和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

作家と編集者と

2023-09-30 | 本棚並べ
井波律子著「書物の愉しみ」(岩波書店・2019年)。
この書評集で紹介されている
堀田百合子著「ただの文士 堀田善衛のこと」(岩波書店・2018年)が
気になって古本で注文。それが届く。

さっそくパラパラめくっていたら、編集者と作家のことが
気になりました。

父・堀田善衛の内輪話に
『 作品の善し悪しは、編集者の善し悪しで半分決まる 大事だ 』(p197)
とあるのでした。

宮崎駿さんが訪ねてきたことに触れて、堀田善衛氏は娘にいっています。

『宮崎さんは『方丈記私記』が好きらしい。エライ人だ。・・』(p189)

本のはじめの方に、『方丈記私記』と編集者のことが出てきておりました。
最後にそこを引用しておくことに。

「1970年7月、筑摩書房の総合雑誌『展望』に『方丈記私記』の
 執筆を開始。翌年4月号までの連載でした。・・

 当時の、父の担当編集者、岸宣夫氏に執筆時の話を伺いました。
 当初、『方丈記私記』は連載もなく、単行本になる予定なども
 なかったのです。・・・・

 PR用の予告も出た。しかし、父(堀田)は書かない。
 では、『展望』に連載して、仕上がったら・・・と提案され、
 父は、それなら出来るかもしれないということで、連載が開始されたのでした。
 
 岸さんは、数年前に『展望』編集部に配属されたとき、
 誰が堀田善衛の担当をするかということになり、
 即座に手を挙げたそうです。・・・・

 以来、父が亡くなるまでの30年、父は担当編集者は
 岸さんでなくては駄目だと言い、営業部に異動しても、
 教科書部に異動しても、筑摩書房での父の仕事はほとんど岸さんが担当。
 単行本も、二度の全集も、岸さんが編集作業をしてくださったのです。」
                        ( p70~71 )

この次のページに『方丈記私記』のはじまりが引用されておりました。

「 私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、
  われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、
  また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

 『方丈記私記』は、この一文で書き始められたのでした。
 連載は、原稿が滞ることもなく、淡々と進められていったそうです。

 が、一度だけ――70年11月、父は第四回A・A作家会議ニューデリー大会
 に出席するため出かけなければならない。
 翌日がその出発日というときに、
『 岸さん、原稿が間に合わない。今日は手伝ってくれ 』
 と言われたそうです。

 岸さんは父の指示した岩波の日本古典文学大系『方丈記』からの
 引用文を書き写し、父に渡す。父はそれに続けて原稿を書く。

 そして岸さんは、次に引用文を書き写す。その繰り返しで、
 深夜に原稿は出来上がったそうです。
 わが家に泊まり込んで、父の仕事の手伝いを
 してくださった編集者は、岸さんただ一人です。

 後日談があります。・・・
 『 岸さん、あんな装丁の本はイヤだ 』・・次に、
 『 岸さん、10章分それぞれの章のタイトルを考えてください 』
 だそうです。・・・

 岸さん、編集者になって初めて作った単行本です。
 そしてこの『方丈記私記』は71年11月第25回毎日出版文化賞
 を受賞したのでした。よかったです。
 父にとってではなく、岸さんにとって、です。

 その後、ちくま文庫に入った『 方丈記私記 』は、
『 インドで考えたこと 』に続く父のロングセラーです。・・・
 後に、父は『方丈記私記』の生原稿を製本し、
 岸さんにプレゼントしました(現在、神奈川近代文学館所蔵)。」(~p73)
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しかるに今。

2023-09-24 | 本棚並べ
いつかは読もうと、そう思って
「往生要集」上下巻を、ワイド版岩波文庫で買ってありました。
はい。まるっきり、読まずに本棚にあります。

伊藤唯真著「阿弥陀 未知へのやすらぎ」(佼成出版社・昭和54年)
を読んだのをきっかけに、『往生要集』をひらこうとするのですが、
現代語訳がないと、私には手におえないのでした。

こういう場合、
伊藤唯真氏の本に引用されている『往生要集』の数行(p117)を、
本文にあたってひらいてみることにして、その近辺を読んでみることに。
うん。全然読まないより、まあいいか。

「・・・今もし勤修(ごんしゅ)せずは未来もまた然るべし。
 かくの如く

 無量生死の中に、人身(にんじん)を得ること甚だ難(かた)し。
 たとひ人身を得とも、諸根(しょこん)を具することまた難し。
 たとひ所根を具すとも、仏教に遇ふことまた難し。
 たとひ仏教に遇ふとも、信心を生ずることまた難し。

