産経抄(2025年3月6日)の曽野綾子追悼コラムのなかで、
曽野綾子著「夫の後始末」へと触れておられた。
それが気になり古本で注文(講談社・2017年)。届く。
三浦朱門は、1926年(大正15年)生まれ。
「夫・三浦朱門は2015年の春頃から、様々な機能障害を見せるようになった。
内臓も一応正常。癌もない。高血圧も糖尿病もない。
私と違ってすたすた長距離を歩く人であった。しかし
その頃から時々、すとんと倒れるようになった。・・・・
どこが悪いか検査するための入院をしたのが2015年の秋だが、
その短い入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が
衰えるのを感じた。ほんとうに恐ろしいほどの速さだった。・・ 」
(p6~7)
作家・曽野綾子氏による、大局的な視点が語られております。
「 この本を書く理由は私が現在、多くの日本人が直面している
典型的なケースを生きているからである。・・・
気がついていても、どうにもできないこともある。・・・
ほとんどの人が覚悟もできないままに、思ってみなかった
新たな問題に直面しつつ生きることになる。
そうした失敗談の報告者として、作家は適任だろう、と思った・・
作家は、美も醜も、道徳もふしだらも、成功も失敗も、
同じような姿勢で書ける訓練を積んでいる。
だからうまくいけば報告書になるのである。 」
この報告書のなかには、友人たちの言葉がところどころに
はさまれておりました。その友人たちのなかには
「 私はカトリックの修道院の経営する学校に育ったので、
友人の中には修道女が多い。常にその中の何人かは、
アフリカの僻地に入って、子供たちに字を教えたり、
小さな診療所で働いたりしている。 」
こういう方々や他の方々の言葉も混じります。
『 「話さない」は危険の兆候 』という箇所を紹介。
「 ・・老人が言葉少なになったら、一つの危険の徴候である。・・・
会話も同じである。幼いとき、若いうちから、年相応の
爪先立ちしない自然な会話力に馴れるためには、
国語力も、自分を保つ勇気も、いささかの知識も、
他者に教えてもらうという謙虚な姿勢も、
すべて学んでおかないと、老年の生活に滑り込めない。
・・・・だから私たちは会話のできる人として
老後を迎えなければならない。
自宅で家族に面倒を見てもらうにしても、
老人ホームで暮らすにしても、
『 ありがとう 』を言える習慣に始まる会話を続けることは、
むしろ老人の任務と言っていいほどである。 」( p84~86 )
聖路加病院の故・日野原重明氏との対談での
『 やってはいけない三つ 』のことがこの本の中に
二回紹介されておりました。はい。考えさせられます。
産経抄の追悼文に「おばさん」とありました。
その話が登場するのも、この本にありました。
「・・・息子は独立し、夫は私を『 おい 』と呼ぶ人でもなかったから、
或る年、息子の友達が遊びに来て、私のことを『 おばさん! 』と呼んだ
のを、これは便利な呼び方だと思ったらしい。
以来しばしば『 おばさん 』と呼んだ。・・・・
おばさんという呼び方には、様々な字が当てはまるが、
いずれにせよ、人生の助っ人になるには、いい立ち位置だ。
朱門は私に、人生のおばさんになることを望んだのかもしれない。」
( p226~228 )
はい。もう一度読み直そうと思うのでした。
これは、「週刊現代」2016年9月24・10月1日号~2017年7月1日号の
連載を、単行本にあたり、加筆修正を行いました。と最後にありました。
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