関東大震災』についての日々録をしており。
さてっと、これらをまとめ、1時間の講習録をつくろうと思うのでした。
とりあえず、ブログの日々録をプリントしてみて、
項目別に分けるという作業をしてみることに。
はい。トランプ並べをしているような気分で。

 首都直下地震  余震  安政地震 房州陥没
 能登地震   記録を残す

 北條町 安房郡長大橋高四郎 青年団の力 郡制とは
 1日から3日まで 山間部への急使 地涌菩薩
 
 正木清一郎 山田鹿太郎 摂政官 後藤新平 水田三喜男
 山階宮殿下 震災後の復興

 曽野綾子の云う天賦の才能 安房郡長の呼びかけ 腹をきめた
 感謝の語り草 安房震災の救護

 地震よりも恐れ戦いた 流言蜚語 人の言葉の散りやすさ
 米騒動 女の集団 臨機応変

 落ち込む人 テンションが上がる人 平常心
 防災士教本の教え 曽野綾子の平常心

 海の時代 牛乳の国 郡長と農学校 人間力と団体力
 参考文献へのひとこと


とりあえず、クリップで止めて、項目としての題をふってみる。
うん。これだけじゃなかったような気がするのですが、まあいいか。
これだけでも、1時間以内に語れるように削ってゆくのは
何ともめんどうそうです。
けれども、何とか聞いてもらえるように話します。
そうそう、聞きたい方が来てくださるのですから。
 

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墓碑銘を読みあげ

2024-05-27 | 地震
関東大震災の際に、母親から常に言われていた安政の大震災を
思い浮かべたエピソードがあったのでした。
  ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

その回顧から思い浮かべるのは、
東日本大震災と、昭和6年岩手県田老村での大津波でした。


詳しくは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の
第二章「昭和8年の津波」にある「子供の眼」(p120~)にあります。
それはそうとして、ここに引用するのは、
東日本大震災の後に出版された、
森健著「『つなみ』の子どもたち」(文藝春秋・2011年)です。

吉村昭の本に、尋常小学校6年牧野アイさんの作文が載っておりました。
森健の本には、そのアイさんの現在を尋ねております。
一部分だけですが、この機会に引用しておくことに。

「 『 津波はおっかねえから、地震が来たら
   ( 津波 )警報を待たずに逃げろ、というのは、
   うちでは口酸っぱく言われたことでした 』

 栄子(アイさんの子)の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。
 
『 母は津波を忘れないために、夜寝るときには、洋服をきちんと畳み、
  着る順番に枕元に置いておく。玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
  
  避難の際は赤沼山への道を決めておく。また、
  お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
  誰が津波で死んだかを口にしていた。

  どの振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
  私たち子どもたちへの防災教育でもあったのです 』

 吉村の本の中でも、アイは取材にこう答えている。

( 現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、
  顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。
  豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、
  夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。

 『 子供さんはいやがるでしょう? 』
  と私が言うと、
 『 いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます 』
  という答えがもどってきた。

  荒谷氏夫婦にとって津波は決して過去だけのものではないのだ。 ) 」

      ( p250~251 「『つなみ』の子どもたち」 )

もうすこし引用して、最後にします。

「 吉村昭が取材に来たとき、アイは49歳、功二(荒谷)は田老町の
  第一小学校の校長だった。またその子ども、四女の栄子は
  中学生だったという。 ・・・・・・

  津波に遭ったこと、また津波の地に戻ってきたこと、
  そしてもう一つ付け加えるなら、あの作文を書いたこと。
  この三つの出来事がアイの人生の大きな転機となっていた。
  津波で家族全員が失われた。その悲しみ、そして、
  津波の恐ろしさを伝えることが、アイにとって
  昭和8年以来80年近い年月の責務となっていた。・・・」(~p252) 
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下から来る地震はこはいよ