 ・・・・・・

 しかるに今、たまたまこれ等の縁を具せり。
 当(まさ)に知るべし、苦海を離れて浄土に往生すべきは、
 ただ今生(こんじょう)のみにあることを。

 しかるに我等、頭に霜雪(そうせつ)を戴き、心俗塵に染みて、
 一生は尽くといへども希望(けもう)は尽きず。

 ・・・・・     

 ・・・速かに出要の路に随へ。
 宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。」
             ( p74~75「往生要集」上巻・岩波文庫 )


はい。引用もチンプンカンプンの箇所は端折っております。
私の今はここまで、今度『往生要集』をひらくときは、
またこの箇所を読んでみることにして、
とりあえず、いつものことながら、本棚へもどします。
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空也と源信。それに鴨長明。

2023-09-07 | 本棚並べ
鴨長明『方丈記』の方丈の部屋に
「・・阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢菩薩の絵像をかけ、
 前には『法華経』を置いている。・・・

 黒い皮籠を、三つ置いてある。すなわち、その中には
 和歌、管絃、『往生要集』などの書物をいれてある。・・・」
          ( p163 ちくま学芸文庫「方丈記」浅見和彦訳 )

ここに『法華経』があるのですが、どちらも読んでもいない癖して
私が気になっていたのは『往生要集』でした。

さてっと、角川ソフィア文庫の鴨長明「発心集」下巻に
その『往生要集』に関係する箇所があるので引用してみます。

 恵心僧都が空也上人にお目にかかったこと (現代語訳p231~232)

「恵心(えしん)僧都源信が、かつて空也上人に
 お目にかかろうと訪ねて来られたことがあった。

 空也上人は高齢で徳が高く、とてもただ人には思われない。
 大変貴く見えたので、恵心僧都は来世のことを申し上げ、

『わたくしは極楽を願う心が深うございます。往生を遂げられるでしょうか』
 とお尋ねになると、

『わたくしは無智無学な者でございます。
 どうしてそのようなことが判断できましょう。・・・・
 ・・・・・・・・
 知恵や立派な行いを積んでいなくても、
 穢れた現世をうとみ、浄土を願う気持ちが強ければ、
 どうして極楽往生を遂げられないことがありましょうか。』

 と、空也上人はおっしゃった。恵心僧都はこれを聞き

『まさに究極の道理です』と言って涙を流し、
 掌を合わせて帰依なさった。

 その後、僧都が往生要集を撰述なさった際、
 この時のことを思い、
 厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)を重んじて、
 大文第一、第二の主題となさったのだ。」


この次に
「同じ空也上人が衣を脱いで松尾大明神に奉ったこと」
というのが出てきております。その最後の方も引用。

「・・・そもそも天慶(てんぎょう)以前には、
 日本で念仏の行はまれだったが、この空也上人の勧めで、
 人々は皆、こぞって念仏を申すようになった。

 いつも阿弥陀仏を称えて歩いていらっしゃるので、
 世間の人は上人を『阿弥陀聖』と言った。
 またある時には町中に住んでいろいろな仏事を勧進なさるので、
 『市(いち)の聖』とも申し上げた。

 おおよそにおいて、橋のないところに橋を架け、
 井戸がなく水不足の里には井戸をお堀りになった。
 上人は我が国の念仏の祖師と申すべき方である。

 すなわち法華経と念仏とを極楽の行業として、
 極楽往生を遂げられたことが、書物に見えている。 」(p234)


うん。鴨長明著『発心集』を読んだら、
つぎ、『往生要集』を読めますように。

そうそう。新刊で佐藤雄基著「御成敗式目」
(中公新書・2023年7月25日発行)がありました。

もう40年以上前にイザヤ・ベンダサンを読んでいたとき、
関連で御成敗式目を読んでみたくなったことがありました。
はい。そう思っただけ、それ以来ずっと忘れておりました。

あれを読みたいなどと思ってもすぐ数十年たってしまいます(笑)。
『読みたい本』が、どれだけ長いスパンを必要とするのか?
こんなのは馬齢を重ねた者しか味わえない苦みでしょうか。





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富士正晴の雑文集。

2023-08-24 | 本棚並べ
富士正晴著「狸の電話帳」(潮出版社・1975年)のあとがきに、
この本は「五冊目のわたしの雑文集」であるとありました。

これが気になり、5冊の雑文集をあつめてみることに。
はい。私は雑文集というのが好きで、まして
富士正晴氏などのは、雑文の方が生き生きしてるんじゃないか。
そう思うところがあるからで・・・。

昨日。その一冊が届いている。今朝ポストを覗くと
新聞といっしょにありました。
富士正晴著「八方やぶれ」(朝日新聞社・1969年)。
カバー絵、表紙・扉カットは、富士伸子とあります。

