和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

普通の暮らしの空気

2024-04-21 | 地震
本棚から、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)
を取り出す。題の脇には小さく「東日本大震災の個人的記録」とあります。

最後には、書下ろし原稿と、新聞、雑誌に寄稿した原稿を加えたとあります。
その次に、産経新聞・週刊ポスト・新潮45・修身・WILL・本の話・SAPIO
文藝春秋・あらきとうりょう・オール読物と寄稿誌などを明記しております。

そうだった。あの大震災の直後から、新聞雑誌で曽野綾子さんの文が読めた。
そうこうするうちに、この単行本が出たので買ったのでした。
今になって、あらためてパラパラひらいてみることにします。

どうして、曽野綾子氏の文がちょくちょく見れたのか?
という疑問に答えているのはここらあたりでしょうか

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
 私はいつも周囲の情況が悪くなった時に思い出される人間なので
 はないか、と思う時がある。」(p27)

「約40年間、私はアフリカの貧しい土地で働くカトリックの修道女たち
 の仕事を支援してその結果を確認して歩く仕事をするようになった。」(p29)

こうして「アフリカの田舎の暮らしの実態と今の日本を比べ」る視点で
箇条書きに示しておられました。その中からこの箇所を引用。

「 泣きわめくような、付和雷同型の人は、被災地にはほとんどいなかった。
 感情的になっても、ことは全く解決しないことを日本人の多くは知っている。
 風評に走らされた人は、むしろ被災地から離れた大都市に見られた。」(p30)


うん。引用してみたい箇所が多いので、ここではさわりだけにします。
あと一ヵ所引用。

「 私が地震の日以来たった一つ心がけていたのは、
  普通の暮らしの空気、つまり退屈で忙しくて、
  何ということもない平常心を失わないことだった。

  いくつかの理事会などが延期になったので、
  私は外出しなくてよくなり、退屈のあまり
  簡単な料理ばかり作っていた。冷凍庫や冷蔵庫の
  中身をきれいに整理するための絶好の時と感じたのである。」(p97)

「 4月7日になって起きた宮城沖の大きな余震の時、
  仙台放送局内に設置されたカメラが、報道の威力を発揮した。
  人々は机の上のコンピューターを手で抑え、金属戸棚は
  後ろにひっくり返って散乱した。

  揺れがひどくなければテレビの絵にならないだろうから、
  これでよかったのかもしれないが、なぜこの放送局は
  1回目の地震の後、局内の戸棚や機器を、あり合わせの
  ビニールひも、布製の包装用テープ、新聞紙(の折りたたんだもの)
  などで止める配慮をしなかったのか。

  地震以来テレビ局員は、最高に忙しい人たちだということは
  よく知っている。しかし、どんなに疲れ切っていても、
  余震は予期されていた。僅かの補強で落ちるものも落ちず、
  倒れるものも防げるのだ。後かたづけに時間も取られない。

  阪神淡路大震災の時も、電気と水道はすぐに止まった。
  ということは、電気掃除機と水雑巾が使えないということだから、
  危険なガラスの破片など、昔ながらの箒と塵取りがないと
  始末に困ったという。 ・・・・         」(p99)

はい。最初の方には、1930年生れの曽野さんが
「私と私の世代は、この世に安全があるなどと信じたことがなく育った。」(p19)


はい。あらためてひらくと、あれもこれもと、
この世代の謦咳に接している気分になります。
傾聴したい言葉なのでひと呼吸して開きます。
  





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関東大震災の東京と安房

2024-03-29 | 地震
関東大震災の、千葉県内で各医師会による救援の状況はどうだったのか。
ここは、印旛郡医師会と長生郡医師会の例を引用してみたいと思います。

大震災で、東京と安房と救護派遣をどう判断したか。
それを、この2つの医師会の救援の様子でたどります。

県北に近い、印旛郡医師会長報によると

「・・協議の結果青年団員の代りに消防員を派することとし、
 2日午後4時頃の列車にて佐倉町医師2名、成田町医師3名、
 佐倉町成田町在住の消防員18名

 以上出県せしむ、と同時に県より電話あり、

『 房州地方の被害深甚、殆ど全滅に付上京を見合せ
  県内なる房州へ救護の赴くべし 』との事なりしも

 午後6時過に至り、出葉中の医師大畑寶治より電話にて

『 房州へは汽車不通又汽船は何時出発するや不明なること
  及び内務大臣より特派の巡査来県是非共東京へ
  医師竝救護材料差遣方懇請せるを以て一同相談の結果
  予定の通り出京の事に決せり 』と、

 2日夜は県庁構内に野宿し、3日早朝列車にて上京、 
 亀戸より徒歩途上幾多の障碍を突破し、
 内務大臣官舎に宿泊し、本所方面の罹災者救護に盡力し
 薬品材料を使用し盡したるを以て9月5日引上げ帰県す  」
   
     ( p1099 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )



次に千葉県中央部の茂原に近い長生郡から、長生郡医師会報の引用。


「・・・7名にて救護班を組織し9月3日午前11時茂原警察署前より
 自動車に乗り大多喜より勝浦に向ひ、勝浦警察署にて
 房州方面道路の模様を聞かんとしたりも能はず、
 自動車を乗り換へ鴨川警察署に著し状況を聴取す。
 家屋の破壊相当大なるも傷者の救護を要するものなし。

 鴨川より先方は道路狭し自動車其の他乗物一切通らず
 警察署長と相談し自転車一両を借り入れ鈴木(才次)班長独り
 先方の状況視察し今後の行動を定めんとし・・・・

 和田付近県道亀裂多く自転車の通行も困難なり、
 此の状況を鴨川町に残したる班員に告げんと
 鴨川警察署に引き返せば既に天津に引き上げたと・・・・

 警察電話利用し9月4日朝に至り小湊町ホテルに在宿せるを知り
 午前8時集合し、勝浦駅より初発汽車に乗し午後4時茂原に帰り
 報告す、房州救護班を解散す。
 4日夜は茂原警察署前の救護所で東京よりの避難民を救療する。」


この班長だった鈴木才次氏は、そのあとに東京へと向かっております。

「9月5日午前11時茂原発、汽車大網駅で乗り換へ(土気隧道不通の為)
 成東で亦1時間待ち乗り換へ、佐倉で乗り換へ千葉で乗り換へ、
 午後7時薄暮亀戸駅著、戒厳司令部列車内に在り・・・ 」
                   ( p1187~1189 同上 )