2024-05-27 | 地震
富津尋常高等小学校・八田知英の短文があり、
そこに、安政の大地震と関東大震災が語られておりました。
引用しておきます。

「・・・やがて下から持ち上げられる様な気持でドーンと来た、
 私は『 地震だ。出ろ 』と思はず叫んだ。

 広尾訓導は『 大丈夫だ 』と云った
( 其の大丈夫だと言ったのは倒潰することはない、
  夏休中に教室の柱を修理したからの意味で有った )

 私は『 何に出ろ 』と言って外へ出た、
 ころころと転げて畑の中まで転げ落ちた。

 頭を上げて見ると『 ガラガラ 』と砂煙りを上げて
 東側の校舎が倒れるのを見た。

 私も広尾訓導も命を拾った。
 児童も早く逃げ出して居った。

 私の父母は江戸で生まれ安政の大地震のとき恐ろしい目に遭った。
 
 母は常に『 下から来る地震はこはいよ 』と教へてくれた。
 今更に母の言葉の有難味を覚える、

 下から来る地震東京湾沿岸三、四尺も隆起したところから見ると、
 下からまくし上げたに違ひない。   」
 
       ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
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人の言葉の散りやすさ②

2024-05-26 | 地震
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
明尋常高等小学校報が載っておりました。
そこから今回は引用してみます。

明村(あきらむら)青年団とあります。
ちなみに、千葉県東葛飾郡にあった村で
現在の松戸市役所のあたりのようです。
この文のなかに「 為に救護団は自警団とかはり 」とある箇所を
途中から引用してゆきます。

「 明村青年団は挙って避難民を救助せんと準備した・・・
  炊事場、救護所等を急設して麦湯、ふかしいも、握飯等を用意した、

  刻々と避難民は押かけ何百人かを接待した、
  されど益々避難者は増加するので一層徹底的に救護せんものと
  2日午前5時支団一同協議した結果、救護所には本支団倶楽部(栄松寺)
  を当てて其の準備をした、

  午後になると不逞漢云々との流言蜚語盛に起り一層人心に不安を加へた、
  為に救護団は自警団とかはり、『不逞漢と見たらやってしまへ』の
  声起り伝来の日本刀まで持ち出して意気をあげてゐた、
  水も洩らさぬ警戒振りであった。 」(p900~901)

ここから、本支団顧問中村戒仙と自警団との話になります。

「 ・・(禅師)は自警団詰所に来り一同の様子に驚き何事ぞと問はれた。

  不逞漢に対する事情を話すと
『 それは以ての外である。無警察状態の折であるから何かの誤であらう、
  殊に彼らも尊き人類である以上、保護するのが当然だ 』

 と警告された、団員一同は軍人迄も之に当るの時に於て
 保護することは出来ないといって端なくも殺気立ち論争となった。・・

『 其れまでの覚悟ならば萬一不逞の徒が現はれたなら捕縛して
  おれの寺に連れて来い、此の事が静まるまでおれが保護の任に当る 』

 といって頑として動かなかった。
『 ・・・・其れが亦御佛の慈悲である、よし
  1~2の不心得者があったにしても、全部がさうとはいはれない 』

  と懇々と説かれたが、
  其の時は一同も殺気だって居たこととて、或者は
『 時に容れらざる説だ。我々の行為を邪魔する説だ。
  たとへ本支団の顧問だと云へ余り解らなければ真先にやってしまへ 』
  等といふ者もあったが、
『 成程 』と心の奥に感じさせられた者も少なくなかった。

 斯くして一日すぎ二日すぎ漸く平穏にかへった。

 一月も経ってから一同は全く彼の時はあはてたものだ、
 流言であった、蜚語であった、今になって顧みると

『 あの場合よくも和尚様はああいふ態度がとれたものだ 』

 と感心してゐる。お蔭で一同も悔を後に遺すこともなく、
 平素の修養の必要であることを切に覚った・・・・

 師の本支団顧問当時、大震火災満一周年には青年団として
 卒先死者供養塔を建立して盛大に供養された、
 そして和尚さんは当時の追憶談をしてくだされた。  」(~p902)
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吉村昭の安房の震災記述。