パラリとめくると、蚊が押し花みたいに
本の頁にはさまり、圧死してる(笑)。

この本の最後の文は「私の絵とその応援団」。
はい。ここから引用してみることに。

「高等学校を中退して、花鳥画家の榊原紫峰の長男の家庭教師を
 していた時、君、絵かきにならぬかと一度だけいわれた。
 二度といわれなかったところを見ると、
 余り見込みもなかったのではあるまいか。」(p263)

「・・紫峰氏の一言に勇奮して、絵にいそしむということはなかった。」(p264)

「戦争から帰って、板が残っていた限り、版画をほりつづけ、
 板がなくなったらやめた。」(p264)

「それと前後して、何をどう思ったのか、
 京都で二回版画展をひらいた。・・・

 二回は進々堂というパン屋の喫茶室で。
 どちらも版画を入れる額を借りるのに苦労した。
 
 伊東静雄、上野照夫、大山定一といった
 戦前からの知り合いが、文章をかいて応援してくれた。 」

「このあたりの記憶はいまは大分おぼろ気である。酒が配給制の時代であった。」

「何のときか大洞(正典)の家へ皆で寄って酒をのんだことがある。
 酔っぱらって、わたしは襖に絵をかきなぐり、
 吉川幸次郎は書をかいた。貝塚茂樹が後から、
 こうかけ、ああかけと指図していた記憶がある」

「数年前、或る日突然に、わたしの画展を東京でやって、
 びっくりさせてやろうという企てが起り、
 わたしは応援団つきで絵をかかされた。

 多田道太郎、山田稔、杉本秀太郎といった・・酒をのみながら、
 シラフで絵をかいているわたしを鼓舞激励するというわけである。

 何カ月かかかり、絵がたまると、桑原邸でそれのよりわけがあり、
 作品名は貝塚茂樹が片っ端からつけて行った。

 文春画廊で一週間足らず興行したこの画展は、その受付は豪華陣であり、
 桑原、貝塚、鶴見、吉川・・、当のわたしは照れに照れて、
 東京へも行かなかった。・・   」(p266)

はい。雑文の楽しみを味わえた気分になります。
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一人やったら厭やろから。

2023-08-19 | 本棚並べ
200円の古本に、
富士正晴著「狸の電話帳」(潮出版社・1975年)があった。
雑文集なのですが、装幀・谷川晃一。挿画・富士正晴。
最初は気づかなかったけど、薄い和紙が挟まっていて、
栞サイズ和紙に「濱田哲様 富士正晴」と、筆の署名。

うん。いっしゅん、夏の暑さを忘れました。
はい。署名本なんて私の趣味じゃないのですが、これは別でした。
そのままの、水墨画のような味わいに、手をひたしているような
( 何をいっているのやら )。

はい。せっかくこの本をひらくのですから、
ちょいと引用しなくちゃね。
「司馬遼太郎夫婦との交遊」と題する3頁ほどの文。
これは( 「司馬遼太郎全集」月報9・1972年5月)からです。
そこから引用。富士さんが電話でたずねる話からはじまっています。

「・・・司馬遼太郎は大抵のことは即座にさばき、
 さばけぬ時はわざわざ調べてくれる。親切この上もない。
 
 しかし、時には溜息をつく。
 『 あんたみたいに万里の長城をこっちに飛び、あっちに飛び
   するようなことを聞いてくるのは閉口するなあ 』
 
 こう、時にはいうわけである。
 司馬遼太郎から何かを質問してくることはほぼない。

 ・・・・ごくたまの司馬遼太郎から富士正晴への質問電話は
『 あんたこのごろ一向に電話かけてこんけど、病気してるのとちがうか 』
 とか、
『 明日、表彰式にちゃんと出るやろな。
  一人やったら厭やろから、ぼくも会場へ行って
  控え室におったげるわね。こなあかんで 』

( わたしが照れくさがって表彰式へ来ないのだと思っているのだ。
  そのくせ、ずっと前、同じ賞を彼が受けた時、彼は行かずに
  妻君に代行させた。妻君はいまだに、思い出すのもいややわ
  といっている。 )

 とにかく、司馬遼太郎の電話は優しいのだ。
 敬老の念はなはだあついのやら、
 幼児をお守りしてくれている気なのやら 
 判らない。半々であるかも知れない。   」( p236~237 )


ちなみに、あとがきには、こんな箇所が

「・・五冊目のわたしの雑文集がこれである。
 すべて、松本昌次、濱田哲、松本章男、藤好美知、高橋康雄の
 五人の編集者の方の随意の原稿選択、随意の配列、随意の造本、
 随意の表題によるもので、