このあとは、東京の被災の様子があるので引用しておきます。


「 亀戸小学校内亀戸町本部に到るを得
  福田会に一泊す、寝具も蚊帳も無く一睡もするを得ず。

  救護材料は千葉県庁より支給され消防部長川島先行し、
  千葉県知事より内務大臣宛の文書と共に千葉駅より
  持込んだので充分有るから6日午前3時50分亀戸を出発
  
  九段坂は何んの邪魔もなく眺められ、
  一望焼野原石炭は未だ盛んに燃てゐる焼死体は諸所に散乱し、
  江東川中には水死体ブクブク浮き居り悪臭鼻を突く。

  人形町、小伝馬町、本石町を過ぎ丸の内に入り
  馬場先門より二重橋前に到り一同整列皇居三拝国家の安泰を祈り、
  内務大臣官舎に行き衛生局横山助成の指揮を受け、
  警視庁衛生課長小栗一雄に面会更に命を受け
  
  亀戸警察署宛の添書を持ち亀戸小学校庭で
  一般被害者を救護する事となる。亀戸警察署の報告にて
  同署に収容せる500人の鮮人中負傷者60余名あり、

  我が班にて之を救護す可く申出で外科的治療を応急処置す、
  午後1時より亀戸小学校に救護所を設け治療す。

  大部分は火傷で食傷下痢患者少数有り
  午後6時半持参の材料を使用し盡くし一時閉所す、
  同治療所に活動せる人々は鈴木班長外6名

  他の救護手は各所に知人を尋ね一般救助をする事と決す。
  9月7日林八郎副班長主任とし更に活動し8日午後林班長帰茂し解散す。
  9月20日茂原消防組救護手に夫々感謝状を送る。
  9月27日震災義捐金を募集す。     」

                    ( ~p1190  同上  )

 





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防災士教本の教え。

2024-03-28 | 地震
日本防災士機構に『防災士教本』というのがあります。

前回に引用した

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。
                        ・・・・  」
(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月)

ここを引用したあとに、思い出したのですが、
特定非営利活動法人の日本防災士機構に『防災士教本』があります。
そこに、こんな箇所があったのでした。

「ただ、組織を『 防災 』に特化したものと考えるのは適当ではない。
 一生に一度あるかどうかの大災害のためだけの組織を、そのために
 機能させるのはむずかしい。

 日常的にたとえば、地域のお祭りや盆踊り、餅つきなどの
 地域レクリエーション、清掃、子ども会活動などに生きるような
 組織として位置づけられていなければ、いざというときに動けない。

 組織も資機材も、ふだんの地域のコミュニティ活動と一体になって
 いなければいけない。ふだんやっていないことを、大災害のときだけ
 機能させようと思っても無理だということを知っておかなければならない。」
         (  p32 「防災士教本」平成23年11月第3版  ) 


はい。私の場合はというと、「安房震災誌」に出てくるエピソード、
『御真影』を倒潰家屋からとりだし、檜の木の上に置いた場面から、
神輿渡御の際に、神社から御霊を神輿へと遷す行為を連想しました。


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檜の木の下で。

2024-03-26 | 地震
『御真影』について、今の私に思い浮かぶ光景というと
たとえば神社の御霊(みたま)を神輿へ遷す行事でした。
これなら、神輿があるたびに私は見慣れている光景です。

安房郡長大橋高四郎が、震災当日の安房郡役所の倒潰を前にして

「 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
  郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
  出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
  そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
  県への報告も、青年団に対する救援の事も、
  皆な此の樹下で計画したのであった。    」
              ( p232~233 「安房震災誌」 )

まずもって、心の安定を郡長の最優先事項として行動している姿などは、
つい最近ひらいた本の、はじまりにあった言葉が思い浮かんできました。

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。

  東北地域を襲った未曾有の大地震で、海外メディアは、
 『 自然災害や混乱が起きた後に必ずある略奪 』が
  日本では起きていないことについて、
  驚きと称賛の声を上げていたものだ。

  大地震や津波で多数の命が奪われ、寒さの中で
  水道やガス、一部電気が止まるという惨状の中でさえ・・・・  」

(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月) 


ここに、東北の大震災と出てきておりました。
テーマの『安房郡の関東大震災』からは、離れてしまいますが、
東日本大震災の年に、たまたま発売日が同時となった文庫が2冊。

 寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫・山折哲雄編)
 寺田寅彦著「地震雑感・津浪と人間」(中公文庫・細川光洋編)

どちらも初版発行が2011年7月25日となっておりました。

ここでは、角川ソフィア文庫の山折哲雄解説から引用してみます。
解説の最後の方に、和辻哲郎の「風土」を紹介しておりました。

「和辻哲郎は日本の風土的特徴を考察するにさいして、
 その台風的、モンスーン的風土については特筆大書して
 論じてはいても、地震的性格については何一つふれてはいないのである。

 これはいったいどういうことであろうか。和辻はそのとき、
 数年前に発生した関東大震災の記憶をどのように考えていたのだろうか。」(p155)

こうして、解説は和辻と寺田寅彦との比較に着目しておりました。
それはそうと、山折哲雄氏はその解説のなかで、寺田寅彦の文を
直接に引用している箇所があります。それを孫引きして終ります。

「単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。
 日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で
 八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは
 当然のことであろう。

  山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。

 それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。
 また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到るところの
  集落に鎮守の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。

 ・・・・・・・鴨長明の方丈記を引用するまでもなく
 地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い
 国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先
 からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡っているからである。 」
                         ( p152~153 )


はい。コロナ禍で中止だった神輿渡御が昨年再開しました。
もう人数が少なくなり、子供会も解散したようですが、
子供会有志ということで子供神輿も昨年担いでいます。

7月の連休をつかっての神輿渡御なので、他所に出ている
若い夫婦も子供たちを連れて帰って来るようで思いのほか
昨年は子供たちがあつまり、それが印象に残っております。 


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地涌(じゆ)菩薩

2024-03-18 | 地震
「安房震災誌」に
県庁への急使とともに、
「手近で急速応援を求めねば」と思案して、もうひとつの
急使を探しあぐねている安房郡長の姿が書かれております。
そして久我氏が見つかると