2024-05-06 | 地震
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)は、
p59からが「東京の家屋倒壊」として首都の内容へわけいってゆきます。
その前のページ(p57~58)に千葉県が出てきておりました。
はい。この機会に引用しておくことに。

「 千葉県の被害も、驚くべき数字をしめしている。・・・ 
  殊に相模湾をのぞむ房総半島南西部の沿岸各地の被害はすさまじかった。

  館山湾内の沿岸は最も激烈な地震に襲われ、
  那古では900戸の人家のことごとくが全壊した。

  館山町でも戸数1700戸の99パーセントが倒壊し、
  附近一帯の田が2メートルも沈下し、砂が吹き出るという現象すら起った。

  館山町に隣接した北条町では、戸数1600余戸中、
  全壊1502戸、半壊47戸にも達し、
  郡役所、中学校、停車場等すべてが全壊した。

  古川銀行、房州銀行の建物が奇蹟的に残った以外は
  柱の立っている家さえなく、電柱はかたむき、
  電線は地上にたれて町全体が壊滅してしまった。

  さらに亀裂は深さ2メートルにも及び、
  陥没地域も多く、測候所と小松屋旅館などが亀裂の中に落ちこんだ。」
                         ( ~p58)


ちなみに、この文庫の最後に、17冊が参考文献としてあげられています。
その中に、『安房震災誌』はありませんでした。
ひょっとすると、吉村昭氏は『安房震災誌』『大正大震災の回顧と其の復興』
などは手にしていなかったようです。

はい。当ブログでは
『安房震災誌』『大正大震災の回顧と其の復興』を手がかりに、
『安房郡の関東大震災』を語ってゆくのでした。

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『腹をきめた』?

2024-04-30 | 地震
竹内政明著「読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集」(中公新書ラクレ)
をひらき、2011年の『対策統合本部』の言葉がある箇所から、2ヶ所引用。

「 政府と東京電力が一体となって原発事故にあたる
 『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
  蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)
  のほうが先というのも、ピントがぼけていた。 」
             ( p197 5月18日の一面コラム )

一面コラムの4月7日にも『対策統合本部』が出てきておりました。

「 『福島原子力発電所事故対策統合本部』では、
  どのくらいの人が働いているの?・・・・

  政府と東京電力が全情報を共有して事態に対処する、
  との触れ込みで震災4日後に発足している。

  放射能の汚染水を東京電力が海に放出することを
  農林水産省は事前に知らなかった。
  当然ながら、漁業関係者には伝わらない。
  外務省も知らなかったのか、
  通告なしの放出に憤る韓国政府から抗議を受けた。

  政府の各府省と東電が、目と、耳と、口と、脳みそを、
  ひとつ場所に持ち寄ってこその『対策総合本部』のはずである。

  疲労が重なっているのも分かるが、
  現場作業のような被爆の危険にさらされているわけではない。

  大事な局面で、やれ『 聞いていない 』だの、
  『 寝耳に水 』だのと内輪でもめる司令基地ならば
  存在しないのと一緒だろう。・・・   」(p143)


この箇所を読んで、安房郡長大橋高四郎の追憶が
思い浮かんできます。

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻(昭和8年8月1日発行)で
この本の編者を昭和6年9月に引受けた安田亀一氏が、
関東大震災の時に、安房郡長だった大橋高四郎氏を尋ねて聞いた
内容を掲載しております。
万事そそっかしくて、あわてん坊の私が、
気になって、それでもって印象に残っている箇所がありました。

大橋高四郎氏は語っております。

「・・・役所も多分潰れたことであらう、が、
 今駆け付けて見ても駄目だ。
 現場へ行っては却て現場に捉はれてよい知恵は出ない。
 これは先づ此の松の木の下で計画を立てるに如かずだ。
 とおれは腹をきめた。 」(p817)