 著者としてはどんなものが出来上るか大変楽しみが多かった。

 そういうわけで、本の出来方が一貫しており、
 わたしの感謝の念も、五人の編集者の方々すべてに
 一貫して存在しているという気がする。

 いわば、五人の方々がわたしを廻し遊んでいるような気がしないでもない。
 『 らかんさんが揃たらまわそじゃないか 』という具合にである。
 大いに感謝したい。   」(p295)


そうかそうか、本にはさまっていた栞は、
感謝をこめた、宛名書き署名だったのだ。
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茨木のり子の、おんぼろさんぼろ。

2023-08-14 | 本棚並べ
本の帯に「詩人の家を撮影」とある
「茨木のり子の家」(平凡社・2010年)があった。

この家でしかお目にかかれないような玄関ドアとその取っ手から
はじまる家の紹介写真。二階の書斎の本棚に、それはありました。
スクラップブックや別冊太陽にまじって「暮しの手帖」が何冊か。

さてっとKAWADE夢ムック(文藝別冊)の「花森安治」(2011年)に、
茨木のり子の文「『暮しの手帖』の発想と方法」を読むことができました。

そのはじまりから引用。

「『暮しの手帖』の創刊は、敗戦後まもなくの
 1948年(昭和23年)の秋であった。 B5判、96頁で、定価は110円。
  ・・・・・・・

 創刊号の出た翌年、私は結婚しているが、
 色彩のまるで乏しかった当時、創刊号の表紙の
 あざやかさは店頭で強く印象づけられたものの、

 なぜかその時は買わなかった。
 何号目かを友人が結婚祝いとして持参してくれて、
 それからは毎号を買って現在に至っている。
 約23年間にわたる読者であってみれば、
 何がしかのことは言えなくてはならないだろう。・・・ 」(p129)

「わが家の『暮しの手帖』はむき出しで本棚に並び、
 しかも背表紙に、その号のポイントとなる項目
 二、三が書き出されている。

   松江・精神分裂・ムウムウ
   紬・ドレッシング
   いなり寿司・空巣・湿疹

 などなど・・・・
 暮しの実態そのものが、まったく多次元の事柄の
 待ったなしの同時進行という性格だからやむを得ない。
 
 活用しつくすためには、本はおんぼろさんぼろとなろうとも、
 たえず身近にあり、すぐひっぱり出せなければ意味がない。 」(p132)

茨木のり子さんが使う言葉の『おんぼろさんぼろ』。
上下二段組で16頁もあるこの文は、私にしてみると、
茨木のり子の詩の納得理解への魅力的な入門書です。

あれこれ引用したいのですが、最後に雑誌に関連してここを引用。

「いずれにしても、これほど勝手気ままに、
 自分たちのやりたいようにやって、当初から節を曲げず、
 なおかつ着実に部数が伸びてゆき、現在80万部(この文は昭和48年のもの)
 というのは、考えてみれば、随分と太い話である。

 志は壮だが、たちまちに沈没したとか挫折したとかは、
 戦後いやになるほど私たちは見てきている。

 出版業とのみは限らない。
 何か新しい仕事を始めようとする人びとに、
 意志をいささかも曲げることなく、かつ
 あきないも十分成り立ってゆく『暮しの手帖』のいきかたは、
 一種の勇気を与えてくれそうに思われる。

 『 この雑誌にぼくたちは生涯を賭けている 』と、
 花森安治は40号で語っているが、その気迫は十分に伝わってきて、
 大言壮語を感じさせない。     」(p131)



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≪ 手作り ≫で。

2023-08-13 | 本棚並べ
「花森安治といえば」なんてことを思いながらとり出してきたのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・2010年)。

目次の第9章「すてきなあなたに」のなかに、「花森安治の死」と小見出。
その文に、花森さんが書いたあとがきが引用されてます。

『(前略)一号から百号まで、どの号も、ぼく自身も取材し、写真をとり、
  原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正をしてきたこと、

  それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、
  よろこびであり、誇りである、ということです。

  雑誌作りというのは、どんなに
  大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、
  
  所詮は≪ 手作り ≫である、
  それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。

  だから、編集者は、もっとも正しい意味で≪ 職人(アルチザン)≫
  的な才能を要求される、そうもおもいます。

  ぼくは、死ぬ瞬間まで≪ 編集者 ≫でありたい、とねがっています。
  その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く
  汚している、現役の編集者でありたいのです。(後略) 』

こう大橋さんは引用したあとに
「 花森さんが一世紀百号に書いたあとがきです。それから8年、
  その文章のままに、最後の日まで赤ペンを持って、仕事を続けたのでした。」
        ( p214~215 )


そして、次のページには、田宮虎彦氏からの手紙が引用されております。

「 しばらくして田宮虎彦さんから手紙が届きました。
  田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。
  ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した・・友人どうしでした。

   
    花森君があれだけのことができたのは、
    もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、
    やはりあなたの協力があったからこそだと思います。