「 その時の郡長は、ありがた涙で物が言へなかった。
  と後日郡長の地震談には、何時もそう人に聞かされた。 」(p233)

そして、この手近の諸村からの応援が来る

「 すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
  即夜に総動員を行って、2日の未明から、此等の団員は
  隊伍整々郡衙に到着した。・・・  」(p233)


私は、このくだりを読んでいると、つい思い浮かべる本があります。
それは門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」。
そこに出てくる文でした。それは宗教にかかわる話題の箇所でした。
はい。今回はそこを引用して終ります。

吉田昌郎氏の洋子夫人の言葉に、免震重要棟に本を持って行ったとあります。

「・・若い頃から宗教書を読み漁り、
  禅宗の道元の手になる『正法眼蔵』を座右の書にしていた。
  あの免震重要棟にすら、その書を持ち込んでいたほどだ。 」
                   (p345  単行本の第22章 )

そして、そのあとに小見出しで「その時、菩薩を見た」という文が続きます。

「吉田が震災の1年5カ月後、2012年8月に福島市で開かれたシンポジウムに
 ビデオ出演した際、現場に入っていく部下たちのことを、

『 私が昔から読んでいる法華経の中に登場する
 ≪ 地面から湧いて出る地涌(じゆ)菩薩 ≫のイメージを、
  すさまじい地獄みたいな状態の中で感じた 』

 と語ったことだ。これをネットで知った杉浦(高校時代の同級生)は
 この時、ああ、吉田らしいなあ、と思ったという。

『 ああ、吉田なら、命をかけて事態の収拾に向かっていく部下たちを見て、
  そう思うだろうなあ、と思ったんですよ。
  吉田の≪ 菩薩 ≫の表現がよくわかるんです。

  部下たちが、疲労困憊のもとで帰って来て、
  再びまた、事態を収拾するために、
  疲れを忘れて出て行く状態ですもんね。

  吉田の言う≪ 菩薩 ≫とは、法華経の真理を説くために、
  お釈迦さまから託されて、大地の底から湧き出た無数の菩薩
  の姿を指していると思うんですが、その必死の状況というのが、
  まさしく、菩薩が沸き上がって不撓不屈の精神力をもって
  惨事に立ち向かっていく姿に見えたのだと思います。

  そりゃもう凄いなあ、と思いましたねえ。
  部下の姿を吉田ならそう捉えたと思います。
  ああ、これは、まさしく吉田の言葉だなあ、と思ったし、
  信頼する部下への吉田の心からの思いやりと優しさを感じました 』 」
                 ( p347~348 単行本の第22章 )
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関東地震の余震。

2024-03-04 | 地震
まずは、『安房震災誌』を紐解きます。
そこにある安房郡の関東大震災を引用。

「 地震襲来の状況を記せば・・・
  南西より北東に向て水平震度起り、
  続いて激烈なる上下動を伴ひ、
  震動は次第に猛烈となり・・・

  鏡浦沿ひの激震地方は、
  大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、
  家屋その他の建築物又一としてその影を
  とどめざるまでに粉砕され、人畜の死傷限りなき・・

  続いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、
  折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、
  余震毎に必ず此の鳴動を伴った。・・・・  」(第1編第1章p3~4)

 安房郡の地図を示しながら語られてもいます。

「 震動の大小は・・・館山湾に沿ふた・・・
  8町村が、最も激震で、その震動の勢いは、
  内湾から、一直線に外洋に向って東走してゐる。

  そして此の8町村に隣接した町村が之れに次ぐのである。」(第4章p90)


最初の方はこうもありました。

「 今回の大震災は、銚子測候所の報告によれば・・・・
  震源地点は安房洲の崎の西方にして、
  大島の北方なる相模灘の海底である。
  震動の回数は、初発より9月25日までに850回を算した。」
                     ( 第1編第1章 p2 )

安房郡からだけでなく、ひろく首都圏から見る余震については、
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版社・2003年)に
気になる記述がありますので、最後に引用しておくことに。

「 マグニチュード8クラスの代表的な地震の
  震源域(震源断層のある領域)・・・・

  太平洋プレートに伴うものとしては
  昭和27年と昭和42年の2つの十勝沖地震
  ( 平成15年には、昭和27年と同様の地震が再来 )、
  
  フィリピン海プレートの南海トラフからの潜み込みに伴うものとしては
  昭和19年の東南海地震と昭和21年の南海地震がある。

  相模トラフに関しては、言うまでもなく大正12年の関東地震がある。
  関東地震は、これらM8クラスで超一級の規模をもつ地震の中では、
  断層面の広さやすべりの大きさなど、決して最大規模のものではなく、
  むしろやや小さめの地震である。 」(p85)


この記述のあとに、関東地震の余震の特色を示しております。
はい。今回は、ここが肝心な箇所になります。

「 ・・・それにも増して(注:十勝沖地震と南海トラフと)
  関東地震による大規模余震の発生数は多い。

  M8クラスの巨大地震が発生した場合、
  M7クラスの余震が発生することはそれほど珍しいことではないが、

  関東地震の場合、その数は翌年の丹沢の余震を含めると
  実に6つに達する。つまり余震活動は文句なく超一級といえるのである。

  ・・・・伊豆半島と本州の衝突境界に近く、
  関東地震の本震の断層がすべった際に、
  特に大きくすべった周辺に大きな応力集中が
  起りやすくなることも考えられる。これらの条件は、

  一回の地震の発生で大きく変わるとは考えにくいため、
  将来再び関東地震が起こった際にも、同様に
  大規模な余震活動が起こることが十分考えられる。

  大きな地震の後には揺り返しに注意しろとよく言われるが、
  関東地震はその中でも特に注意が必要な地震だったのである。」(p85)


はい。私の視点は、首都直下地震の発生に関しての
貴重な資料として『安房震災誌』を紐解くことです。


  
  
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関東大震災の鏡ケ浦。

2024-02-25 | 地震
「安房震災誌」から、この箇所を引用。

「死者負傷者の多いのは、村落よりも市街地である。
 中にも鏡ケ浦沿ひの北條・館山・那古・船形の市街地は最も悲惨であった。

 今此の4町内に就て見るも、死者は604人の多きに上り、
 負傷者は1784人といふ大なる数字を示してゐる。

 家屋の倒潰数も、之を百分比例で見ると、
 北條は96、館山は99、那古は98、船形は92といふ多大な倒潰数である。」
                        ( p242 )