「・・併し、人の事を云う所ではない、
 手拭地の寝巻姿に細紐を帯に締めて松の根に掴まってゐた
 俺の姿もあまり見っともよいものではなかったらう。

 兎に角俺は考へた。こんな大震に会っておれの一家の
 無事なのは天が俺に大任を下したのだ。
 骨を粉にしても一つ大に働かねばならんとな。

 役所へ行ったのはかれこれ2時間も経ってからの事だろう。」(p818)



はい。最後に引用するのは2011年3月12日未明の出来事。
門田隆将の著書の第9章「われを忘れた官邸」のはじまりの箇所。

『菅首相が来ます』
『なに?』
 なぜ来るんだ?
 現地対策本部長の池田元久は耳を疑った。
 3月12日の未明、4時頃のことだった。・・・・

 一国の総理が、原子力事故のさなかに、その『現場』にやって来る。

 池田自身が現地に到着し、オフサイトセンターが立ち上がってから、
 まだ何時間も経っていない。
 そんな段階に総理がやって来るとは、どういうことなのか。

『 これだけの地震と津波で死者・行方不明者が大勢出ている状態です。
  現に事故が進行しているさなかです。私が霞が関を出る前に、
  すでにテレビにも映し出されていましたが、
  
  あの津波の濁流は凄かった。
  瓦礫の下で救出を待っている人たちも生存率は
  72時間で急激に下がっていきますから、
  最初の72時間は最大限、救出活動に全力を挙げるというのが
  世界の常識です。それなのに、
  総理が原発にやって来るということがわかりませんでした 』

  それは、国民の生命・財産を守らなくてはいけない
  国家のリーダーが、≪ 一つの部分 ≫だけに
  目を奪われていることを物語っている。

『 とにかく今やるべきことは、人命の救助だと思いました。
  そこに全力を挙げるべきだということです。

  それからもう一点は、福島に総理が来て、
  そこで指揮を執れればいいのですが、
  現地は、地上系の連絡手段をはじめ、
  全部ダウンしちゃてるわけだからね。
  通信状態は、極めて劣悪であるわけです。
  そこへ来ても、指揮は執れませんよ。

  だから原発事故についても官邸にいた方がいいわけです。
  大局観を持つべきです。
  物事の軽重について常識的な判断が必要だったということです 』

 大局に立てば人命救助が最優先であり、
 もちろん原発事故は重要だが、それならば、
 余計に官邸にとどまって指揮を執るべきだと池田は思ったのである。

 ・・・・・・・ 」(p131~132・単行本)
(門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」PHP より)
  
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大震災への『座右の書』

2024-04-26 | 地震
『安房郡の関東大震災』の講座までに、身近に置いときたい本が曽野綾子著
「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」(扶桑社・2011年9月10日)

これを座右の書に、関東大震災から東日本大震災へ、視野をひろげられれば、
さまざまな切口で、講座時間内に重層的な話題を提供できそうな気がします。

さてっと、直接に関係しないのですが、触発される箇所もいろいろあります。
たとえば、『田舎』というキーワード。そこを引用しておくことに。

「 自分の一存でやるべきことをやって、
  それがいけなかったのなら責任をとって野に還る、
  浪人をするなどという覚悟が昨今のエリートには全くない。

  昔は実際に親たちが田畑を耕している家庭があった。
  勤め先の世界が理不尽だと感じる時は、
  職も地位も捨ててとにかく田舎に帰れば食えたのである。

  今でも過疎になった農村に入ることを覚悟しさえすれば、
  農業一年生として生きることはできるだろうと、私は思うのだが
  ・・・・・
  とすると、いかなる事態になっても、紙に書いてある自分の任務以外は
  何一つできない役人が、緊急事態の被災地のあちこちにいて、
  その活動の邪魔になっても不思議はないのである。」 ( p196 )