    こんなことを私が言うのは筋違いであり、
    おかしなことかも知れませんが、

    花森君が力いっぱい生きることが出来、
    あのようにすばらしい業績を残したことについての、
    あなたのお力に対し、あつく御礼を申上げます。

    ・・・・・・・
    花森君がなくなってもう一カ月以上すぎてしまいました。・・ 』」

                 ( P216~217 )
    
     
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中田喜直の「夏の思い出」

2023-08-01 | 本棚並べ
牛山剛著「 夏がくれば思い出す 評伝中田喜直 」(新潮社・2009年)。
はい。古本で購入しました。
著者の牛山剛氏は、1931年生れ。
「テレビ朝日の音楽プロデューサーとして『題名のない音楽会』などを制作」。
本の「おわりに」で牛山氏はこう書いております。

「先生が亡くなられて、私はすぐにふたつのことが頭に浮かんだ。
 ひとつは、
 先生の作品を唱う音楽会を、できたら毎年開催したいという思いである。
 もうひとつは、
 先生の人と音楽を紹介する本が、きっとそのうち出版されるだろう、
 それへの期待であった。

 前者は、夫人の幸子さんと相談して、翌年から
 『 水芭蕉忌コンサート 』として実現させることができた。
 しかし、私が期待した本は・・出なかった。・・7年の月日が
 過ぎ去ってしまったとき、もしかしたら私が書かなければならない
 のだろうか、と思った。・・・    」(p267~268)

はい。充実した内容の評伝となっております。読めてよかった。

「完成した≪ 夏の思い出 ≫はシャンソン歌手の石井好子によって歌われ、
 昭和24年6月12日から一週間放送された。中田音楽の真骨頂ともいえる
 リリックで優しいメロディは、たちまち人々の心をとらえ、
 日本人の愛唱歌として口ずさまれるようになってゆく。・・・・

 石井好子は、これを唄った頃を思い出して綴っている。

 『戦争があり敗戦を迎え皆貧しく不幸だった頃、
  ≪ NHKラジオ歌謡 ≫で歌うことになった。

  中田喜直作曲・江間章子作詞の≪夏の思い出≫。
  喜直さんが推薦して下さったと聞いて有り難く、嬉しかった。

  私はその頃クラシックからはなれ、ジャズやシャンソンを
  歌い始めたものの手探り状態で、いったい自分が何を歌って
  ゆくべきか分からず悩んでいた。・・・・

  ある夕方、私は自宅の近くを歩いていた。
  ラジオから≪ 夏の思い出 ≫の歌声が聞こえた。
  私は立ちどまり、垣根越しに家の中から流れてくる
  自分の声に耳を澄ました。

  辛かったあの頃、絶望的でもあったあの頃、
  ≪ 夏の思い出 ≫を聞きながら ・・・・
  かすかな希望を持った事が忘れられない 』
       (「第六回水芭蕉忌コンサート」プログラムより)」(p99)


「この≪ 夏の思い出 ≫を合唱曲に、あるいはオーケストラ演奏に
 編曲した音楽家は多い。作曲家の若松正司(まさし)もそのひとりである。」

「 若松はこう語っている。
 『喜直先生の一周忌のパーティの最後に、
  全員がその場に立って≪ 夏の思い出 ≫を唱いました。

  歌手たちが目を真っ赤にして唱っているのを見て、
  皆同じ思いなのだと思いました。私は・・・移動して顔をかくして
  いましたが、涙が止まりませんでした。

  ≪ ちいさい秋みつけた ≫は短調なので、確かに音楽的に
   しみじみとなりますが、実はそれ以上に、明るい曲調の
  ≪ 夏の思い出 ≫が私の心を揺さぶりました。

  江間章子作詞の≪ 思い出す ≫という言葉のところで、
  帰らぬ人となられた喜直先生が今いらっしゃるのは、
  ≪ 遥かな ≫≪ 遠い空 ≫のようにも思えたりします。

  あのメロディの美しさは、すこしも深刻ぶらなかった喜直先生そのままの、
  飾りはすべて削ぎとられている淡々とした美しさだと思います。 』 」
                    ( p99~101 )

本文は、序章の次に、第一章~第十一章、さらに最終章まで、
各章ごと原石をカットしてゆくような輝きを私は感じました。
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図書館の本の9割9分以上は。

2023-07-26 | 本棚並べ
昨日のブログに、コメントを頂き、
それについて思い浮かんだのが、図書館でした。

隣りの市の図書館は、あんまり大きくはないのですが、
地域の資料を調べに、先週行ってきました。
本の名前を告げると、検索してくれて、持ってきてくださった。
ありがたい。図書館に所蔵されている地域の高校の記念誌など数冊。
八十年史とか、百年史とか、酪農の百年史とかまで、
本の名前をいうと、それはありませんとか、あれば持ってきてくれました。