前回に、漁師町である船形の火災の状況を紹介しました。
これから、流言飛語の記録を紹介してゆきたいと思います。

これについては、『安房震災誌』のp220~221。
そして、『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894~896。
2箇所に記載があり、前著には紹介程度。後著には具体例がありました。
ここには、長くなりますが、両方を引用しておくことに。
まずは前著から

「 9月3日の晩であった。北條の彼方此方で警鐘が乱打された。
  聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。

  田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
  那古方面へ向て出発したが、掠奪隊の来るべき様子もなかった。

  思ふに是れは人心が不安に襲はれて、
  神経過敏に陥った為めに、
  何かの聞き誤りが基となったのであらう。・・・ 」

後著には、小見出しで『暴徒襲来の蜚報』とあります。
そこから引用。

「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
 人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・

 9月3日か4日の事かと記憶する・・・・
 昼の暑さと劇務にぐっすり疲れた身体、
 焚出しの握飯を立った儘頬張りながら夕食をすまし、
 ホット一息つく折しも、

 50歳前後と覚しき土地の者一人、
 左手に自転車の先きにつける瓦斯燈を持ち、
 右手に三尺あまりの棍棒様のものを提げ、
 息せき切って事務所に駆け込んだ。曰く、

『 今、那古方面より、暴民大挙八幡、湊付近まで来襲しつつあり、
  船形の漁民が食糧品奪取の目的なるらし、
  其の襲来の合図があった。  
  即ち先刻乱打された警鐘がそれである。
  私は町内各自の警戒を促し来れり 』と、

 訴へ出たのである。

 ・・・・・・変事来の通告を受けたる住民は、
 悉く燈火を消し戸締を厳重にし、婦女子子供老人を避難せしめた。

 避難所と目ざされたるは事務所の裏手の旧郡役所跡であった。
 各自は風呂敷包を背負ひ、子供の手を引き、毛布をかつぎ、
 千態万様、ぞろぞろぞろと我等の事務所に来りて保護を哀願する、

 暴動などあるべき筈なきを諭せども、蜚語におびえたる町民、
 どうしても聞き入れない。詮方なく裏手に休憩せしめた。
 見る間に身動きも取れぬ満員振を示した。

 一同も不安の思をなし今に喊声でも挙るかと心配そのものであった。
 ・・・・

 暫くにして刑事の一人来り報じて曰く、
『 先刻の警鐘は館山町下町の火災の跡に残りたる余燼、
  風に煽られ燃え上りたる為なるも、すでに大事に至らず鎮火せり 』

 と、館山方面よりの報告があった。
 派遣されたる警官隊も程なく帰り来て、
『 暴民大挙襲来事実無根 』を報告す・・・

 それにしても訴へ出でた男の軽挙を非難せざるを得ない。
 然し流言蜚語盛にして人心恟々たる折柄、
 自警的に或種の合図をなすべき、約束をつくって置いた事に
 起因することであって、あながち咎むべきではなかろう。

 只彼に今少し沈着と度胸が慾しかった。・・・   」


はい。流言蜚語の渦中にあって、
『 今少し沈着と度胸が慾しかった 』とのこと。
現在でも、拳拳服膺して、肝に命じたくなる箇所ではあります。


ちなみに、この地域的ないし歴史的関係などは、
もう少し、記録を掘り下げたどってみたいので、
つぎにも、つづけてみたいと思います。

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安房関東大震災の火災。

2024-02-24 | 地震
大正12年9月19日調べの震災状況調査表(安房郡)で、
焼失戸数を見てみると、
北條が18件。館山が55件。そして
船形が340件と多い(安房郡全体での焼失戸数424件)。

手許に「安房郡船形町震災誌」(田村シルト芳子・2012年)があります。
その、あとがきを紹介。

「・・・あまりに激しい揺れに人々は仰天し、慌てふためき、
 津波の襲来を恐れつつ、身一つで山や高所を目指して、
 道路側に倒れた家々を踏み越えてひたすら走った。

 不幸にして、折りしも秋鯖の節の火入れをしていた、
  (注:秋鯖の節とは、鰹節を作る要領と同じ? )

 西の外浜近くのいさばから出火。瞬く間に、炎火は西、
 仲宿、東地区の家々を次々と焼き尽くした。

 また、地は割れ、線路は曲がり、土地が隆起して
 海岸線は遠のき、新たな砂浜が出現し、ために
 港や堤防は機能しなくなった。
 この天変地異が起きたのは、町の鉄道開通から5年後のことである。」(p58)

この船形町震災誌の説明もあります。原本は手書きのガリ版刷りで、
印刷された和紙は二つ折りにして、こよりで綴じられている。

「 当時の船形高等尋常小学校の忍足清校長の下、
  教師たちが町の被災状況を自ら詳細に調査してまとめたもの 」

「 わが父・田村正は、昭和10年代半ばに訓導として同校に勤務した折に
  それを一部入手したようで・・・ただ、印刷が不明瞭の箇所が多く、
  通読は困難な故、改訂版を出すことを思いたった。・・・
         2012年新春   編者         」(p58)


さいごに、この冊子のはじめの方から引用しておくことに。

「町民の多くは昼餐に向かわんとする午前11時58分、
 異様な音響と共に天地振動し、怒濤に弄(もてあそ)ばるる
 木の葉の如く見えし家屋は、一瞬にして倒壊し終わりぬ。
 
 『地震、地震』と戸外に飛び出し、あわてふためく折柄、
 一回目で家屋全壊す。二回、三回と数分ならず激震至り、
 傷つきし者、死する者、親を求むる子、子を呼ぶ親・・・・・

 その混乱裡に町の西方より火災起こり、
 吹き荒む西南風に煽られ、炎々たる紅蓮は
 家より家へ燃え移り、火炎砂塵を巻き、
 風向火勢を伴い、本町の大半を焦土と化す。

 時しも≪ 海嘯襲来 ≫の流言頻りに至り、
 為に脅かされ家財道具の一物をも持たず、
 子を負い、老いの手を取り、負傷者を助けつつ
 北方の丘を目指して避難する騒擾混乱、真に名状しがたし。 」(p4)
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摂政宮(のちの昭和天皇)