今回、この箇所をパラパラとめくって思い浮かんだのは、柔道でした。
私の高校時代の体育の授業では、選択制で柔剣道を選んで受ける時間が
ありました。そこで選んだ柔道は、まずは受け身からはじまりました。
テレビで観戦する柔道は、倒されたら負けになるのですが、
あくまで、柔道の基本をはじめる際には、受け身からでした。
その『受け身』が思い浮かびました。
話しがそれました。

ここには、『田舎』という言葉があるのですが、
『田舎』と同時に『覚悟』という言葉もここにありました。
本の最後に方に『覚悟』という言葉がでてきておりました。
ということで、最後にそこを引用。

「東日本大震災の後すぐ、個人的な事情で
 私は被災地に入れない状況にあった。 」(p266)

そして四カ月目に現場に行くことになります。

「それでも私はでかけることにした。
 だから私は四カ月目の被災地の現場のほんの一部の大地に、
 たった2日間立たせてもらったに過ぎない。
 私は全体像どころか、私が見た限りの狭い断片的光景しか書けない。

 たぶんそれは、ほとんどいつも、記録者について廻る宿命のようなものである。
 つまり私たち記録者は、常に巨象を撫でる盲人で、
 ほかの印象を持つ多くの人の違和感を覚悟の上で
 書かねばならないのである。  」(p268~269)


はい。百年前の『安房郡の関東大震災』を
今度語ろうとするのですが、何だか背筋を伸ばしてくれる
そんな言葉をいただいているような気になります。
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講座予定の紹介文

2024-04-25 | 地震
一年に一度。一時間ほどお話をさせてもらっています。
地域の公民館講座のひと枠です。昨年は8月だったので、
今年もその頃になるかと思います。南房総市公民館だよりに、
講座の連絡が掲載されて参加者募集します。

早いですが、まずは、その参加者募集の紹介文を
考えることに。以下の内容を予定しております。

「関東大震災後、創立すぐの安房農学校で『復興の歌』が
 歌われておりました。それから百年後の昨年。同じ場所で、
 その同じ歌詞を歌う講座がひらかれました。

 その際のアンケートで、『郷土歴史』への興味の項目に、
 全員が〇をつけていました。またコメント欄に
『 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
   地域の受災状況をくわしく知りたかった。 』とありました。

 今年の講座は、このコメントをテーマに語ります。
 題して『 安房郡の関東大震災 』
 副題に『 安房郡長大橋高四郎 』
 大正時代の安房郡を視野に、安房郡長を主軸に、
 震災を時系列でたどります。  」

 はい。昨年は15人ほどの参加者を前にかたって、
 参加者の皆さんとで『復興の歌』を歌いました。
 高校の許可があればまた同じ場所での開催です。

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困った時の神頼み。

2024-04-23 | 地震
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)を
そばに置いているので、この機会にパラパラとめくります。

東日本大震災に遭遇して、マスコミや各種雑誌は、
曽野綾子氏に誌面を提供しておりました。
その曽野綾子氏は聖心女子大学卒のカトリック教育を受け
育っておりました。この本にも聖書からの引用がところどころに
出てきております。

「東日本大震災による困難に直面しながら、
 今日私が書くことは不謹慎だという人もあろうが、
 やはり書かねばならぬと感じている。・・・・

 ・・・それでも人間は今日から別の道を見つけて
 前に歩き出さなければならないのだ。

 新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、ところどころに
 実に特殊な、『 喜べ! 』という命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『喜べ!』と命令されることはない。
 感情は、具体的な行動と違って、外から受ける命令の範疇外のことだからだ。

 だが聖パウロの言葉は、
 人間が命令されれば心から喜ぶことを期待しているのではないだろう。
 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。
 しかし今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは
 意外と上手ではないのだ。    」(p28~29)