それはそうと、図書館。
渡部昇一著「知の井戸を掘る」(青志社)に、図書館が出てきます。

「私はドイツへの留学前と留学後のしばらくの間、
 大学図書館に警備員兼務のような形で住み込んでいたことがある。

 だから、一日のいかなる時間でも必要な本を見ることができた。
 文字どおり、図書館は我が家だった。
 
 しかし、その時こんなことを考えた。
 『図書館に住んでいるということは、何と便利なことであろうか。
 研究のはかどり方も違う。

 しかし、この図書館の9割9分以上は、私の関心とまったく関係がない。
 関係があるものだけなら、もっと小さな図書館でも十分に間に合う。
 将来、自分用の極小ライブラリーの中に住むわけにはいかないだろうか』

 これが私が書斎を持とうと決心した理由の一つである。・・・ 」(p100)


うん。世のなか、公平に書こうなんて思わなければ
案外、極小ライブラリーは夢ではないかもしれない。

はい。地方の図書館で、地方の本を読ませてもらいながら、
そう思いました。
それに、私が買うような古本は、安いわけですし(笑)。
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賢治作詞と曲と随筆的作品。

2023-07-18 | 本棚並べ
宮沢賢治の農学校教師時代の作品
『台川』『イーハトーボ農学校の春』『イギリス海岸』を
読んでみたいと、新潮文庫の宮沢賢治本の目次をひらいても見つからない。

うん。ここまできたのだから。ということで
筑摩書房「新修・宮沢賢治全集」全17巻(別巻1冊含む)が視野に浮かぶ。
この全集を、欲しい一冊ごとに別々に買うよりも、
古本だと、全集で買ったほうがお得感があります。
ちなみに、全集が5950円 × 送料1250円 = 7200円。
ということは、1冊が424円ほど。それで買うことに。

到着した本をひらくと、
『新修宮沢賢治全集』第14巻に、各当する作品がありました。
『台川』『イーハトーボ農学校の春』『イギリス海岸」など、
それらをまとめて『随筆的作品』と見出しをつけてあります。

ちなみに、『新修宮沢賢治全集』第7巻の最後の方には
『歌曲』と見出しがあって、楽譜もついて並んでいます。
『精神歌』『黎明行進曲』『角礫行進曲』『応援歌』・・・・。
『精神歌』は、川村悟郎の原曲と作曲として2つの楽譜がありました。
21曲もあります。ほかに、私が知っている曲といえば、
『星めぐりの歌』『月夜のでんしんばしら』などもありました。

全巻月報もついている。
なんだか、贅沢な気分になります。
はい。全集を買っても、数冊しか読まないだろう癖して。
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愛着がわく賢治本。

2023-07-16 | 本棚並べ
食べ物もガツガツと食べられない癖して、美食を欲するように、
本も全集を読めない癖して、特定箇所だけを読みたいと欲する。

ちょうど、私が今、読みたいと思っていた宮沢賢治がそこにありました。
森荘巳池著「野の教師 宮沢賢治」(近代作家研究叢書86)。
うん。ここは続橋達雄氏の解説から紹介。

「・・『野の教師 宮沢賢治』は新書判・・・
 1960(昭和35)年11月28日、普通社から出版された。

 口絵写真に1937(昭和12)年ごろ撮影の岩手軽便鉄道を収め、
 それらを含め全256ページ、本文251ページ。
 『花巻農学校精神歌』を巻頭に据え、章立てはしないものの
 実質的には10章から成る。内容は、賢治が1921(大正10)年 
 12月3日から26(大正15)年3月31日まで在籍した農学校の教師時代、

 『 この4ヶ年はわたしにとって / じつに愉快な明るいもの 』
 (「春と修羅」第二集『序』)だったと繰返しなつかしんだ生活を、
 当時の教え子や職場の同僚の回想を交えてまとめたものである。

 具体的には、佐藤隆房『宮澤賢治』、
 関登久也『宮澤賢治素描』『続宮澤賢治素描』などから
 農学校教師時代のエピソード数篇を選んで整理し、

 自ら司会して賢治の同僚から聞き出した話(座談会記事他)
 などを加えて一書にまとめている。これは、農学校教師像に
 焦点をあてて、それまでに集められたエピソード類を
 簡潔に整理した最初のものであった。・・・・

 巻頭に据えた宮沢賢治作・川村悟郎作曲『花巻農学校精神歌』は、
 本書ぜんたいを包みこむものであろう。・・・
 『精神歌』について堀籠文之進に語らせ、自らはほどんど語らない。
 その禁欲的な扱い方が、これを巻頭においた意味をかえって
 鮮明にしていると思われる。・・・・・