2024-02-23 | 地震
今日の産経新聞(2024年2月23日)一面の左上に
「 64歳の誕生日を前に記者会見に臨まれる天皇陛下 」の写真があり。
縦見出しは『天皇陛下64歳』『能登地震復興を心から願う』とあります。

思い浮かぶのは、大正12年の関東大震災と復興でした。
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)に
山本権兵衛内閣の、震災直後の親任式の場面があります。

「 地震(関東大震災)の翌日・・・
  午後7時半、東宮御所であった赤坂離宮の広芝御茶屋にて、
  金屏風を立て燭台の灯りの下で、
  摂政宮(のちの昭和天皇)による
  第二次山本内閣の親任式が行われた。」( p83 )

ここに、摂政宮(のちの昭和天皇)による親任式のことが記してあります。

昭和天皇のご生涯の年譜をふりかえると、

 明治34年4月29日に誕生。
 明治45年7月30日明治天皇崩御、皇太子に践祚。
 大正3年4月学習院初等科ご卒業。東宮御学問所ご入学。
 大正10年欧州諸国ご巡遊。・・・
           ( 山本七平著「昭和天皇の研究」から )

ということは、大正12年9月1日の関東大震災は、22歳でした。

武村氏の記述を追います。

「・・震災発生直後に摂政宮が発した詔書である。・・

 復興事業を終えて昭和天皇が発した『勅語』、
 震災発生直後に摂政宮が発した9月12日の『詔書』、
 ならびに9月3日の『摂政宮御沙汰』の3つの文面が・・

 詔書はそのなかの一つで、
 摂政宮の御名御璽のもとに発せられたものである。 」(p123)


武村氏は、『詔書』から特に注目する箇所を引用しておりました。

「 ・・緩急その宜を失して前後を誤り或は個人若(もし)くは
  一会社の利益保証の為に多衆災民安固(あんこ)を脅かす
  が如きあらば人心動揺して抵止する処を知らず。

  朕深く之を憂惕(ゆうてき・うれいおそれる)し
  既に在朝有司に命じ臨機救済の道を講ぜしめ
  先ず焦眉の急を拯(すく)うを以て恵撫滋養(けいぶじよう)の
  実を挙げんと欲す。・・・ 」

これを武村氏は訳しております。

「 この非常時に一儲けしようとする個人や会社の利益保証に走れば、
  人心は収まるところがない。摂政宮はそれを憂慮して、
  
  政府に対し臨機応変に一番急ぐことから手がけるように求め、
  人々の心を潤すよう指示した。

 摂政宮はすでに9月3日に『摂政宮沙汰』を発して、
 被災者への1000万円(約5000億円)の下賜に言及している。・・」(p124)


はい。私も詔書を読んでみたいと思いました。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻のはじまりは
『詔書』と『御沙汰書』からはじまっておりました。
ひらくと、『詔書』は大正12年9月12日と、大正12年11月10日の2書あり。
『摂政宮御沙汰』は大正12年9月3日。こちらは4行ほどでした。

9月12日の『詔書』で、私が気になったのは武村氏の引用された
その直前の箇所でした。はい。原文を引用しておきます。

「  朕深ク自ラ戒愼シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ
   人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ盡シテ
   民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ
   非常ノ果断ナカルヘカラス
   若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス
   緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人・・・・  」

はい。このあとは武村氏が引用した箇所へとつながっております。
摂政宮の『惟フニ』というお気持ちが、滲み出ている気がします。

最後に年譜にもどりますが、
山本七平著「昭和天皇の研究」(祥伝社・平成元年)には
13歳で『4月、学習院初等科ご卒業。東宮御学問所ご入学』とありました。
それに関する箇所を本文から最後に引用しておきます。

「 天皇は小学校は学習院で学ばれた。校長は乃木(希典)大将・・・

  天皇は中等科へは進まれず、宮中の御学問所で学友とともに
  学ばれることになった。総計6人、期間7年である。
  7年はやや変則な期間に見えるが、当時にあった7年制高校と
  同じと考えてよいであろう。・・・  」(~p36)

このあとに山本七平は、その御学問所の先生方を語っていたのでした。


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静岡と関東大震災。

2024-02-22 | 地震
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)の
はじめの方に、静岡県富士郡大宮町の河合清方氏による
関東大震災後の日記が適宜紹介されておりました。
その武村氏によって日記が紹介されている箇所。

「・・余震による揺れについても気象庁の震源決定の
  信頼性をチェックできるほどの正確さである。
  その河合清方もはじめの3日間はあまりの余震の多さに
  余震ごとの記載ができなかったようで、
 9月1日は『5分、10分毎に動揺し、震動数10回』・・・
 ・・4日以降は揺れごとに記述があり、

 初めて揺れを感じなかったのは9月21日のことであった。」(p24)

そんな余震のなかに、流言飛語への指摘も日記から拾っておられます。

「一方、流言に関する記述も多くみられ、
 大きな余震の揺れがあるたびに大地震の到来を予言する
 流言が飛び交う様子がよくわかる。

 1日には『 針小棒大の流言を放つもの少なからず 』、
 2日には『 公私の団体物々しく、夜中を戒め、
       各戸また不眠不休に恟々として非常を警戒す 』、
 3日には『 不逞鮮人共産主義者来襲して、暴挙をなす旨の風説あり。
       ・・・・流説蜚語大いに衆人を惑わす 』。
 ・・
 8日のかなり強い余震のあとに再野宿の用意をしていると、
     『 不逞鮮人数十名来襲等の蜚語流説湧出し来り 』
     『 富士山噴火せりと予報する説あり 』という有様であった。」
                        ( ~p25)


はい。気になり武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院)をひらく。
その日記の9月8日をくわしく引用しておわります。

「 9月8日 晴天
  午後6時15分頃、1日以後の最強なる地震あり。・・・
  大鳴動と共に揺ぎ出し屋外に飛び出したり。・・・

  市川誠一君の如きは
 『学説に大地震の後にはそれ以上のは続発せず、と言うのは信ずべからず』
  など言うに至りぬ。これより吾も人も再野宿の用意をなす。
  午後8時頃前者より軽いけれどもやや強きものあり。
  20分時頃過ぎて又微動ありしが、その後は驚くほどのことはなかりき。
  ・・・・

  この夜は非常警戒の提灯往来し、すこぶる物々し 
  中に、不逞鮮人数十名来襲して、
  今万野付近にて青年団と闘争中なりと言うものあり。
  尖頭は堅宿に現れたりとか、巡査数十名出発せりとか、