ここだけを引用してもはじまらないのが、この本の特徴なのですが、
ここは、東日本大震災直後に書かれていることを念頭におくと分かりやすい。

また、こういう箇所もありました。

「 聖書は『使徒言行録』(20・36)で
 『 受けるより与える方が幸いである。 』といっている。
  これは人間の生甲斐というものをごく普通の言葉で表した名言である。
  ・・・・・
  人間を失わないのは、ほとんど人間性を失いかけているように
  見える不幸や貧困の中ででも他者に与えるものを持っている場合である。
  それは、物やお金ではない。その人が人間であることの
  尊厳を示せる機会を残しておくことなのである。   」(p124)

聖書を引用したあとにつづくのは、東日本大震災の事例でした。
たとえば、こんな箇所。

「 私は今回ほど、我が同胞に誇りと尊敬を持ったことはない。
  人々は配給の食料を整然と列を作って受け、量が十分でない場合には、
  簡単な合議制で公平に分け合った。
  運命を分け合う気力はすばらしいものだ。

  事件直後では産経新聞の3月14日付の記事が、
  宮城県下で窃盗事件が相次いだと報じただけだ。
  もちろん災害の中心地は破壊が烈しくて盗むものもなかっただろう。

  盗まれたのは塩釜、多賀城などの食料品店で、総額わずか40万円。
  休業中のガソリンスタンドで、ノズルに残っていた1リットルの
  ガソリンを盗もうとした24歳の会社員まで入れてである。

  あってはならない災害だったが、今回の事件で、
  日本と日本国民に対する評価は世界で一挙に高まると思われる。
  厳しい天災の中にあって、このような静謐を保てる気力は、
  世界にそう多くはないからだ。  」(p131~132)


パラパラとめくっていると、
関東大震災で曽野綾子さんの両親が遭遇したエピソードが語られています。
そこを引用しておきたいと思いました。

「一昔前の日本は、貧しい国であった。
 しかし社会は当時から折り目正しく公平だった。
 私は援助を受けた日本の歴史的な姿を、一市民の姿から書いておきたい。

 1923年の関東大震災の時、東京に二人の平凡な市民の女性たちが住んで
 いた。共に20代半ば、共に幼い娘を持っていた田舎出身の主婦であった。

 大震災の後、この女性たちは、アメリカからの贈り物という毛布をもらった。
 一人の女性は、後年生活が楽になって、義援の毛布より少し上等な毛布を
 自分で買えるようになっても、もらった毛布は大切に仕事場で使っていた。

 その二人とは、夫の母と私(曽野綾子)の実母である。
 当時二人はまだお互いの存在さえ知らず東京の下町で暮らしていた。

 後年、震災後に生まれた息子と娘が結婚した後、
 二人は震災の話をして、二人とも公平に同じような
 アメリカの毛布をもらったことを確認し合った。

 日本の町方の組織は、当時からそれほどにしっかりしていて、
 しかもフェアーだったのである。誰か顔役がいて、被災者の
 毛布を横流ししたことはなかったのだ。まだ若い妻たちが、
 何も言わなくても毛布はもらえた。これはすばらしい記録である。」(p139)


ここに『東京の下町で暮らしていた』という箇所があります。
東京の下町といえば、現在、江東区・東京15区補欠選挙があり、
選挙演説期間で、日本中の注目を集めております。
どうしても、選挙演説を聞いている江東区民のことが
今は思い浮かんできます。『喜べ!』江東区民の方々。







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2024-04-22 | 地震
今年は、『安房郡の関東大震災』と題して、
1時間程度の講座をひらきたいと思っております。
昨年は、『関東大震災と「復興の歌」』というテーマで語りました。

それに関連して、資料を読み返しながら、当ブログでは、
すぐに忘れてしまう私のために、その資料をピックアップして、
あっちこっちと脱線して不連続ながらも書き込みをしています。

差し当たって、語るための資料はこの程度にして、
あとは、これを1時間の中にゴチャゴチャしない程度に
まとめてみたいのですが、さてどうしたらよいのか、と思っておりました。