 先を急いでしまったが、教え子の語る賢治像と、
 教師になるまでのエピソードを集める『彼の周辺』との間に、
 同僚などからみた教師像、ときには、教師の肩書をとった人間像、
 が語られる。それは、教え子の目に映じた人間像と交流しあって、
 農学校教師としての賢治像をいっそうふくらませていくのである。
 ・・・・・        」

はい。今の私は、賢治のこういう本を読みたかったでした。
まだ、読んではいないけれど。出会えてよかった一冊。
 


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賢治童話と、しかるべき年齢。

2023-07-15 | 本棚並べ
本棚に、未読本がありました。
旺文社文庫『銀河鉄道の夜』(昭和45年)。
はい。すっかり忘れているくらいなので、
古本でつい買って読まずに、そのまま本棚に収まった一冊かと思います(笑)。

最後をひらくと、
入沢康夫(いりさわやすお)の『賢治童話との出会い』がある。
うん。5頁ほどの文を読んでみる。
興味深かったのは、賢治童話と年齢の指摘でした。


「もしもぼくが小学生のころに賢治の童話の多くのものに
 出会ってしまっていたならば、話の筋を辿って一応は面白がりはしたろうが、
 〈真の魅力〉にはほとんど触れ得ずに、賢治の童話が判ったつもりになって
 いたかもしれない。そして、そんなふうに思いこんでしまったことのために、
 その後の賢治童話の神髄に参入することができなくなったり、
 かなり邪魔されたりしたかもしれないのである。」

入沢氏ご自身のことを語ってもいました。

「 ・・賢治の童話の真の魅力のとりことなるには、
  小学生では少々むりで、やはり、15~6という年齢は必要だと  
  考えられるからである。ぼくの場合、それは

  あてどもない憧れと不安とにそそのかされながら、
  一人で、また時に、一、二の友人と共に、
  山野を歩き廻ったり、何やら詩らしきものを
  手帖に書きつけ始めたりしていた時期に当たっていた。 」

「 賢治自身も、童話集『注文の多い料理店』の広告文として
  書いた文章の中で、
 
  『 この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。
    それは少年少女期の終り頃から、アドレッセンス中葉に対する
    一つの文学としての形式をとってゐる 』と記し、
   
  この『 文学としての一形式 』が対象としている年齢層を指定している。
  物語の筋という点だけでいえば賢治の童話のうちかなりの数のものは、
  小学生にも理解でき、それなりに面白がることもできるだろうけれど、

  その≪ 真の魅力 ≫を
  ( それはまた『≪ 真のおそろしさ ≫を』ということでもある )
  感じとるためには、しかるべき年齢が必要であるということだと思う。」


はい。『しかるべき年齢』というのは、私の場合70歳。
待ってました。これから賢治童話との遭遇になります。
はい。遅いということはないです(笑)。これからです。

といっても、この旺文社文庫の本文はいまだ未読。
いったい、何十年前に買った古本なのやら。貰ったのやら。
あるいは、それ新刊で買ったのやら、すっかり忘れてます。


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宮沢賢治の教師生活。

2023-07-13 | 本棚並べ
「賢治の教師生活は大正10年12月から同15年3月まで、
 4年4か月続けられた。」
( p208 萬田務著「孤高の詩人宮沢賢治」新典社・1986年 )

この萬田氏の本には、すこしあとに

「賢治の妹たちは
『兄のようにたえず何かを考えている人間はきっと長つづきはしまいと思った』
(堀尾「年譜宮沢賢治伝」117頁)らしい・・・」(p213)

年譜をひらけば、
大正15年・昭和元年(1926年)30歳
     3月31日花巻農学校依願退職・・・
昭和8年(1933年)37歳
     9月21日午後1時半死亡。

この萬田氏の本には、こんな指摘がありました。

「・・生徒たちとの交流を扱った
 『 台川 』『 イーハトーボ農学校の春 』『 イギリス海岸 』
 等の随筆的な作品がある。 」(p171)

はい。この3つの作品が読みたくなります。
萬田氏の文をつづけます。

「『台川』は生徒を引率して遠足に出かえた折のことが素材になったものである。」

「『イーハトーボ農学校の春』も実習風景を扱ったものである。
  明るい春の太陽がいちめんに降りそそぎ、
 『 太陽マヂックのうたはもう青ぞらいっぱい、
    ひっきりなしにごうごうごうごう鳴って  』いる。」

 「 教師としての歓びあふれる体験が書かれていることは
   『台川』と変わりはない。異なるのは
   『台川』における教師の独白が、純然たる内的独白であったのに対して、
   『イーハトーボ農学校の春』のそれは生徒への語りかけになっていることである。