  半鐘を乱打して鮮人の来犯を報ずべしとか、
  蜚語流説湧出し来り、人々不安の念に駆られつつあり。

  富士山噴火せりと予報するの説あり。聴く者驚愕・・・・・・
  ・・死火山なればと平然自若たるあり。数人数様の意見に混雑を極め、
  要は流言者に脅かされつつありと知りつつも、皆恐怖しつつあるなり。
    ・・・・・・
  甲州に大地震あり。甲府全滅せり。鰍沢陥没せり
  など伝わるものありて、人騒がせを為せども流言に過ぎざるべし。 」
                           (p106~107)


さて、静岡の流言蜚語の様子を紹介できたので次回は
その関連で安房郡の流言蜚語を取上げることにします。
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首都直下地震と安房郡

2024-02-21 | 地震
『首都直下地震』の定義を、まるで知らないでおりました。
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)の
はじめの方で、おそまきながら、地域の範囲を知りました。

「 首都直下地震とは関東地方の南部の
  神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、茨城県南部
  で起こるM7級の大地震を指す総称である。 」(p24)

はい。武村氏の本は題名にもあるように東京がテーマとなります。
でも、私のテーマは『安房郡の関東大震災』。あくまで地元安房に注目します。

能登半島地震でも交通路遮断による援助途絶が心配としてあがっておりました。
それに、港などの隆起によって、援助船も近づけないという状況です。
改めて、『安房郡の関東大震災』の状況をふりかえってみたいと思います。

安房郡役場と北條警察署とは、9月1日震災当日午後2時過ぎに
県庁へと急使を送ります。津波の心配もありますので、海岸線を避けながら、
県庁へとむかうことになります。

翌日、県庁へ、急使が到着します。
ところで、震災当日の県庁の様子はどうか。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にこうありました。


「かかる混乱時に於て、人々は東京に大災禍あるを知って、
 県内に之あるを知りえなかった。


 ・・警察部の記録の如く主なる警察電話さへ通ぜず
 為に県下の情況は暗中模索の情況であった。
 況んや誰か県下の安房郡その他が空前の大被害を蒙り、
 かの如き大惨状に呻吟しつつあらうとは・・・     」(p220)

そして、安房郡役場と北條警察署からの急使をうけて、

「県は一方において食糧、医療の手配を考慮すると同時に、
 他方取敢へず警備及救護に盡さしむる為に、
 2日夜県下各署から巡査を千葉市に集合し、
 翌3日朝52名の一隊を遠藤警部をして之を引率せしめ、
 自動車にて北條警察署に応援せしめた。・・・・・
 何れも軍用自動車を以て木更津町に輸送し、
 夫れより通行不能なる道路を自転車を以て急行せしめた。」
    ( p245~246 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻 )

ここには、警察署の行動の機敏さが読み取れます。
一方の、安房郡役所の急使に対する行政としての県庁の対応はどうだったか。

「2日午後2時過ぐる頃安房郡役所より急使が到着した。」 (p247・上巻)

このあとに、急使の郡書記により手記が載っており、
手記の最後の方には、こんな箇所がありました。

「疵は腫れ上り更に疲労を加へて聊か悪寒を覚えたるも、
 ・・篤き介抱により此の施療と卵子2・3個を忝ふして
 再び帰路に急ぐこととなった。

 『 帰ってふさ丸を千葉に廻航せしめよ 』
 との命を受けたからである。 ・・・・

 北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。  」(p251・上巻)


震災当日に、次々に急使を県庁へ送り出した
安房郡長・大橋高四郎は、つぎにどうしたか?

「無論、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
 北條と千葉のことである。
 今が今の用に立たない。
 手近で急速応援を求めねば、
 此の眼前焦眉の急を救うことが出来ない。
  ・・・・・・ 
 まず大鳴動の方向と、地質上の関係から考察して、
 被害の状態を判断するより外はなかった。

 そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が
 比較的被害の少ない地方であろうと断定したから、
 先ず此の地方・・・・応援を求めることに決定した。 」
          ( p236~237 「安房震災誌」 )

安房震災誌には、館山にある汽船ふさ丸と鏡丸への言及があります(p257)。
この様子は、また別の機会に紹介できればと思います。


それはそうと、もう一度、武村雅之氏の本へともどります。

「 一般にM8級の海溝型地震が発生した際に
  M7級の余震が発生することは珍しくないが、
  関東地震ほどM7級の余震数が多い地震は珍しい。 」
              (p24 「関東大震災がつくった東京」)

この本には、それに関する図と表が載っておりました。

 大正12年9月1日 相模湾M8・1 さらに、地震当日はM7が二回。
 大正12年9月2日 千葉県勝浦沖M7・6 さらに、2日はM7が千葉県東方沖。

最後に、安房震災誌からの記述を引用してみたいと思います。

「2日の正午過ぎに、又しても一大激震があった。
 1日の大地震に比較的損害の少なかった長狭方面は、今度は激震であった。
 そこで長狭方面から北條方面へ向け来援の途上に在った青年団は、
 途中から呼び戻されたものもあった。・・・・

 且つ警戒の為めに応援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、
 3日の朝になると、東京の大地震殊に火災の詳細な情報が到着した。

 斯くてはとても郡の外部の応援は望むべくもない、
 1日の震災後直ちに計画してゐたことも、
 郡の外部の応援はとても不可能である・・・・

 郡長は・・そこで、
『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばならぬ 』
 といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
 4日の緊急町村長会議は実にこの必要に基づいた。・・

 したがって会議の目的は、各町村の震災の実況、
 医薬、食料品の調査、青年団、軍人分会、其の他の
 応援が主たる問題であった・・・

 郡長は席上において、大震災においての実況と
 四圍の情勢を詳細・・述べた。そして各町村青年団は

 ① 全潰戸数が総戸数の3分の1以下なる町村は必ず他の応援救護すべきこと

 ② 被害3分の1なる町村は其青年団、軍人分会、消防組員を3分して、
    ―――1分は被害者―――
   1分は自町村の救護に、1分は他町村のそれに、而して激震地の
   救護に従事すべき員数は郡長の割当に従うべきこと
   特に北條、館山、那古、船形に出援するものは郡長の指揮に待つこと