まずは、『 安房郡の関東大震災 』に関する資料が豊富にあったことを
歓びたいと思い。その嬉しさを記しておきたくなります。

こういうのは、比較すると浮き上がってくるものですね。
ここには、東日本大震災のある箇所を比較してみることにします。

曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)から引用。小見出しに、「組織における記録という武器」とある箇所を引用してみます。

「 地震後しばらく経って、官邸と保安院と東電との間で、
  喧嘩か責任のなすり合いが始まった。

  東京電力福島第一原子力発電所の事故後、
  第一号機への海水注水を行うことについて、
 
 『 言った 』『 言わない 』『 知らない 』
 『 伝えた 』『 連絡を受けていない 』式の

 なすり合いが始まったのである。
 ことがこれほど重要でなければ、
 世間にいくらでもある喧嘩の典型的タイプである。 」(p162)

はい。ここでは、時間が限られた講座の話と違いたっぷり
引用しておきたいと思いますので、さらに引用を続けます。

「 会社や組織の中での喧嘩は、いつも
  『 自分は連絡を受けていなかった』
  『 そんなことはない、ちゃんと伝えてある 』の形式を取る。

  いつか親しいカトリックのシスターが、
  『 修道院の中でも喧嘩するのよ 』と言うので私は嬉しくなり、
  『 シスターたちの喧嘩の原因てなんです? 』と尋ねたら、
  『 連絡した 』『そんな知らせは受けていない』ということなのだという。
  『 なあんだ 』と私は少しがっかりした。修道院の中なのだから、
  もう少し神学的高級な問題の対立か、それとも好きなお菓子を
  あの人が食べてしまったというような動物的な対立かと期待したのに、
  これでは世間の会社と同じだ。

  しかし組織が喧嘩をしないためには、
  記録を採る習慣が非常に大切だと私は改めて思った。
  
  私は前に勤めていた日本財団で行っている事業に関して、
  何か少しでもおかしいと感じたら、
  その瞬間から記録を採る習慣を職員に要請した。

 『 〇月〇日、××の件で、どこそこの△△さんと名乗る人から、
   根掘り聞くという感じの電話を受ける 』から始まって、
  その問題に関するあらゆる人のあらゆる種類のアプローチを、
  とにかく記録しておくのである。
  これは非常に大切なもので、後になって大きな働きをすることがある。」
                  ( p162~163 )


引用しながら、思い浮んでくるコラムがありました。
竹内政明読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集(中公新書ラクレ)。
この第二十集は、2011年1月~6月までの一面コラムが載っております。
その5月18日のコラムの後半を最後に引用しておくことに。

「 『 さしたる用もなけれども・・・ 』
  何の用があったのか―――菅首相が野党から責め立てられている。

  震災翌日に原発を視察した判断をめぐって、である。
  首相は格納容器が破損している可能性を認識していながら、
  指令本部の官邸を留守にしており・・・・・

  そういえば、政府と東京電力が一体となって
  原発事故のあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
  蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)の
  ほうが先というのも、ピントがぼけていた。

  拍手をもらえそうならば無理にでも『出る幕』を
  つくってしまう≪ 興行師 ≫のような最高指揮官では困る。

  視察は意義があったと首相は言う。
 『 さしたる用もなけれども・・・ 』と言うはずもないが。 」(p196~197)


さて、『安房郡の関東大震災』を指揮したのは安房郡長大橋高四郎でした。
その記録となる『安房震災誌』(大正15年3月発行)には
前安房郡長大橋高四郎という肩書で「安房震災誌の初めに」という序を
書いております。その最後を引用しておくことに。

「 ・・が、本書の編纂は専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
  資料も亦た其處に一段落を劃したのである。そして
 
  編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、
  その完成をはかることにしたのであった。

  今編纂成りて当時を追憶すれば、
  身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
  聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。  」


『安房震災誌』の編纂に基づいて私は今年、
1時間の講座を、受け持つことにしています。

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