   さらに後者は、楽譜が挿入されたことによって
   音楽のリズムとことばのリズムがひとつに溶け合って、
   それがいわばミュージカル的効果を生み出している。・・・ 」

 「 『イギリス海岸』も夏休みの15日の農場実習の間に、
   『私ども』が『イギリス海岸』と命名したところで、
   生徒たちと遊んだ体験を扱ったものである・・・・

   この作には・・・・
   物事に対して知的好奇心をもつならば、
   それまで及びもつかなかったような歓びが発見でき、
   さらに現前の世界もいっそう広がるのだということである。

  『猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸』を
   イギリス海岸と命名した理由が詳細に書かれているのもそのためである。

  農学校の生徒といえども、農業に興味をもっているものばかりだとはいい難い。
  否むしろ、親に薦められて厭々入学した生徒のほうが多いだろう。

  そんな生徒たちに少しでも農業に対して興味をもたせることができたら、
  という希いが、この作品を書かしめたと思われる。 」( ~p173 )


あらたに、初心者の私が読んでみたい作品が紹介されておりました。
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『草むしり』の禅問答。

2023-07-06 | 本棚並べ
火曜日に届いた古本に、
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社・2002年)。内容は、
編集者としてご自身の日記から、故人をしのぶ箇所をとりあげてあります。

はい。こういうのは、横着なパラパラ読みには格別の味わいがあります。
ここはひとつ、芳賀幸四郎先生にまつわる古い日記をひらいている箇所。
そこを引用してみることに。

「 昭和40年9月16日 草むしり五徳

 今日は、昨日の敬老の日の代休日。10時頃から庭掃除。午後5時に終わる。

 何時だったか、芳賀幸四郎先生と話をしたときのことだった。
 君の趣味は何だね・・と。
 僕の趣味は草むしりですよ・・・と答えた。

 先生は、臼井君には魂消(たまげ)たよ・・・と、
 その理由はいったい何だと、それを言え、
 それを言わんと帰さんぞと禅問答みたいになり、
 結局草むしりの十徳か五徳かを語りあった。

 〇 個、孤独の自分が発見出来るということ!
   毎日毎日、誰かと何かを、いやな話ばかりに追っかけられている。
   禄でもない話ばかり。せめて一人になりたい。
   草むしりは自分をひとりにするものだ。

 〇 雑草の生命をきくことが出来る!
   草むしりである以上、雑草を取るのだが、
   雑草とて生きんがため、生命をかけて生きている、
   その姿を発見出来るということ。

 〇 土の感触から大地の呼吸を感じられる。・・・・

 〇 自問自答の時間が得られる!
   ぶつぶつと、何をつぶやいてもいい。
   自らが自らに問いただすこと。そのことの意味は大きい。
   そのことが出来るのは、この時間をおいて外にはない。禅ぐらいか?

 ・・・・・・・そんな話をしたことを思い出す。
 面白いことを言う奴だ、と笑われた。・・・・・    」( p106 )


ちなみに、芳賀徹のお父さんが芳賀幸四郎。

昨日、待っていた、新潮文庫の古本「注文の多い料理店」が届く。


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本と草むしり。

2023-06-13 | 本棚並べ
晴耕雨読じゃないけれど、
雨が降るこの時期、雑草がみるみるうちに伸びますね(笑)。

私みたいな怠け者は、畑をきれいにするなどと大それたことは考えません。
とりあえず、草刈り機で刈って、とりあえず見た目がきれいならよしとします。

まったくもって、本読みも同様な始末。
そういえば、本と草刈りとを結びつける指摘がありました。

「・・万葉学の澤瀉久孝先生が、私の学生の時分に、
 万葉集の研究をすると言っても、

   すぐに誰も解釈のつかなかった、読みの通らなかった
    難解な歌に喰らいつくのは、これは愚の骨頂であって、

 学問というものは足許の草むしりから始めなさい、

 とにかくまったく誰もが異存のない、・・・・
 そこから学問が始まると、そう教わったのであります・・・   」

  ( p18~19 谷沢永一著「読書人の立場」桜楓社・1977年 )

という箇所があり、『愚の骨頂』で出来上がった自分が思い浮かびます。
ちなみに、この本には、本の資料集めについても指摘されておりました。
はい。なるほどなるほどと思い、最後にはこちらも紹介しておきます。

「 ・・・高い本は絶対に買わない。・・・・
  貧学生といたしましては、出来るだけ零細な、
  あまり人の目につかないような資料を、
  安く気長に集めて必要な一通りの量に持って行く。

  だから、これは欲しいと思っても高いものは 涙をのんであきらめる。
  20数年間その方針に徹して参ったわけであります。・・   」(p14)


それにつけても、雑草を目の前にして
『 足許の草むしり 』が気になる梅雨のこの季節ではあります。
 


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