 の割合で応援すべきことを命じた。・・・・・

 来会した町村長は何れも草鞋(わらじ)脚絆・・・
 就中、富崎村長の如きは、
『 自分の村の被害は海嘯で被害者約70は何一つ取片付けべきものも
  残されてゐないから全村こぞって応援に当ろう 』と申出た。・・」
            ( p277~278 「安房震災誌」 )



 
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たとえば、地震の隆起。

2024-02-19 | 地震
たとえば。宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」に、
電車が、水をかきわけて走ってゆく場面がありました。
その時は何となく見ておりましたが、水害などの被災を
目の当たりにするような、身近な、実感として思い浮ぶ。

たとえば、幸田文著「崩れる」を読んだ時に活字で思われたことも、
こうして、災害が多発するようになると、それが実感として読める。

何も説明を要しない、そのままに飲みこめるような気がしてきます。

さてっと、能登半島地震の隆起に関する記事を昨日読みました。
こうあります。

「石川県能登地方を中心に1月1日に起きたマグニチュード7.6の
 能登半島地震では、半島北岸から西岸にかけての広い範囲で
 地盤の隆起が確認された。実は、能登半島では長い年月の間に
 何度も発生した地震で、海岸の隆起が繰り返されてきたという。・・」
           ( 産経新聞2月18日の特集記事 )

 掲載されている図には
「 約4メートル隆起した皆月湾付近
  地震後、海岸線が約200メートル移動 」とあり、
  地震前と地震後の海岸線が隆起した写真が載っておりました。

ところで、私は「安房郡の関東大震災」をふりかえっているのですが、
こと隆起に関しては、津波よりも説明がしにくい感じをもっておりました。
今ならば、ごく自然に理解され、隆起の話ができそうな気がしております。

たとえば、関東大震災当時、安房で学生だった和田金治氏の文があります。
それを引用。

「私が安房中学(当時の)に入学したのは、大正11年であった。
 翌12年の9月1日が関東大震災であった。
 木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。・・・・・

 ・・その前後に北条海岸に出て見て驚いた。
 昔の安房中学では、たしか5月だったと思うが、
 創立記念日の行事として、海での学年毎のクラス対抗の
 7人乗りのボートレースが行われたが、そのボートを
 保管しておく艇庫があった。それが何と、はるか
 丘の上の方に飛び上がっているように見えるではないか。
 もちろん艇庫自体が飛び上がる筈はない。・・・・隆起したわけである。

 館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の3級(白帽)をもらうべく、
 頑張って沖の島往復をやったが、その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、
 ほとんど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。」
          ( p592 千葉県立安房高等学校『創立百年史』 )


あとひとつ、関東大震災での隆起のエピソードを引用させてください。

関東大震災当時の安房郡和田町。その真浦地区の威徳院には
元禄16(1703)年の元禄大地震大津波の石碑があります。
それは墓塔として建てられ、1752年に供養塔として立て直され、
さらに、摩滅につき1831年に供養塔が再建されてありました。

その和田町で関東大震災が起きた際に、
港の中は、隆起した岩がゴツゴツと出ておりました。

これについては、「安房震災誌」に記録があります。

「 和田町には火災も海嘯もなかったが、
  海水は見る見る減少し、漁港その他沿岸一帯の
  岩石は露出せしかば、定めし海嘯襲来せんと、
  老若男女は安全地帯へと馳せ集まった・・・・ 」(p215)

この本には、もう一ヵ所記述がありました。

「 和田町は大震当時干潮甚だしく沿岸一帯の
  岩石露出せるを見て町民は海嘯襲来の前兆と思ひ、
  
  一家を挙げて山野に避難する者も夥しかったが、
  9月15日、農商務省より門倉技師、及川技手の両氏視察せられ
  なほ陸地測量部より技師出張せらるるに至り、全然、
  ここは土地隆起の結果なるを知るに至った。・・・・  」(p84~85)




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気持の揺れがおさまっていく。

2024-02-15 | 地震
昨年は、関東大震災から100年でした。
昨年7月、市で災害関連の講演会がありました。講師は鍵屋一氏。
その中で、私に忘れがたい言葉があったのでした。

『 想定外のことがおこると小学生以下の判断力になる 』

と講師が語り、それがあとあとまで印象に残りました。


それはそうとして、『避難の支援者がいない』という箇所には、

  支援者には負担感が強いとして、とっさの場合に
  自分から助けを求めることがしにくいことを考慮して、

  とっさの場合、声をかけることの重要性を指摘しておりました。
  それも別々に、3人くらいが声をかけてくれるとなおよいそうです。



田尻久子著「橙(だいだい)書店にて」(ちくま文庫・2023年11月)
をひらいていたら、その講演を思い出しました。

田尻さんは、1969年熊本市生まれ。熊本市内に雑貨と書店を開店。
とあります。はい。私はパラパラ読みなのですが、
この本は、短文の随筆をまとめた一冊なので、お気楽にひらけます。
そのなかに、『ヤッホー』と題する8ページほどの文がありました。
はい。そこを引用したくなったんです。

「 ご近所さんの顔が見えるということが、いちばんうれしく
  頼もしく感じたのは、地震のときだった。

  知っている顔が見えて、こんにちは、と挨拶を交わす。
  余震が来ると、大丈夫? と声をかけあう。

  そんなささいなことで、気持ちの揺れがおさまっていく。
  こわいね、こわかったね、一人でそう思っているより、
  誰かと言い合うと、こわいが少し淡くなる。 」(p233)

「 地震のときは、ものすごく落ち込んで内側に閉じこもる人と、
  動き回っていないと落ち着かなくて、休む間もなく動いている
  うちにテンションが上がってしまう人がいた。

  私は間違いなく後者で、動きを止めてしまうことが不安だった。
  どちらであろうと、平常心でないことに変わりはない。

  だから、彼女(ミチコさん)のこの軽口に、とても助けられた。
  こわばっていた体がするするとほどけていくようだった。 」(p234)

登場するミチコさんが、どんな人かは読んでのお楽しみ。
うん。それ以外の文にも私に思わぬ拾い物がありました。
  
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大震災の安房と県庁

2024-02-11 | 地震
「安房震災誌」(編纂・千葉県安房郡役所・大正15年3月)
「千葉県安房郡誌」(編纂兼発行所・千葉県安房郡教育会・大正15年6月)

この2冊は、こと関東大震災の記述は、お互いの記録を共有しておりました。
それから、もう1冊。
「大正大震災の回顧と其の復興」(上下巻・昭和8年8月発行)
こちらは、千葉県罹災救護会とあり「編纂を終へて」を読むと
編者・安田亀一となっております。
この3冊目は、千葉県全域における関東大震災への救援などを含むもので、
安房の大震災関連記事は「安房震災誌」資料をきちんと載せておりました。

私が語っている、安房の関東大震災は、この3冊の資料によっております。

震災当日の県庁では、どうだったのか?
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻
そこにこうありました。

「かかる混乱時に於て、人々は東京に大災禍あるを知って、
 県内に之あるを知りえなかった。

 ・・警察部の記録の如く主なる警察電話さへ通ぜず
 為に県下の情況は暗中模索の情況であった。
 況んや誰か県下の安房郡その他が空前の大被害を蒙り、
 かの如き大惨状に呻吟しつつあらうとは・・・     」(p220)

いっぽうの安房郡役所では県庁への急使をどう選んだのか?

9月1日の午後2時過ぎ。県への使者を郡長は選びます。
それが、佐野郡書記でした。その後に、

「重田郡書記は自ら進んで、この大任に当たらんと申し出た。
 安藤郡書記も亦た同様に申し出た。・・・

 そこで、重田、安藤の2氏は、佐野氏の出発後、
 共に郡衙(ぐんご)を立ち出て、千葉へと向はれた。

 県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
 第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。

 ・・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる
 1時半頃、他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、
 報告の使命を果たしたのであった。・・・    」(p235∼236)

そして「大正大震災の回顧と其の復興」上巻。

「安房郡に於ける被害や混乱状態の意想外なるものあることは、・・
 重田郡書記の陳述の外、小野防疫監吏が昼夜兼行にて重田群書記と
 前後して北條から齎した報告に依って明瞭となったので、

 県は一方に於いて食糧、医療の手配を考慮すると同時に、
 他方取り敢えず警備及救護に尽くさしむる為に、
 2日夜県下各署から巡査を千葉市に集合し、
 翌3日朝52名の一隊を遠藤警部をして之を引率せしめ、
 自動車にて北條警察署に応援せしめた。

 又一方未だ不明なる鴨川、千倉方面も被害甚大なるべきを予想して、
 千倉署へ21名、鴨川署へ10名の巡査を巡査部長指揮の下に派遣した。
 何れも軍用自動車を以て木更津町に輸送し、それより通行不能なる
 道路を自転車をもって急行せしめた。   」(p245∼246)
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後藤新平の震災復興。

2024-02-09 | 地震
注文してあった古本が昨日届く。
「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)。
624円+送料240円=864円。はい。帯つきで、きれいな一冊。

読みやすく、興味をもつ方には、ありがたい一冊。
とりあえず、関東大震災の際の首都はどうだったかを引用。

「1923(大正12)年8月24日、時の首相加藤友三郎が亡くなり、
 外相の内田康哉が臨時に内閣の首相を務めていた。

 28日には海軍大将の山本権兵衛に次期内閣を組織するよう『大命』が
 降下したのだが、組閣は難航し新内閣はまだ発足していなかった。」(p18)

こうした状況のなかで、関東大震災がおこる

「・・内田臨時首相、水野錬太郎内務大臣ら内閣の閣僚は
  首相官邸の植込みの中で閣議を開いた。
 
  臨時震災救護事務局を特設し、臨時徴発令の発布、
  戒厳令の一部地域への適用などの応急処置を取ることになった」(p18)

この次に、山本と後藤とが登場しておりますので、そちらも引用。

「この日、山本は海軍の社交クラブである築地の水交社に陣取って
 組閣の準備をしていた。そこへ大揺れが来てやむを得ず自宅へ帰った。

 翌日の9月2日の模様について、山本はこう回想している。

『 火につつまれた地震の一夜が明けると、どこからともなく
  流言蜚語(りゅうげんひご)が伝わって来た。

  思う人を呼びにやっても、なかなか来ないし、又情報すらない。
  実に気が気でなかった処へ、来たのが後藤(新平)伯爵であった。
  
  ・・伯が来て、大体の様子も判った。依って自分は、
  これでは、完全の組織を望む訳には参らぬ。しかし、
  内閣は一日もむなしくすべからず、2、3の人とでも
  一緒となって働こうというと、伯は勿論やります、というのだ 』

うん。もうすこし引用して今回はおわります。

「 ・・・こうして後藤新平は山本内閣の内務大臣に就任し、
  以後『帝都復興』に主導的な役割を果たすことになる。
  9月2日、山本や後藤の活動により、どうにか閣僚の人選が進んできた。

  農商務大臣兼司法大臣になった田健治郎はこう回顧している。

『 9月2日に山本伯からただちに親任式を赤坂離宮に於いてするから、
  参内の用意をして来てくれと、うんもすんもなく私の家
  ――多摩川にある――へ迎いの自動車を寄越して来た。
  ・・・・あの地ゆれのする中をその自動車に乗って・・・ 』

 大蔵大臣には後藤みずからが時の日銀総裁である井上準之助の
 説得に出かけた。井上はこう語っている。

『 閣僚の顔触れも揃わぬ所に後藤子爵が行って、
  こうなった以上は何が何でも内閣を組織しなければならぬ。

  こういうことを非常に力説されて、その足で私の所に2日の日に来られて、
  とにかく内閣を拵えなくては仕様がない、
  前内閣の人はそれだけの責任は負わないし、
  この惨状を眼の前に見て躊躇して居る場合ではない、
  山本伯にもそう話して賛成して居られるからということであったのです」
                          (p21~22)


こうして、9月2日夕、電灯とてなくローソクでの山本内閣親任式。


うん。せめて、ここも引用しておわります。

  9月12日 『帝都復興の詔書』公布。

「・・・詔書が発せられた3日後の9月15日、
 摂政官(のちの昭和天皇)は焼土東京を巡視し、後藤内相も従った。・・

 後藤の『東京計画』について、昭和天皇は強い印象を持たれたようだ。
 関東大震災60年目の1983年、昭和天皇は記者会見で

『 復興に当って、後藤新平が非常に膨大な計画をたてたが、
  いろいろの事情でそれが実行されなかったことは
  非常に残念に思っています。 』と発言されている。 」(p35)



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